短歌における〈すれ〉について、他 水沼朔太郎
(a)すこし前にしばらく〈している〉を〈してゐる〉と書くと宣言したことがあったのだけど、これは口語短歌における〈すれ〉の問題を考えたかったのかもしれない。特に横書きで、具体的には我妻さんの短歌botを見ているときによく感じることだが、短歌における描写は一回では定型に馴染まないことがある。
灯台を建物として貸出す なおこの歌は自動的に消滅する/我妻俊樹
このことをメタ的に歌った歌が〈なんとなくピンとこなくて sympathy って言い直す 言い直す風のなか/平岡直子〉で、この歌は〈三越のライオン見つけられなくて悲しいだった 悲しいだった〉のセルフ本歌取りとしても読める。いわゆる口語短歌が「軽い」だったり軽いがゆえに信憑性が薄いと言われることがあるのは物理的に言葉のグラム数が軽いわけではなくて(主に横書き)一行で書かれたときに↘️から風が漏れてしまっているようなそんな状態を指すのではないかということ。
あかるくて苦しいボタン押したまま馳せてくるひと待っているのよ/我妻俊樹
(b)口語短歌でよく言われるけどけっこう適当にやり過ごしていた連体形と終止形との云々のやつ英語の関係代名詞みたいに読むとおもしろくなることがときどきあるよみたいなことか
(c)短歌の評でのなんでもないようなことを歌にしているが急に腹立たしくなってきたというかそうやって本来短歌として書かれるべきものを想定するなって話だしなんでもないようなことを歌にする場合でも普遍に突き抜けてないといけないというのも大きなお世話だ
緑道に猫のすみつく町だけがふたりをいつもかるく無視した/我妻俊樹
(d)これけっこう強く思うことだけど、短歌の読みって無理しておもしろく読みに行く必要まったくない。おもしろい歌、良い歌って自分が言われたい、が、反転してのおもしろがり、よさがりは害しかないと思う
(e)短歌って読みの集積があっという間に作りの前提になってしまうけれど最終的にはなにも考えずに作るのが一番いいどす
目の中の西東京はあかるくて駐輪コーナーに吹きだまる紙/我妻俊樹
2019年12月11日水曜日
2019年12月4日水曜日
(たぶん)(ひとりで)週刊短歌第3回
「ちから、ちから」再読 水沼朔太郎
前回の文章を書いているときに〈あんなこと(いいな)こんなこといっぱいあったけど正常位にて果てるAV/斉藤斎藤〉を引用するために久しぶりに斉藤斎藤の第一歌集『渡辺のわたし』(新装版)を開いた。『渡辺のわたし』で一番有名な連作は第2回歌葉新人賞受賞作にもなった「ちから、ちから」だと思うのだけど、受賞作掲載から10年以上の歳月を経てたまたま葉ね文庫にあった短歌ヴァーサスのバックナンバーを手に取りあの斉藤斎藤のデビュー作として読んだ初読の感想は連作全体の構造がよくわからない、というものだった。どれぐらいわかってなかったかというと途中に挟まれる〈二年後〉の詞書の前後に人がひとり死んでいるのすらわかっていないレベルでそのことを後に「新装版」の解説を書いている阿波野巧也の文章を読んでようやく理解した。しかしながら、それでもなお連作全体に対する掴めなさは残り続けていてその掴めなさの原因はどこに起因するのだろうと長らく頭の中に残っていたのだが、今回再読してみてその掴めなさの正体が掴めたように思う。阿波野は、
と書くように、あくまでも恋人が死んだものとして連作を読み進めている。だが、おそらくわたしが初読から引っ掛かっていたのは連作全体のクライマックス的な感もある〈雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁〉の次の一首である〈泣いてるとなんだかよくわからないけどいっしょに泣いてくれたこいびと〉の〈こいびと〉のことだ。もちろん、二年も経てば新しい恋人が出来ていてもなんら不思議はないし、現在の〈こいびと〉に二年前のことを話していなければこのような叙述も可能だろう。