2022年1月11日火曜日

平岡直子の歌について

 前回のエントリー「北山あさひの歌について」で書いたように、平岡さんの2021年ベスト連作は「ラッピング」だと思うのですが、それに匹敵する連作が『歌壇』2021年8月号の巻頭作品「根性論」20首だとわたしは思います。その「根性論」の一首目が〈海面は光れりお母さんでしょう迷惑メール送ってくるの〉というもの。読んだ当時〈お母さん〉という語彙の選択に随分驚いた記憶があります。けれども、あらためて読んでみるとその驚きというのは〈お母さん〉と〈迷惑メール〉との繋がり〈お母さん〉と〈迷惑メール〉という言葉を組み合わせたときに生まれた違和に起因していたのではないか(注意してほしいのは、これはいわゆる異なる二語の表面的な語の組み合わせの話ではなくて語と語の力学の話のことです)。そんなことを思ったのは「文藝」2022年春号の特集「母の娘」に平岡さんが寄せた連作に同様のイメージを詠った一首があったからです。

広告につるつる光る文字列のすべて母なる監視カメラだ

自販機のボタンを押すとき、お母さん、ステルス戦闘機を感じたい

/平岡直子「お母さん、ステルス戦闘機」

監視カメラって父なるか母なるかと問われたら従来は明らかに父なるものとして扱われていたと思います。そこに〈母なる〉という形容を足す。〈母なる監視カメラ〉はかなり歪な形態ですが、これをどう読むか。同じ特集の水上文「「娘」の時代ーー「成熟と喪失」その後」から補助線を引いてみます。と、書いたものの、わたしもこれは読んではじめてなるほどと思ったのですが、現代社会において「旧来の男性性の規範は、ポストフォーディズムにおける「柔軟」さの要求にさほど合致していない」「求められる能力、人間像は旧来の男性性というよりむしろ女性性と合致したものとなっている。社会から与えられる抑圧は「母の抑圧」によく似ている。」(なお、この一文は水上が文中で引用している信田さよ子に依る部分が大きいので詳しくは本文を参照してください。また、結論部分で水上が援用する宇佐見りん『かか』はわたしも大変大好きな小説です。水上の文章の最後の結論はあまりにもシンプルで拍子抜けしてしまいそうになるのだけど、一方で、この地点に到るまでのあまりにも長い道程こそを読むべきなのだと思います)。

短歌はどうか。この文章を読んであわせて思ったのが短歌における「基本的歌権」の問題でした。わたしは近い問題として以前に宇都宮敦『ピクニック』の読まれ方を通して考えたことがあったのですが(詩客短歌時評「2019年の『ピクニック』」)それを踏まえて問題をわたしなりにまとめると現代社会の抑圧というのは厳格さよりも甘ったるさが第一にある。これは、ベクトルが厳しさ→優しさから優しさ→厳しさへと反転している、ということである。平岡さんの歌というのはこうした文脈の中で読んでこそなのかなと思いますし、であるからこそ〈お母さん、ステルス戦闘機〉という本来対極的であるような二項が並置されるのでしょう。「ステルス戦闘機、お母さん」ではなく「お母さん、ステルス戦闘機」の順序であることにはどれだけ注意しても注意しすぎることはないと思います。また、連作「根性論」は〈ドラマに出てきた all-female cabinet わたしは電気ドリルがほしい〉という一首で幕を下ろしますが、「お母さん、ステルス戦闘機」の連作においても同様にべったりとした表象にはすべて裂け目が入れられています(第一歌集『みじかい髪も長い髪も炎』以降のスタンスを端的にあらわす歌として〈筋肉をつくるわたしが食べたもの わたしが受けなかった教育〉〈無造作に床に置かれたダンベルが狛犬のよう夜を守るの〉の二首を挙げたい)。

