短歌における〈すれ〉について、他 水沼朔太郎
(a)すこし前にしばらく〈している〉を〈してゐる〉と書くと宣言したことがあったのだけど、これは口語短歌における〈すれ〉の問題を考えたかったのかもしれない。特に横書きで、具体的には我妻さんの短歌botを見ているときによく感じることだが、短歌における描写は一回では定型に馴染まないことがある。
灯台を建物として貸出す なおこの歌は自動的に消滅する/我妻俊樹
このことをメタ的に歌った歌が〈なんとなくピンとこなくて sympathy って言い直す 言い直す風のなか/平岡直子〉で、この歌は〈三越のライオン見つけられなくて悲しいだった 悲しいだった〉のセルフ本歌取りとしても読める。いわゆる口語短歌が「軽い」だったり軽いがゆえに信憑性が薄いと言われることがあるのは物理的に言葉のグラム数が軽いわけではなくて(主に横書き)一行で書かれたときに↘️から風が漏れてしまっているようなそんな状態を指すのではないかということ。
あかるくて苦しいボタン押したまま馳せてくるひと待っているのよ/我妻俊樹
(b)口語短歌でよく言われるけどけっこう適当にやり過ごしていた連体形と終止形との云々のやつ英語の関係代名詞みたいに読むとおもしろくなることがときどきあるよみたいなことか
(c)短歌の評でのなんでもないようなことを歌にしているが急に腹立たしくなってきたというかそうやって本来短歌として書かれるべきものを想定するなって話だしなんでもないようなことを歌にする場合でも普遍に突き抜けてないといけないというのも大きなお世話だ
緑道に猫のすみつく町だけがふたりをいつもかるく無視した/我妻俊樹
(d)これけっこう強く思うことだけど、短歌の読みって無理しておもしろく読みに行く必要まったくない。おもしろい歌、良い歌って自分が言われたい、が、反転してのおもしろがり、よさがりは害しかないと思う
(e)短歌って読みの集積があっという間に作りの前提になってしまうけれど最終的にはなにも考えずに作るのが一番いいどす
目の中の西東京はあかるくて駐輪コーナーに吹きだまる紙/我妻俊樹