コロナ禍の前のことになるけれど、短歌の「接続と因果」にこだわっていた時期があった。主に否定的な文脈で「つつ」や「まま」や「とき」といった語を作者が恣意的に用いてることを大阪や京都の歌会で執拗に指摘していた。それはいわゆる「つぶやき+実景」の+の崩壊、短歌定型という一点のみで成り立っていた接着剤が表面化してしまうことへの気持ち悪さだった、ろうか。
先日発売されたばかりの「あこがれ」をテーマにした短歌アンソロジー(「アンソロジスト vol.4」)を読んでいてびっくりしたのは、平岡直子と山崎聡子の文体の近さだ。ふたりの文体は、もはやつぶやきと実景のような二項が一首のなかで対立せずに抱えられていく。なかでも山崎聡子の文体はひとつの完成形と言えるだろう(これに対して〈女の子を裏返したら草原で草原がつながっていたらいいのに〉と歌った平岡の近作(「録画」「黒百合」)の文体は山崎的な文体をさらに極限へ押し進めたかたちだが、現在のわたしには評価は不能である)。
お砂糖がちょっと焦げたらカラメルで、夜で、絶望的で、弱火で、
ビル街にゆっくりと夕暮れがきて大量のフラミンゴの気配だ
/平岡直子「録画」「短歌研究」2023年1月号
つきあかりのしたの警察署のようにとてもしずかな身体だったわ
音漏れのようにじぐざぐ歩いてた 夜の港を、誰かが、誰かが、
/平岡直子「黒百合」「アンソロジスト vol.4」
手芸店に紫の石を持ったまま見えなくなっていたの夕暮れ
/山崎聡子「宝石」「アンソロジスト vol.4」
公園のトイレにくらぐら産まれつつ記憶のなかに蝉声はある
/山崎聡子「Birth」「短歌研究」2022年11月号
ここまでくるともはや「まま」や「つつ」の恣意性を指摘したいとは思わない。見事な歌だと思う。手芸店の一首は、子ども時代の回想を短歌一首に仕立て上げたとも読めるが、一方で、回想をいったん経由した上で短歌的な「現在」にも手が届いている。公園の一首は、わたしが産まれた「現在」(!)を記憶のなかの蝉声を媒介とすることで浮かび上がらせる。あの、蝉声の、もう鳴り止まないんじゃないか、という時間感覚が「つつ」そのものでもある。「蝉声はある」の「は」がとんでもなく凄く、この「は」によって記憶とわたしとの地位が反転しつつ接続する。
琥珀のなか火は燻って裸のまま生まれて死ぬという甘言よ
/山崎聡子「宝石」
トンネルに入って薄くなった影を垂らして八月のおわりの帰路よ
/山崎聡子「Birth」
余談として、山崎-平岡的な回想を経由した上で短歌定型という現在に回帰する文体が採用する間投詞が「よ」であることに長らく興味がある。この選択について、実作レベルでの必然性はほとんどつかめた(みたいです)のだけど、「まま」や「つつ」や「とき」を束ねるときに用いられる間投詞が「よ」であることに疑問を持つ読者や評者もいるだろう。これに対してはそれなりの時間を掛けて作ってみるとわかってくる、としかいまは言えないが、とにかくこの文体だと一首の判子(直近の現代短歌社賞選考会を参照)が「よ」になる。
さらなる余談として、山崎の第二歌集『青い舌』は「動詞と名詞を行き来するような歌集」だと以前わたしはつぶやいていたようだが、いま読むとかなり難しいことを書いている。重要なのは、「動詞」と「名詞」の「動」と「名」で、短歌一首は往々にして「A(接続詞)B」構文を取るのだけど、山崎-平岡文体はこの構文の安定状態が崩れている、ということだろうか。こちらも手掛かりになれば。
風がたき火に混じるその日を冬と呼び風に十字を切って遊んだ
水たまりを渡してきみと手をつなぐ死が怖いっていつかは泣くの
遮断機の向こうに立って生きてない人の顔して笑ってみせて
/山崎聡子『青い舌』
参考音源
The 1975 「I'm In love With You」
宇多田ヒカル 「BLUE」
NewJeans 「ditto」
Se So Neon 「NAN CHUN」
adieu 「旅立ち」
IVE 「LOVE DIVE」
ずっと真夜中でいいのに。 「消えてしまいそうです」
Clairo 「Sling」アルバム
Remi Wolf「Juno」アルバム