しかし〈医師はひとり冷静だったぼくを見た もうそろそろ、とぼくが殺した〉は恋人の死に立ち会う現場としてはいささか不自然であるように思われる。そういう経験がないからわからないけど、死の現場に立ち会えるのは恋人ではなくて家族ではないか。また〈もうそろそろ、〉というのはたとえば延命措置の呼吸器を外す決定権を〈ぼく〉が持っている、ということではないか(この点についての読みは歌集中で後に置かれている連作「父とふたりぐらし」を参照した。〈立場上ひろわずにいられなかった骨のおもさを思い出せない〉〈母の心臓マッサージする当直の医師の背中が表現だった〉〈ここぞとばかり取り乱す父さん越しに医師は私をちろりちろりと〉)。なので、わたしは〈急ブレーキ音は夜空にのみこまれ世界は無意味のおまけが愛〉の〈急ブレーキ〉は作者自身の生活(恋)に対する喩として取った。さらに、これは斉藤斎藤の作家性というか、倫理性みたいなものに踏み込むことになるけれど、斉藤は「あたらしいこいびと」は「あたらしいこいびと」ときちんと書くのではないか。以上のような、観点から連作「ちから、ちから」中で亡くなったと想定される人物は母親であるとわたしは読む。柳本々々は阿波野が〈恋人〉と読んだ対象を〈「愛」に関わるような大事なひと〉http://haiku-new-space03.blogspot.com/2017/09/blog-post_74.html?m=1と読んでいてここで書かれていることに異論はないのだけど、この文章ではこの〈「愛」に関わるような大事なひと〉が〈母親〉であるとさらに書き加えたい。思えば、「ちから、ちから」は〈のり弁〉の歌が異様にクローズアップされるけれど、連作で湧いているのは〈こいびと〉を含む女性への〈性欲〉だ。〈うなだれてないふりをする矢野さんはおそれいりますが性の対象〉〈背後から不意に抱きしめられないと安心してるうなじがずらり〉……〈のり弁〉は三大欲求では〈食欲〉に分類される。そう考えると〈これはのり弁〉にはこれは「性欲」ではない、ぐらいの意味合いしかもしかしたらないのかもしれない。
14(水沼注:まばたきのさかんなひとをながめてた 唇でぼくにはなしかけてた)はフラッシュバックする恋人の姿だろうか。記憶のことだからこそ、映像はありありと浮かべど、声をナマな形で再現できなかった、とも読める。とにかく、「君」が交通事故に遭って亡くなったということを、連作を通じて読み取ることが十分に可能だ。
(……)
19 あけがたのわたしはだしのまえあしでまるぼろめんそおるに火をともす
19の歌の前に「二年後」という詞書がある。その歌以降の時制が恋人の死から二年後であることを示唆しているのだろう。
21 ひょっとしてパスタは嫌いだったんじゃ自動改札に引っかかる
二年が経って普通の生活をしていて、自動改札を通ろうとしたときに、ふっと亡くなった恋人のことを思い出す。「パスタは嫌いだったんじゃ」と。「嫌いなんじゃ」ではなく、過去形になっている。もう確認することはできないのだ。ふとしたフラッシュバックによって自動改札に引っかかってしまうのである。
https://note.mu/awano/n/n2bb4c0d7ae98
https://note.mu/awano/n/n2bb4c0d7ae98
と書くように、あくまでも恋人が死んだものとして連作を読み進めている。だが、おそらくわたしが初読から引っ掛かっていたのは連作全体のクライマックス的な感もある〈雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁〉の次の一首である〈泣いてるとなんだかよくわからないけどいっしょに泣いてくれたこいびと〉の〈こいびと〉のことだ。もちろん、二年も経てば新しい恋人が出来ていてもなんら不思議はないし、現在の〈こいびと〉に二年前のことを話していなければこのような叙述も可能だろう。