橋場悦子『静電気』より20首選
相手からもわたしが見えるのを忘れひとを見つめてしまふときあり
閉めきつた部屋にも深く入(はひ)り込む切り取り線のやうな虫の音
好きな色「透明」と言ひしひとのこと思ひ出したり夕立の中
空つぽの弁当箱を持ち帰るやうだ心臓ことこと揺れて
いくつものルートがあるが乗り換へはいづれも二回必要である
白も黒もますます似合はなくなりて出勤時刻迫りくる朝
迷つても平気地球は丸いから 空の青さの沁みる十月
最後尾の札は立てかけられてゐて誰も並んでゐない店先
奥さんと呼ばるることの少なくて毎朝鍵を外から掛ける
この鍵で開くからわたしの部屋なんだ真つ暗闇に明かりをつける
信号のない交差点つつ切つてもつと遠くへもつとひとりに
ああこれは夢だと気づく夢の中片つ端から蓋開けてゐる
えんえんと西瓜割りしてゐる心地ひとり収まる深夜タクシー
日が暮れる前にどこまで歩けるかときどき桜の咲く帰り道
花冷えが一番寒い化粧したままいつまでも座り込む部屋
街路樹はなべて炎のかたちして空に届かず東京の夏
写真とは常に昔を写すもの鏡ほどにはおそろしくない
彩りにパプリカなども添へて出す これを独占欲といふのか
ぬひぐるみみたいだなんて本物のパンダ見ながら言つては駄目だ
夕暮れのとき長くして次々に知らないひととばかり行き交ふ
古着屋や美容室の鏡で見ている自分はワンルームでハンドミラーを見ている自分より遥かに魅力的だ。マンションのエレベーターや実家の全身鏡で見る自分はその中間ぐらい。鏡ってだいたいは矩形でその形から静的な存在だと思い込んでいたが、決してそうではなく、動的な存在なんだと『静電気』を読んで思った。〈夕暮れのとき長くして次々に知らないひととばかり行き交ふ〉という一首がただの都会のワンシーンには見えないように見えるのが不思議で、それは〈長くして〉に拠るものだろうか。あるいは(いや、同じことか)〈知らないひと〉ひとりひとりにきっちり出会っているからだろうか(その時間が〈長くして〉に拠って確保されているということ)。時間や空間が間延びしているのは〈ときどき桜の咲く帰り道〉を歩いていることからもよくわかるというか、このフレーズだけで満開の桜の季節までもを内包していて、その感覚が〈迷つても平気地球は丸いから〉という断言を可能にする。〈えんえんと西瓜割りしてゐる心地ひとり収まる深夜タクシー〉。おそらく後部座席の運転手と対角の位置に長さのせいで少し緩んだシートベルトをつけて座っているのだと思う(ほろ酔いの酩酊感なら真後ろに座るだろうが、だとするとドライバーの頭は西瓜にならない)のだけどこの一首に〈奥さんと呼ばるることの少なくて毎朝鍵を外から掛ける〉に通底するものを読むことも出来るだろう。余談だが、一首二段組の歌集に、長さに拠って一行になった歌が入り込んでいる歌集をはじめて見て、この点も『静電気』の世界線だな、と思った。