2022年4月15日金曜日
対立はどこにあるのかーー高橋たか子『誘惑者』、松浦理英子『ナチュラル・ウーマン』読書メモから
2022年4月14日木曜日
現代短歌の無意識(再掲)
初出はnote(2021年5月8日)
雪舟えま『たんぽるぽる』歌集一冊の面白さはわかるのだけれど、それに触発されて歌ができるということがわからない。自分の場合に置き換えてみると、かつて永井祐を読んで面白いくらいに歌ができる時期があった。原理的にはそれとおなじ仕組みなのだろうが、それは信仰と反発を同時に生む。『はつなつみずうみ分光器』でいうところの藤本玲未、山崎聡子、初谷むい。遡って、今橋愛、盛田志保子、飯田有子。柴田葵は笹井宏之賞時代の兵庫ユカだろうか。収録のタイミングに間に合わせてほしかったが、橋爪志保、平岡直子。『みじかい髪も長い髪も炎』のあとがきにあったように「短歌はふたたびの夢の時代に入った」のだと思う。しかし、この一文で何度も反芻したくなるのは不思議なことに「ふたたびの」の「の」だ。〈食べかけのベーグルパンと少年と置き去りの壊れた自転車/平岡直子〉。平岡直子を筆頭に瀬口真司、青松輝。穂村弘も夢の時代のキーパーソンになるのだろう。『シンジケート』の新装版はもう間もなく。わたしが見る夢は現在のツイッター短歌界隈のように混乱かつ退屈を極めるものであってはならない。少なくともその混乱の抜け道になっていくべきだ。辛うじて現在はその抜け道を寄り道的に享受する余裕がわたしにはあるが、皆がふたたび夢を食い合うようになればあっという間にワンルームに引き返すことになるだろう。雪舟えま『たんぽるぽる』(5刷)の帯を東直子が書いている。藤本玲未『オーロラのお針子』の帯を東直子が書いていることは東直子が監修者だから理解できるが、『たんぽるぽる』の帯を東直子が書いていることに何度も驚く。東直子も穂村弘も雪舟えまもリアルタイムでないからこそ驚く。初谷むいが『地上絵』の帯を書いているぐらいの感覚。その初谷むい、藤本玲未、前田康子の章を『はつなつみずうみ分光器』では面白く読んだ。とりわけ前田康子は『現代短歌』との付き合いなんかも薄っすら感じつつ椛沢知世の歌のクリティカルポイントが掴めた。それから吉野裕之。冒頭の引用を読んでわたしは爆笑したが、阿波野巧也はブチ切れてもいいと思った。それにしても東直子の再評価。再評価?『春原さんのリコーダー』『青卵』文庫化の反響ではなく文庫化と同時に再評価が済んだ印象がある。『みじかい髪も長い髪も炎』に東直子、北川草子の影を一切感じなかったのが奇跡のように思える。『はつなつみずうみ分光器』『みじかい髪も長い髪も炎』二冊の裏ボスは日々のクオリアの花山周子だ。〈無造作に床に置かれたダンベルが狛犬のよう夜を守るの/平岡直子〉
2022年4月2日土曜日
対立はどこにあるのかーー2022年の短歌総合誌から
はじめにわたしのスタンスを明確にしておくと『短歌研究』2022年4月号の対談「短歌は「持続可能」か。」(坂井修一VS.斉藤斎藤)における斉藤斎藤の主張(「私は短歌がほかのジャンルと違うのはその一人称性だと思っていて、三人称的に神の視点で描くものに短歌がなってしまったら、コンテンツ力でほかのジャンルに勝てない。」はまったくその通りだと思うし、坂井に「それは本当の文学じゃないと思うよ。」と言われる立場から少なくとも現在までわたしは短歌を作ってきた。
『短歌研究』2022年2月号に掲載された斉藤斎藤の連作「群れをあきらめないで(5)」に〈見る私・透明な魂・アララギズム・一人称性・写生・男性〉〈見られる私・身体・ぽうずのようなもの・三人称性・幻想・女性〉という二首が並べられている。この図式を目にして以来、対立させられてはいるが、どこか不自然さを持って対立させられているように思える〈アララギズム〉と〈ぽうずのようなもの〉の対について考えている。考えていたのだが、意外な所にヒントがあった。この二首に続いて記される詞書の部分。〈(……)A 正直ついでに小声で言うと、ぼくはさいきんの女性の歌を、正直読めてないと思う。さいきんの女性の歌の多くは、「自分のためのおしゃれ」に見えるんだ。/B どういうことだい? /A 「おしゃれ」とは、社会から見られる視線を引き受けることだとすれば、「自分のためのおしゃれ」とは、自分で自分に見られること、「見られる側」でありながら、その視線を社会から自分に取りもどすことだろう。/B 「見られる側」から「見る側」に回るのではなく、ね。/A で、ぼくは見ての通り、「おしゃれ」が全くわからないから、「自分のためのおしゃれ」が「おしゃれ」とどう戦っているのか、複雑すぎてわからないんだ。わからないものを適当に褒めるわけにもいかないからなあ……。〉。