しかし〈医師はひとり冷静だったぼくを見た もうそろそろ、とぼくが殺した〉は恋人の死に立ち会う現場としてはいささか不自然であるように思われる。そういう経験がないからわからないけど、死の現場に立ち会えるのは恋人ではなくて家族ではないか。また〈もうそろそろ、〉というのはたとえば延命措置の呼吸器を外す決定権を〈ぼく〉が持っている、ということではないか(この点についての読みは歌集中で後に置かれている連作「父とふたりぐらし」を参照した。〈立場上ひろわずにいられなかった骨のおもさを思い出せない〉〈母の心臓マッサージする当直の医師の背中が表現だった〉〈ここぞとばかり取り乱す父さん越しに医師は私をちろりちろりと〉)。なので、わたしは〈急ブレーキ音は夜空にのみこまれ世界は無意味のおまけが愛〉の〈急ブレーキ〉は作者自身の生活(恋)に対する喩として取った。さらに、これは斉藤斎藤の作家性というか、倫理性みたいなものに踏み込むことになるけれど、斉藤は「あたらしいこいびと」は「あたらしいこいびと」ときちんと書くのではないか。以上のような、観点から連作「ちから、ちから」中で亡くなったと想定される人物は母親であるとわたしは読む。柳本々々は阿波野が〈恋人〉と読んだ対象を〈「愛」に関わるような大事なひと〉http://haiku-new-space03.blogspot.com/2017/09/blog-post_74.html?m=1と読んでいてここで書かれていることに異論はないのだけど、この文章ではこの〈「愛」に関わるような大事なひと〉が〈母親〉であるとさらに書き加えたい。思えば、「ちから、ちから」は〈のり弁〉の歌が異様にクローズアップされるけれど、連作で湧いているのは〈こいびと〉を含む女性への〈性欲〉だ。〈うなだれてないふりをする矢野さんはおそれいりますが性の対象〉〈背後から不意に抱きしめられないと安心してるうなじがずらり〉……〈のり弁〉は三大欲求では〈食欲〉に分類される。そう考えると〈これはのり弁〉にはこれは「性欲」ではない、ぐらいの意味合いしかもしかしたらないのかもしれない。
2019年11月27日水曜日
(たぶん)(ひとりで)週刊短歌第2回
二度あることは三度ある 水沼朔太郎
蒼井優が、まるで銀色。パソコンをおなかに載せてもういちど見る/平岡直子
https://blog.goo.ne.jp/sikyakutammka/e/c9fced3885ac60830630fd79ca76f294
https://blog.goo.ne.jp/sikyakutammka/e/c9fced3885ac60830630fd79ca76f294
歌会の初読時にも時評の再読時にもオミットしてしまった部分がちょうど一首のお腹にあたる〈パソコンをおなかに載せて〉なのだけど、せっかく(?)男性歌人のAVを(ながら)観る歌、という補助線を引いたのだから、もう少しこの〈パソコンをおなかに載せて〉いる姿勢/態勢について考えたい。時評では引かなかったのだけど、斉藤斎藤と吉田恭大に〈正常位〉を詠み込んだ歌がある。
あんなこと(いいな)こんなこといっぱいあったけど正常位にて果てるAV/斉藤斎藤
PCの画面あかるい外側でわたしたちの正常位の終わり/吉田恭大
斉藤の歌は観ているAV、吉田の歌はパソコンの外側でのわたしたちであるが、ふたつの〈正常位〉を男女の性行為と読んだ場合に仰向けになっているのは女性の方だ。それで、まあ、無理な読み筋かもしれないけれど、仰向けをベースに考えたとき、〈パソコンをおなかに載せて〉いる姿勢/〈パソコンをおなかに載せ〉る態勢というのはいわばL字型に起き上がるような格好になるのではないか。その女性がL字型に90°起き上がる運動を女性性の主体化の運動と重ね合わせることはできないか、みたいなことを思ったのだけど、と、同時にはじめはいったいどんな姿勢/態勢で見ていたのだろう?という疑問も浮かんだ。