2024年4月25日木曜日

我妻俊樹『カメラは光ることをやめて触った』歌集評

2023年8月執筆

「歌会は評のライブではあっても歌のライブではないこと、おそらく評よりはるかに長い時間かけて歌がつくられていることについて、逆では? というのはある。即詠された歌でさえ、場合によっては何十時間もかけて読まれるべきでは? とか。」@koetokizu 2018年3月3日

我妻の歌をまったく知らない相手に我妻の歌の特徴を伝える必要があるとすれば、我妻自身のTwitterでのこの言葉を引用するのが最も適切だろう。

歌集『カメラは光ることをやめて触った』の増補部分、要するに誌上歌集「足の踏み場、象の墓場」(短歌同人誌「率」十号)以降の歌群を読んだときにわたしが感じたのは、我妻俊樹すら短歌シーンとは無縁ではない、ということだ。実際、第一部「カメラは光ることをやめて触った」に収められた歌群の大半は、Twitterアカウント上で月詠として公開されたり、Twitterでの宣伝を利用してネットプリントで発表されたりしたものだし、版元である書肆侃侃房刊行のムック「たべるのがおそい」や「ねむらない樹」に寄稿した作品も収録されているため、短歌シーンに無縁どころか、がっつりシーンの先端にいる印象すら与える。しかしながら、瀬戸夏子の栞文にあるようにわたしたちは、いや、わたしは「我妻の歌を排除」してきたように思う。

我妻俊樹をシーンの先端とすると、我妻の歌は具体的にどう変わったか。非常に抽象的な言い方になるが、以前(「足の踏み場、象の墓場」)にはあった「足の踏み場」や「象の墓場」的な面積が、限定され見切れた状態でしか捉えることができなくなった。〈砂糖匙くわえて見てるみずうみを埋め立てるほど大きな墓を〉から〈目の中の西東京はあかるくて駐輪コーナーに吹きだまる紙へ〉へ。〈目の中の〉の〈目の中〉は片目の中と読むが、注目したいのは、〈あかるくて〉という修飾。同じようにあかるさを詠み込んだ歌として「足の踏み場、象の墓場」以降の代表作の一首に〈コーヒーが暗さをバナナがあかるさを代表するいつかの食卓で〉があるが、この〈あかるさ〉は間違ってもわたしたちが我妻に与えたあかるさではない。我妻自身がみずから設定せざるを得なかった光度だ。

「カメラは光ることをやめて触った」パートでわたしが特に惹かれたのも〈好きな〉という一見排除とは相容れない歩み寄りのように思える語彙を使っている歌だ。

好きな色は一番安いスポンジの中から一瞬で見つけたい

好きな電車に飛び乗って黙っていたい大きすぎない鯛焼きを手に

安いスポンジ特有のチープな発色から好きな色を反射的に見つける、大きすぎない鯛焼きを手に電車に飛び乗った上で黙っていたいというささやかだけれどキッチュで贅沢な欲望。そうした欲望は、「足の踏み場、象の墓場」で文字通り繰り返し歌われた〈バッタ〉であることが〈うれしくて〉という一首の発情と同一線上にある。

ぼくのほうが背が低いのがうれしくてバッタをとばせてゆく河川敷

とびはねる表紙のバッタうれしくてくるいそうだよあの子とあの子


勇気なのだ 間違い電話に歯切れよく「五分で着きます!」きみはこたえた

我妻のキャリアから一首選ぶならこの歌をわたしは選ぶ。この歌は一見人間同士のコミュニケーションの本質を語っているように見えるが、「勇気なのだ」の語り手は間違い電話の受け手でも掛け手でもない。「勇気なのだ」という声に偶然ぶつかったようにも自分からぶつかりにいっているようにも思える「五分で着きます!」。勇気なのだ。二物衝撃の衝撃に内側から触れた一首。短歌のライブがここにある。