アサガオに寿司を見せびらかしていい?
モナリザの肩の隣に寿司がある
/暮田真名『ふりょの星』
以下、『ふりょの星』からの引用は〈〉で示す。
川柳というと言葉で言葉の意味をずらすようなイメージがあるが、これらの句はそうしたものとは微妙に違うと思う。もちろん〈寿司を見せびらか〉す相手に〈アサガオ〉を選んだり〈モナリザの肩の隣に寿司〉を存在させたのは他ならぬ言葉なのだけど、これらは一方で映像としてイメージすることが可能でもある。一句目なんかは実際にやろうとする意志があればできる。二句目は本場のルーブル美術館では出来ないだろうが、モナリザの絵をスマホでダウンロードなりスクショするかしてその上から寿司のスタンプを押せばそれらしくはなる。これらの句を面白く読んだのはこのような想像可能性も込みでのことだった。
〈ウェットティッシュの重さで沈む屋形船〉という句でも屋形船を沈めてしまう大量のウェットティッシュを想像するよりもウェットティッシュはウェットティッシュのままその重さで沈んでしまうミニチュアの屋形船を想像してみる方をわたしは好む。ウェットティッシュの容れ物自体が言われてみれば屋形船みたいだし、表紙絵のミニチュア感を連想しても良い。〈旅客機を乾かしながら膝枕〉〈扁桃腺がジャングルジムだったら〉〈どうしてもエレベーターが顔に出る〉〈コップの水にひそむ交番〉こうした句においてもミニチュア化しているのは「旅客機」「ジャングルジム」「エレベーター」「交番」の方だ。
諦念のように集中で繰り返される〈やがて元通り嘘になるだろう〉とは、言葉の次元のことではないと思う。句そのものは元通りにも嘘にもならない。特に川柳は書かれてあることを書かれてあるままに読む文芸だと思うから。〈やがて元通りに嘘になる〉ものとはわたしたちの世界におけるスケールの序列(スケールカースト)の方だ。
他には流石に代表句として小池さんに引用されすぎの感があった〈いけにえにフリルがあって恥ずかしい〉を表題で「いけフリ」と呼んだりする精神や〈涕泣の似合う木馬にしたい〉〈緞帳よりも重たい砂金〉の漢字を「さんずいに弟」「いとへんに段」で検索する動作に川柳を感じた(〈弟的な寿司なのかなあ〉)。単なる偶然かもしれないが、数冊しか読んだことのない俳句の句集で読めない漢字を検索するときは先の「さんずいに弟」「いとへんに段」のようにピンポイントで当てにいくことは難しくなんとなく似てる形の漢字で代替して検索して絞っていく漸進的な検索方法を取った記憶がある(〈桜を湯がく できないなんて〉)。
静電気でまかなう旅の交通費
/暮田真名『ふりょの星』