それに、〈パソコンをおなかに載せて〉いる姿勢/態勢って仰向けの状態そのものの可能性もあって、事実、発売されたばかりの『短歌』12月号の「短歌月評Ⅱ」で大森静佳はこの歌を「仰向けに寝転がって、パソコンの熱を感じながら蒼井優の動画を再生している場面。「もういちど見る」とあるから、映画やドラマのような長いものではなくてインタビューのようなもの、もしかしたら今年六月の結婚会見の動画かもしれない。」と読んでいる。個人的には大森の評では「もういちど見る」をもういちどはじめから再生する、と読んでいるのが興味深かった。というのも、わたしは〈もういちど見る〉を「あ、ぽん、ああ」ぐらいのもっともっとミクロな時間での〈もういちど見る〉だと読んでいたから。と、いうところまで書いてから、わたしが検討したかったのは〈もういちど見る〉前は必ずしもパソコンを〈おなかに載せて〉いたわけではなかったのではないか、という点で、だから、漠然と見ている〈もういちど見る〉以前はパソコンを地べたに置いて肘をついた状態で寝転がりながら見ていた可能性もある。その漠然とした状態の中で〈まるで、銀色。〉という感覚が降りてきた。だから〈もういちど見る〉というのはニュアンス的には「はじめてちゃんと見る」ことではないか。少なくともそこにはおなじ動画をおなじ感動の状態で見るのではないなんらかの質的差異が生まれているはずだ。
2019年11月20日水曜日
(たぶん)(ひとりで)週刊短歌第1回
短歌という矩形/短歌矩形の法則 水沼朔太郎
灯さずにゐる室内に雷(らい)させば雷が彫りたる一瞬の壜/小原奈実
カーテンに鳥の影はやし速かりしのちつくづくと白きカーテン/小原奈実
小原奈実が好きだと言う歌人に小原さんの歌で雷の歌とカーテンの歌とではどっちの歌が好きですか?と訊いたことがある。いい質問をしたなと我ながら思ったけれど、話の間が合わなくてその場では答えを聞けずに話は流れてしまった。この二首は小原さんの代表歌だと思うけれど、ではなにをもって代表歌か?と問われるとむずかしい。カーテンの歌は鳥の、しかもその影の速さが魅力的だ。けれど、最後には白いカーテンが残る。雷の歌も最終的に雷そのものは消えてしまう。そして、それが残した〈一瞬の壜〉という修辞に短歌が残る。短歌は矩形だ。そして、ほとんどの短歌一首は縦に長い矩形である。
灯さずにゐる室内に雷(らい)させば雷が彫りたる一瞬の壜/小原奈実
雷がさし、稲妻が走った。彫るように走った稲妻は上から下へ読むという短歌一首の運動の自然法則とも呼応して〈一瞬の壜〉の〈壜〉にソーダやコーラの壜のような縦に長いかたちをイメージさせる。さて、一方で〈室内〉は〈室内〉それ自体でまた矩形である。一首に「稲妻が走った」とは直接書かれていないことからこの〈雷〉が室内全体を覆うような光であると読むことも可能だろう。つまり、暗闇に稲妻が一本走ったのではなく室内空間の暗闇全体が光を帯びたと読む。そうすると、結句の〈一瞬の壜〉は縦に長いではなく隕石が落ちた痕跡のような円形の窪みになる。縦に長いことと面積が生じること。前者は上句から下句へという一首の運動を〈一瞬の壜〉=「稲妻」と解釈する。後者は〈ゐる〉〈たる〉からつづく右回りの円環が〈壜〉として着地する。このとき短歌一首のイメージは最後の最後で窪むがそれも一瞬の出来事だ。短歌は矩形に戻ろうとする。
雷を窓ガラスごと見てしまう四角く腕をかためた私/椛沢知世
例えば〈カーテンに遮光の重さ くちづけを終えてくずれた雲を見ている/大森静佳〉では〈カーテンに〉〈重さ〉を見ることで内側と外側を分断し、室内の外側を見せることに成功している。だが、この一首では〈私〉自身が〈雷を窓ガラスごと見てしまう〉ことによって仕切り板そのものになる。仕切り板は正確に挿されなければならない。だから〈私〉は〈四角く腕をかため〉る。短歌は矩形を志向する。
カーテンに鳥の影はやし速かりしのちつくづくと白きカーテン/小原奈実