「おしゃれ」という語彙からわたしが連想したのが水原紫苑・責任編集『短歌研究』2021年8月号の石川美南「侵される身体と抗うわたしについて」。平岡直子、北山あさひ、谷川由里子、川野芽生の歌を挙げて制度と身体について考える大変おもしろい文章だが、紙幅の半分は平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』に割かれており、実質的には平岡直子論である。「平岡の歌を読んでいると、意味内容に関係なく唐突にムッとする瞬間がある。理解しがたい服装の人を見て、自分のファッションに対する感度の低さを意識させられたときの鈍い痛みのような。そんな連想をしてしまうのは、私が平岡作品の良き読者ではないからだろうか。いや、そうではなく、このムッとする感じは作品自体によって誘発されているものであり、むしろ作品の魅力なのだと思う。」。この「ムッとする感じによって誘発」される「魅力」は鷲田清一『ちぐはぐな身体ーーファッションって何?』の引用文中の語彙から「平岡の場合は「どこまでやれば他人が注目してくれるか」というアピール感は薄いが、「のっぴきならなさ」は紛れもない。」と言い換えられる(「どこまでやれば他人が注目してくれるか」「のっぴきならなさ」は鷲田清一『ちぐはぐな身体』からの引用)(「短歌」と「ファッション」については『文學界』2021年8月号の特集「ファッションと文学」に掲載されている川野芽生と山階基の文章も必読。両者が「試着室」という空間に言及している点を興味深く読んだ。わたしにとっては「試着室」という空間も汗をかいてしまったり何か急かされているような感覚になったりでそれはそれで息苦しさの残る空間ではあるのだけど)。
現在発売中の『短歌研究』2022年4月号に先の斉藤の連作の続き(「群れをあきらめないで(6)」)が掲載されているが、ここで斉藤は虚実の問題を取り上げる。具体的には、第66回角川短歌賞受賞作田中翠香「光射す海」(道券はな「嵌めてください」と同時受賞)の作品世界についての分析なのだが、ここでの議論のポイントはこれまた詞書で書かれる〈(……)筆者が指摘しているのは、ほんとうの対立は、虚/実の手前にあるということだ。〉〈或る種の読者は、こいつ何を当たり前のことを念入りに述べているのか訝しく思うだろうし、もう或る種の読者は、こいつが何にこだわっているのか一切ぴんと来てないだろう。つまりこれは、虚/実の対立ではなく、疼く身体/疼かない身体の対立であり、〉にある。ここから〈だから前者の(水沼注:〈すなわち、身体の奥に疼きの回路を持ち合わせている読/作者は、〉)身体の奥が疼きさえすれば、犯していない罪について、うっかり虚構を立ち上げることもあるだろう。〉として作品内で〈タンク山にのぼった、わたし、明け方の夢にあなたの顔をしていた?〉という山崎聡子の一首が引用される。〈うっかり虚構を立ち上げる〉がポイントだと思う。「群れをあきらめないで(6)」の論理では身体が疼くことは虚構を立ち上げる起点になるのではない。虚構を立ち上げることのブレーキになる(山崎聡子作品についての斉藤の基本的なスタンスは短歌ムック『ねむらない樹』vol.5の座談会「短歌における「わたし」とは何か?」(宇都宮敦✕斉藤斎藤✕花山周子)に詳しい)。
『短歌研究』誌上において柳澤美晴は3月号で奥田亡羊の、4月号で斉藤斎藤の、それぞれ『歌壇』2022年1月号の特集「気鋭歌人に問う、短歌の活路」の文章を援用しつつ時評を書いているが、柳澤が援用するこの特集で最もラディカルな問いを提示しているのは平岡直子の「パーソナルスペース」だと思う。「パーソナルスペース」は永井祐論でありながら同時に「葛原妙子と森岡貞香が「斎藤茂吉をこっちにとっちゃおう」と談合していたというエピソードが好きで、わたしはこのごろ「永井さんをこっちにとっちゃおう」とだれもいない家のなかで虚空に向かって話している。」とまで言ってのける文章だ。4月号の時評の末尾で柳澤は先の北京オリンピックにおける羽生結弦の四回転アクセルへの挑戦を例に「我々は他人の眼にどう映るかを気にして「じぶんの観せ方」を決めることはやめ、もっと大胆に詠い、放胆に論じるべきだ。語り口で魅せてやるくらいの好戦的な気持ちで。」と述べるが、平岡の文章がそうでなくて一体。
ところで、『短歌ヴァーサス』vol.11(2007年)の座談会「境界線上の現代短歌ーー次世代からの反撃」(荻原裕幸✕穂村弘✕ひぐらしひなつ✕佐藤りえ)でもフィギュアスケートの例えが使われていた。長くなるが最後に引用したい(この号には斉藤斎藤「生きるは人生とは違う」も掲載されている)。
〈穂村 (……)ジャンルによってその二重性(水沼注:一次的な表現そのものが評価されると同時に表現ジャンル観が評価されること)の強さは違うと思うんだけど、短歌みたいなものはきわめて二重性が強いわけ。で、斉藤斎藤の場合、実際の一次的な表現ですごくいいって言った人の率よりも、なぜ自分は肉体練習をしないのか、っていう定型観の強度みたいな方に行ってるよね(水沼注:『渡辺のわたし』刊行後の話であることに注意されたい。わたしが斉藤の作品で最も評価するのは第二歌集『人の道、死ぬと町』所収の連作「棺、『棺』」だ)。だから彼の歌を見るというのは、その「観」を見るっていうようなところがある。その直前までは「観」じゃなくて、盛田志保子や今橋愛や、東直子、早坂類あたりの、その種の女性の一次的な言語感覚のすごさみたいなものが圧倒的に僕なんかの目には強く映っていたんだけど、それはとうとう飽和状態になって「もういい!」って(笑)。どんなに素晴らしい演技をしても、要するにお前は生まれつき身体が柔らかいだけじゃないか、って、そういう話になる。もちろんそれでいいんだよ。それでたとえばフィギュアスケートだったら、スケート観よりも実際に五回転できるってことがすごいわけだけど、短歌においては東直子とかが五回転できて、斉藤斎藤が「いや、俺は跳びませんから」みたいな(笑)、「俺のスケートは跳ばないスケートですから」みたいなさ。〉