自販機のボタンを押すとき、お母さん、ステルス戦闘機を感じたい/平岡直子

もう一度この一首に戻ります。では平岡さんの歌が「お母さん、ステルス戦闘機」的な磁場につねに受動的に覆われているのかというと必ずしもそうではなく、この一首においてはあくまでも〈自販機のボタンを押すとき〉という能動性と受動性とが交差する場面であることがひとつのポイントだと思います。冒頭の一首〈Copyright 遠くへ飛んだ枝豆を母だと思ってついていったわ〉の〈遠くへ飛んだ枝豆〉はどうか。(わたしが)遠くへ飛ばしたとは書かれていない以上飛ばしたのは誰かわからない。それは父なるものかもしれないし母なるものかもしれない。けれども、ここでわたしは自販機の前に立ってボタンを押すのと同様のアクションを〈母だと思ってついていった〉に見たいと思います。それは短歌の一人称性を終点、収束点ではなく始点にすることでもあるでしょう。『歌壇』2022年1月号に平岡さんが書かれた「パーソナルスペース」という文章をわたしは革命についての文章と読みましたが、わたしの読みが間違ってなければここでいう始点とは「パーソナルスペース」のことでもあります。

穴をふさげる穴なんてない プリクラの顔に変わっていくつもりなの

リハーサルは終わりよ、整形モンスター、星のかたちの心を持って

わたしたちはぜんぶ帳消しにしよう蛍光ペンでお化粧しよう

/平岡直子「ラッピング」

2022年1月6日木曜日

北山あさひの歌について

北山あさひさんから「現代短歌新聞」2021年12月号をいただきました。『崖にて』以降の作品を『現代短歌』の連載や「うた新聞」などでおもしろく読んでいたこともあり、当号の巻頭作品も読みたく思ったからです。巻頭作品は「札束で〈地方〉の頬を叩くな」12首。「頬を叩く」から北山川の吟行付句「上の句下の句往復ビンタ」のネーミングセンスを思い出したりもしました。連作について。冒頭の詞書から「寿都町長選挙 争点は「核のごみ」」が一連のテーマであることは明白ですが、ここで考えてみたいのはタイトルにもある〈地方〉について。四首目、五首目を引用します。

薄暗い水平線を見ていたら〈地方〉という字がのぼってくるぞ/北山あさひ

貧しくてダサくて頭が悪いから〈地方〉は嫌い、でもペンダント

連作の冒頭三首では上記の寿都町長選挙のことが具体的に詠われます。なんだけれども、続く二首はそれが〈地方〉の問題として抽象化される。この点について、ひとつ補助線を引いてみます。『短歌研究』2021年8月号の瀬戸夏子「名誉男性だから」。「短歌を男性的であるとする論も女性的であるとする論も対になるものが想定されている時点でそれはどちらにせよ女なのだ。想定される「ではない」方はつねに女である。(……)釈迢空は女である、斎藤茂吉が男であるなら。斎藤茂吉は女である、土屋文明が男であるなら。」。この文脈に当てはめて考えてみると〈地方〉は〈中央〉「ではない」ものを指す言葉になります。では、すべては〈中央〉ー〈地方〉の対の問題に終始してしまうのか。ここで「うた新聞」2021年8月号に掲載された北山さんの連作「虚しさを打ち返せ」から一首引用します(余談になりますが、この連作は〈木をくぐるつかのま白き手裏剣のヤマボウシ見ゆ「山」と言えば「川」〉〈蟬穴にひらかれている蟬の眼よ 貸しは必ず返してもらう〉などおもしろい歌がたくさんあります。前の号の「今月のうたびと」は平岡さんでこちらも個人的には2021年の平岡さんのベスト連作だと思っているのでお買い求めの際は二号まとめてどうぞ)。

パフェグラスの中の階級あおざめるように翳ればもう降っている/北山あさひ

ツイッターをやっていると見ない日はないパフェ。パフェグラス。その構図を〈階級〉と表現できることに圧倒されます。わたしはパフェには明るくないですが、あのグラデーションのことを〈階級〉と呼び得ることはわかります。「札束で……」の連作だと〈よろこびの筋を支えるさびしさの腱 奈落より網引き揚げる〉が相当するでしょうか。〈札束〉の〈札〉は〈札幌〉の〈札〉でもありますね。短歌定型をパフェグラスひとつと考えるならば、底に落ちていくものが〈さびしさ〉である。けれども、パフェグラスであることによって底抜けはせず仮止めされていることがポイントではないか。「札束で……」の連作では五首目の結句〈、でもペンダント〉がそこに相当します。この一首は結句に入ってからの屈折が少しわかり易すぎるかなとも思うのですが、『現代短歌』の連載に何首か結句表現がおもしろい歌がありました。