最後の一首。この一首はあたかも短歌が矩形であることを忘れてしまったかのような一首だ。鳥の、しかもその影の速度のみを伝える。しかし、と思う。カーテンはそれ自体では風に飛ばされてしまう危険性がある。風に飛ばされてしまうのも決して悪いことではないが、カーテンはカーテンであろうとする。カーテンがカーテンであるためにはカーテンレールが必要不可欠だ。カーテンレールがあることによってカーテンは矩形をかたち作ることができる。白いカーテンが白旗のように一度揺れ、静止する。
灯さずにゐる室内に雷(らい)させば雷が彫りたる一瞬の壜/小原奈実
カーテンに鳥の影はやし速かりしのちつくづくと白きカーテン/小原奈実
小原奈実が好きだと言う歌人に小原さんの歌で雷の歌とカーテンの歌とではどっちの歌が好きですか?と訊いたことがある。いい質問をしたなと我ながら思ったけれど、話の間が合わなくてその場では答えを聞けずに話は流れてしまった。この二首は小原さんの代表歌だと思うけれど、ではなにをもって代表歌か?と問われるとむずかしい。カーテンの歌は鳥の、しかもその影の速さが魅力的だ。けれど、最後には白いカーテンが残る。雷の歌も最終的に雷そのものは消えてしまう。そして、それが残した〈一瞬の壜〉という修辞に短歌が残る。短歌は矩形だ。そして、ほとんどの短歌一首は縦に長い矩形である。
灯さずにゐる室内に雷(らい)させば雷が彫りたる一瞬の壜/小原奈実
雷がさし、稲妻が走った。彫るように走った稲妻は上から下へ読むという短歌一首の運動の自然法則とも呼応して〈一瞬の壜〉の〈壜〉にソーダやコーラの壜のような縦に長いかたちをイメージさせる。さて、一方で〈室内〉は〈室内〉それ自体でまた矩形である。一首に「稲妻が走った」とは直接書かれていないことからこの〈雷〉が室内全体を覆うような光であると読むことも可能だろう。つまり、暗闇に稲妻が一本走ったのではなく室内空間の暗闇全体が光を帯びたと読む。そうすると、結句の〈一瞬の壜〉は縦に長いではなく隕石が落ちた痕跡のような円形の窪みになる。縦に長いことと面積が生じること。前者は上句から下句へという一首の運動を〈一瞬の壜〉=「稲妻」と解釈する。後者は〈ゐる〉〈たる〉からつづく右回りの円環が〈壜〉として着地する。このとき短歌一首のイメージは最後の最後で窪むがそれも一瞬の出来事だ。短歌は矩形に戻ろうとする。
雷を窓ガラスごと見てしまう四角く腕をかためた私/椛沢知世
例えば〈カーテンに遮光の重さ くちづけを終えてくずれた雲を見ている/大森静佳〉では〈カーテンに〉〈重さ〉を見ることで内側と外側を分断し、室内の外側を見せることに成功している。だが、この一首では〈私〉自身が〈雷を窓ガラスごと見てしまう〉ことによって仕切り板そのものになる。仕切り板は正確に挿されなければならない。だから〈私〉は〈四角く腕をかため〉る。短歌は矩形を志向する。
カーテンに鳥の影はやし速かりしのちつくづくと白きカーテン/小原奈実
最後の一首。この一首はあたかも短歌が矩形であることを忘れてしまったかのような一首だ。鳥の、しかもその影の速度のみを伝える。しかし、と思う。カーテンはそれ自体では風に飛ばされてしまう危険性がある。風に飛ばされてしまうのも決して悪いことではないが、カーテンはカーテンであろうとする。カーテンがカーテンであるためにはカーテンレールが必要不可欠だ。カーテンレールがあることによってカーテンは矩形をかたち作ることができる。白いカーテンが白旗のように一度揺れ、静止する。
2019年11月14日木曜日
永井祐とエポケー
前回のブログ更新からちょうど一ヶ月。なにか書きたい、という気持ちだけがある状態だったのでツイッターで「なにかお題や話題や課題を」とつぶやいたら(たぶん課題枠だろう)ベテラン中学生(青松輝)さんから「永井祐」というリプライがきた。
