2022年4月15日金曜日
対立はどこにあるのかーー高橋たか子『誘惑者』、松浦理英子『ナチュラル・ウーマン』読書メモから
〈まわすたび軋むキューピー人形の首はつぶせばつぶれる軽さ/平井俊『現代短歌』2018年10月号〉……するすると読め進められるのは『ナチュラル・ウーマン』。所収の三篇ともに「腹這い」の描写があった。「マットレス」も印象的。『誘惑者』で印象的だったパイプの熱(松澤龍介から鳥居哲代へ)が『ナチュラル・ウーマン』でも折々に(火、煙、根性焼き、キスマーク)。「「火口の中はぱあっと明るい」(『誘惑者』)」。言葉を投げることの大切さ。言葉が次の反応なり行動を生む(『ナチュラル・ウーマン』)。見掛け上の結果に反して『誘惑者』は行動の原因を言葉で問い続けた(最後の最後で織田薫の数え上げが鳥居哲代に反応を引き起こす)。鳥居哲代の頭から離れなかったのは砂川宮子の言葉だった。『誘惑者』で『ナチュラル・ウーマン』の容子に一番近い登場人物は砂川宮子だろう。織田薫回に鳥居哲代が感じた反復の滑稽さ。「「芝浦桟橋はまだでしょうか」と、鳥居哲代は言った。軀じゅうに笑いのようなものが突っ走った。」。『ナチュラル・ウーマン』のラストのコントラスト。「一段階段を下りた花世に背を向けて屋上へ駆け上り出した時に、下から声が追いかけた。「最後まで私たちらしいわね。あなたは高みへと上り、私は下降しーー」(『ナチュラル・ウーマン』)」。『ナチュラル・ウーマン』で一番好きな登場人物は容子、『誘惑者』では砂川宮子(アイスクリーム!)。瀬戸夏子「と」平岡直子問題。瀬戸夏子と平岡直子は同時には愛せない問題(瀬戸夏子、平岡直子に服部真里子、大森静佳も加えて「作品」というフィクショナルな領域で愛してみせたのが笹川諒『水の聖歌隊』だろう……〈月曜には月曜の姉がいることを昼、そして夜の日記に記す/笹川諒「テレーゼ」『短歌』2021年9月号〉。『誘惑者』を読みながら終盤で思い出したのが〈熱砂のなかにボタンを拾う アンコールがあればあなたは二度生きられる/平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』〉だった。しかし、大枠で言うなら『誘惑者』が瀬戸夏子的で『ナチュラル・ウーマン』が平岡直子的。穂村弘は『シンジケート』派か『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』派か。穂村単独でも問題になりうるが、この選択が雪舟えま『たんぽるぽる』の評価にも連動する(瀬戸夏子『はつなつみずうみ分光器』)ことの方に関心がある。『手紙魔まみ』「も」『たんぽるぽる』「も」は不可能なのか。わたしは残念ながら穂村弘自体にあまり関心がなく『たんぽるぽる』は批評者としては惹かれるが作者として、読者としては惹かれない(「現代短歌の無意識」参照)。かつて、瀬戸夏子は歌人・穂村弘と批評家・穂村弘の分裂を指摘したが、二次創作短歌の興隆により、現在は多くの歌人が、歌人・批評家・読者の三幅対になっているように思える。わたしの話をする。わたしは近頃は永井祐の歌にある官能性をもう少し前景化できないかと考えている。意外にも永井祐解釈において官能的なのは平岡直子よりも瀬戸夏子。『現実のクリストファー・ロビン』の永井祐評(!)。「成功した永井の歌には局部的な快楽ではなく、けだるい、しかしたしかに全身的な快楽がながれている。全身的であるがゆえに、永井の歌のうち、成功しているものほど極端に凹凸がすくなく、寸胴であり、顔もない。それこそが最上のバランスになる。」。「永井祐の歌のうち、あまりに直線が勝ちすぎるものについては、私はその恩寵を感知することができない。しかしその平板なフォルムが反射=光のゆがみによってーーたとえば、名詞の出現を呼びこむときーーその美しい名詞の出現は、凹凸をもたない器の不可視の凹凸のなかに浮かびあがってくるように思える。私はその様子を、もう、何度もみたことがある。」(瀬戸夏子「私は見えない私はいない/美しい日本の(助詞の)ゆがみ(をこえて)」『現実のクリストファー・ロビン』)。〈二種類(ふたしゅるい)色があるのでお好みを的にさびしい・さみしい選ぶ/永井祐『広い世界と2や8や7』〉。「葛原妙子と森岡貞香が「斎藤茂吉をこっちにとっちゃおう」と談合していたというエピソードが好きで、わたしはこのごろ「永井さんをこっちにとっちゃおう」とだれもいない家のなかで虚空に向かって話している。」(平岡直子「パーソナルスペース」『歌壇』2022年1月号)。「指を休ませないで花世は話しかける。/「お金が入ったら一緒に住もうか。」/「うん。」/「でも、きっと無理よね。」/「無理かしら?」/「無理よ。」/「無理なの?」/「どちらかが死ぬわ。」/「私が死ぬことはないだろうけど。」/花世は口を閉した。私は再び陶酔境に入った。」(『ナチュラル・ウーマン』)。