2020年3月12日木曜日

短歌読書日記(3月上旬)

再読含めていろいろと歌集を読んだ。

宇都宮敦『ピクニック』

「髪伸びた?」ってきかれてるのに好きよと言う ざまあみろって形の口で
はらってもはらっても落ちる砂ならば連れて帰ろう どこに? どこでも
お互いのからだをまくらにまるまって ねえねえ どっちの喉が鳴ってる?

これまで〈偶然性〉っていう文脈で『ピクニック』は読んでいたけど、意外と動物とダイレクトにコミュニケーション取りにいってる歌もあったし、なんというか、〈人間の動物性を否定しない〉みたいな表現の方が適切なのかな、と思った。

ということを、

嫌なやつになっちゃいそうだよ もうじゅうぶん嫌なやつだよと抱きしめられる

この歌、もっとふたりの会話っぽい感じかと思ってたんだけど、あらためて読んでみるとふたつの文にはズレがけっこうある、というか、字あけ以降がそれまでをかっちり抱きしめてしまうわけではないんだな。どちらかというと、そのまま、お客様二階へ的なノリで次の一首へ誘導される。

という読み筋から到達した。棚からぼた餅だ。



東直子『春原さんのリコーダー』
・出来事に直接的には介入しない主体
・幽霊的な視点
・御前田あなたさんの絵のイメージの源泉ぽさ

夜が明けてやはり淋しい春の野をふたり歩いてゆくはずでした
できたての名詞のようなあやうさで静かにこわれはじめる空よ
テーブルの下に手を置くあなただけ離島でくらす海鳥(かもめ)のひとみ
遠くから見ているからね紫の帽子を被って走りなさいね
袋小路に生まれた人の額へとくらくらするほど春はさしこむ
いたのって言われてしまう悲しさをでんぐりがえししながら思う
その箱をおっとりそっと手放せばやさしく癒えてゆくよ病も
信じない 靴をそろえて待つことも靴を乱して踏み込むことも
そうですかきれいでしたかわたくしは小鳥を売ってくらしています
はじめからこわれていたの木製の月の輪ぐまの左のつめは
花まつりに瞬くレンズ切なさはひとりの体の中にはなくて

遠くから見ているからね紫の帽子を被って走りなさいね
いたのって言われてしまう悲しさをでんぐりがえししながら思う
/東直子『春原さんのリコーダー』

状況に対する視点の取り方がすごい独特で柔道的な意味での新しい受け身の方法という感じがする。歌の中で変化を起こすんじゃなくて歌に通過させる。



天井の模様に犬をきくらげを見出して見うしなううたた寝/佐伯紺

廃村を告げる活字に桃の皮ふれればにじみゆくばかり 来て/東直子

〈見出だして見うしなう〉と〈ふれればにじみゆくばかり〉の時間の粘りが実は似ている二首(どっちも読むたびになんかと、と、なっていたが、ようやく合点)。



ミニチュアになれたらきっとのぼりたいきみの苗字にあるはしごだか/橋爪志保

〈ミニチュアになってのぼりたい〉とも〈ミニチュアになれたらのぼりたくなるだろう〉とも微妙に位相の異なる〈ミニチュアになれたらきっとのぼりたい〉という望み。ミニチュアになれたけど、のぼりたくなかったな……というまさかの可能性が残されているのがひとすじ縄でなくてなんかおもしろい。


高野公彦『汽水の光』

蟬のこゑしづくのごとくあけがたの夢をとほりき醒めておもへば
粘りある炎とおもふ鶏居らぬ小屋をほどきて日暮に燃せば
ゆふぞらの隈(くま)赤きかな仔つばめの骸置きたる道を歩めば
桃の実をひらきて濡れししろがねのナイフありけり病む者の辺(へ)に
きさらぎの銀河のそらに吹きおこる風はたはたとわが夢に入る
日ざし濃き基地をめぐりてわが額(ぬか)に刻印されし金網の影
秋の夜の底ひにありししろがねの冷たきはさみ踏みあてにけり

『春原さんのリコーダー』について検索かけたら引っ掛かった永井さんの昔のブログを、さらに遡ったら高野公彦の話が出てきた。ちょうど『短歌の爆弾』にも登場してたのでせっかくだからと。

少年のわが身熱(しんねつ)をかなしむにあんずの花は夜も咲(ひら)きをり/高野公彦

たんぽぽの河原を胸にうつしとりしずかなる夜の自室をひらく/内山晶太

巻頭歌の歌のモチーフが似ているというだけで高野公彦『汽水の光』と内山晶太『窓、その他』が繋がったんだけど、全体的な歌の立ち振舞いとかもわりと近いのではないかと思いつつ、じゃあなんで内山さんの歌は二十代も読むのかと考えてみると、限りなく現在に近い現代短歌ってずらしがあっても喜怒哀楽のキャッチーなフレーズが必ず入っていて〈観覧車、風に解体されてゆく好きとか嫌いとか春の草/内山晶太〉〈心底はやく死んでほしい いいなあ 胸がすごく綿菓子みたいで/瀬戸夏子〉逆に言うとポップライン(?)で受容されるかどうかってほとんどそれだけだともいえる。



洗脳はされるのよどの洗脳をされたかなのよ砂利を踏む音/平岡直子

最初読んだときは結句の〈砂利を踏む音〉がそれこそ歌会で読みを求められるように一呼吸置いて効いているのか効いていないのかを考えていて、〈音〉まで読み下してからその音をイメージしにいっていたのだけど、それでは完全に歌に対して立ち遅れしてしまっている。〈砂利を踏む音〉は景色ではなくて〈音〉なのだから、それは〈砂利〉(じゃり)の時点で鳴り終わっている。間違っても〈砂利を踏む音〉うん(じゃりじゃり)ではない。