去年の9月に出した合同歌集『ベランダでオセロ』の100首の中で〈永井祐〉を詠み込んだ歌を2首入れた。他に歌人では〈瀬戸夏子〉が1首、〈相良宏〉が1首だから歌人名詠み込みランキングでは堂々の第一位である。〈永井祐〉や〈瀬戸夏子〉を歌に詠み込んだのは個人的に愛着があることも理由のひとつではあるけれど、それとおなじくらいわたしから見てひとつ上の世代の象徴的存在であるからというのもあった。
意外に思われるかもしれないけれど、わたしが最初に永井祐の歌に魅力を感じたのは瀬戸夏子が運営していた〈短歌bot〉だった。『日本の中でたのしく暮らす』に所収の歌だと
だるい散歩の途中であったギャルたちにとても似合っている秋だった/永井祐
ゴミ袋から肉がはみ出ているけれどぼくの望みは駅に着くこと
あたり(確実にそれとわかるのが意外となかった)。他に、瀬戸夏子『現実のクリストファー・ロビン』に引用されている〈運動会の日のような朝 3Fのマックで食事を取る女の子〉〈ピンクの上に白でコアラが みちびかれるように鞄にバッジをつける〉あたりも歌集を読む前の段階の比較的早いタイミングで目にした記憶がある歌だ。並べた4首はいずれも自分から遠いもの、異なるものとの邂逅の瞬間がものの見事に示されている。
ところで、永井祐の歌の後の世代への影響というのは基本的には永井祐から男性歌人へという文脈で語られることが多いように思う。思う、というかわたしはそう考えてきた。しかし、今回あてもなくぼやぼやと書いているうちにいま挙げた4首のような歌と一番読み心地が近いのは最近の歌集だと寺井奈緒美『アーのようなカー』のいくつかの歌ではないかと思い始めた。
だれのものでもなくなったマイメロディのキーホルダーが小枝に揺れる/寺井奈緒美
背景を書き込みすぎてくどくなる漫画のようにゆっくり歩く
立ち読みをしている人の首筋に虹色の縄をかける日差し
火事を見る人の背中はちいさくて帰るタイミングを探してる
寺井の歌の場合は遠いもの、異なるものとの邂逅の瞬間というよりも社会的な文脈ではグレーゾーンに位置するような事物や場面を一度その枠組みを外して捉えようとしている。エポケー(判断を留保すること、括弧を取り除くこと、色眼鏡を外すこと)という言葉は歴史的には写生の文脈で使用されてきたけれど、ここにあるのは価値観のエポケーと呼び得るような事態ではないか。
2019年10月14日月曜日
『歌壇』11月号を読みました
「読みたいコンテンツがふたつある号の総合誌はとりあえず買っておけ!」とは短歌生活5年目になるわたし自身の言葉だ。自分自身の言葉に従って『歌壇』を数年ぶりに購入した。ちなみに、先月は『短歌研究』『現代短歌』に加えて低迷著しい『短歌』も買ってしまった。そろそろ購入基準をコンテンツふたつからみっつに上げるときが来ているのかもしれない。そんなわけで久しぶりのブログ更新である。昨日(さくじつ)のプロ野球、いだてん、ラグビー、バレーにつづき本日は出雲駅伝があったのだが、泣く泣くブログを更新する。さて、短歌における神的な力と言えば選歌をおいてほかにないだろう。本来ここでは「短歌はフォース(霊力)だ」(吉川宏志)を持ち出して短歌実作者の力を褒め称えるのが賢明なことなのかもしれないが、わたしはあんまりわたしたちの作歌能力に関心がないので自主却下としたい。選歌、というのはなにもあの大物選者群による選だけを指すのではない。わたしたちは短歌をやる限りにおいてつねに選歌をしている。「この連作ではこの歌が一番好きでした」も立派な選歌だ。しかし、一方で、なぜあの歌ではなくこの歌なのか?と真面目に考えだすとなかなかにむずかしい。つまり、選歌とは歌群から歌を選び出すという選別的/絶対的な作業にもかかわらずその作業には必ず比較化/相対化がつきまとう。
ページの端がちょっと折れても元気でね若者や恐竜のようにね/平岡直子
『歌壇』2019年11月号の巻頭作品20首から。たとえば、20首から強制的に好きな短歌を1首決めれるまで帰れませんというゲームがあったとしたらわたしはこの1首を選んで早々に帰宅するだろう。だが、帰宅の際にマイクを向けられて「この1首の魅力は?」と聞かれたらわたしはなにも答えたくない。間違っても若者と恐竜を並置しているところに云々などとは。それでもなにか意味のある言葉を言わなければならないとしたらそのときにこそ使いたい。「短歌はフォース(霊力)だ」と。
歌そのものを直感で掴んでその掴んだ直感を時系列的に評というかたちで開示しそれによって評の読み手と直感と直感でつながるのはあまりいいことではないのでないか、書くということは自身で掴んだ直感をいったん別のかたちに置き換えた上でおこなわれるものなのではないか、という指摘を間接的に耳にしたことがあった。この言葉は掴んだ直感をできるだけ正確にトレースすることでなんとか評の体裁を保っていたわたしの耳にとってもとても痛い言葉であったけれど……
ところで、このブログ全体をわたしは「短歌の空間」と名付けている。短歌とはなにか。あるいは、定型とはなにか、韻律とはなにか、という類の問いは定期的に持ち上がる話題だけれど、たとえばおなじ今月の歌壇に載っている〈位牌より大きく墓石より小さく夜よりほんの少しだけ暗く/藪内亮輔〉をひとつの短歌の空間として把握することは可能だろうか。この歌は短歌のことを歌っているという発言が持つ白々しさには同意した上で「これは短歌だ」と口に出してしまったその手前にあったはずの空間。それを言語や紙の物質性に訴えてしまうとたちまちにどの歌でもそうじゃんとなってしまう、ゆえに、それはやはりそこで訴えられる類のものではない空間。それを、神秘化させないための、選歌。
ページの端がちょっと折れても元気でね若者や恐竜のようにね/平岡直子
位牌より大きく墓石より小さく夜よりほんの少しだけ暗く/藪内亮輔
2019年8月27日火曜日
小中英之『翼鏡』について
明日、月と600円という歌集を読む会で第一歌集『わがからんどりえ』のレポートをするのだけど、それにあわせて現代短歌文庫で第二歌集『翼鏡』も読んだのでせっかくだし簡単に感想を書いておこうと思う。『翼鏡』については今月頭に出た『ねむらない樹』vol.3の「忘れがたい歌人・歌書」のコーナーで栗木京子が取り上げているので興味のある方はそちらもぜひ。その文章で栗木さんが「とりわけ印象深い」歌として挙げている集中ラストの
茅蜩のこゑ夭(わか)ければ香のありてひときは朱し雨後の夕映
はわたしもいい歌だと思う。茅蜩の声から〈香〉を感知したことによってシンプルな叙景歌にとどまらない魅力がある。『わがからんどりえ』はよくもわるくも〈われ〉であれ〈友〉であれ人間の存在/不在が前面に出ていてそれがダイナミックな詠い上げに結びついている一方、『翼鏡』は小中自身が〈螢田てふ駅に降りたち一分の間(かん)にみたざる虹とあひたり〉について書いている散文中で「そうして虹に「逢えた」日から、私の歌は変り始めた。ひそかに「人断ち」を自分の内的世界に課して、より頑固になった。」と記すように人間の影が薄い。そしてその「人断ち」を経て描かれる風景がとても魅力的だ。『わがからんどりえ』では〈月射せばすすきみみづく薄光りほほゑみのみとなりゆく世界〉と闇夜に射す月光によってそれはうっすらと光るものだったが、『翼鏡』ではむしろ光/闇という対比ではなく光そのもののグラデーションを描くことによって一本の光が顕ち上がってくる。
夕ひかりつつむ萱原さむくして貴(あて)なるごとく茎のかがよふ
庭の上(へ)のうす雪ふみて雉鳩のつがひ来あそぶこゑなくあそぶ
春の野のあかるき上にかぎりある夢とて草より青く波立つ
青すすき倒して水を飲み終えし四方(よも)さやさやと青芒立つ
立冬の昼すぎてよりいこふとき雲の涯(はたて)に水いろ軽(かろ)し
蓮枯るる間(かん)の水の上(へ)めぐりつつ午後四時ごろの水鳥の飢ゑ
枯野より枯野へかけて官能のごとくに日ざし移ろひゆけり
池の端あゆみゆくとも水澄まず水鳥に一日(ひとひ)終らむとして
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