境内の横で奇妙な体操をしている男 黒ずくめ 見ず

企画書に城と氷河と横顔をちりばめながら大人、しっかり

「冒険」『現代短歌』2021年9月号

夏なのか秋なのか憧れなのかフライドポテトなのか、ほおづえ

合歓の家、木蓮の家 思い出がただの付箋になるまでを、居て

「ゴールデンタイム」『現代短歌』2022年1月号

一首目の結句〈見ず〉にはびっくりしました。とはいえ、その唐突さに驚いたわけではないのは〈黒ずくめ 見ず〉の「ず」の繰り返しがあったからだと思います。肝がすわっている。残りの三首は挙げては見たものの正直なところまだ判断保留というところです。これでほんとうに一首として立っているいるのだろうか。そこで一首を支えようとしている言葉「しっかり」「ほおづえ」「居て」には一貫性があるように思います。

最後にもう一度〈、でもペンダント〉について。ペンダントは首もとだけにフォーカスすると結句的なビジュアルですが、身体全体で見れば初句二句の間ぐらいの位置にあります。事実、この一首のなかでペンダントがずっと沈みっぱなしかというとそうではない。〈、でもペンダント〉はバネにもなる。『崖にて』に〈ロマンチック・ラブ・イデオロギー吹雪から猛吹雪になるところがきれい〉という一首があります。北山さんの歌はイデオロギーや制度を相対化する眼差しを持ちつつもエネルギーそのもののポテンシャルは決して手放さない。吹雪を猛吹雪にしてしまう(イデオロギーとエネルギー(力)については『短歌研究』2021年8月号の平岡直子「「恋の歌」という装置」に詳しく書かれています)。北山さんがツイッターで新年の抱負として「今年はロマンチックな歌を詠みたい」とつぶやいていてあらためてそのことを思いました。

2021年11月27日土曜日

『葛原妙子歌集』読書日記その2

 あな遠く市街の中空(ちゅうくう)にくるま流れ玉蟲ほどのひかりとなりゐき/葛原妙子『朱靈』

空は異字体ですが、わたしのスマホでは出ないのでそのままです。中空は「がらんどう」の意味で読みました。中空、山中智恵子の歌で何度か見たことがあってそれ以降、他の歌人の歌でちょくちょく見ることがあるのだけど毎度のように「ちゅうくう」読みか「なかぞら」読みかのルビがふってあって不思議に思っていたのですが、「がらんどう」の意味になるとまるきり意味が変わってくるから必要なんだとわかりました。「がらんどう」でない意味で読むと車が空中で浮かんでいることになる。けれども、そのイメージもあながち間違ってはいないというか、「あな遠く」で提示された短歌の空間は遠くを見る目になるので半分浮いているようなイメージにもなる。あるいは、わたしは普段運転しないのでわからないのだけど、天保山の高速道路の入口(かなり適当に書いてます)のような高低差のある視点を取ると中空=空の中ほど、の読みもできるのかもしれない。いずれにしても単純で直線的な遠さではないように思う。〈灯台が転がっているそこここにおやすみアジアの男の子たち/平岡直子〉を連想したりもした。あと、「なりき」ではなくて「なりゐき」なのが面白い。その辺りは「くるま流れ」の流れや中空のニュアンスを踏まえた上でなのかなと思う。

ゆふぐれと白燈のひかりわけがたく蛾は草いろのタオルに來る/葛原妙子『朱靈』

小中英之『翼鏡』に〈庭の上(へ)のうす雪ふみて雉鳩のつがひ来あそぶこゑなくあそぶ〉という歌があってこの歌の過不足のないところに感動するのだけど、下句の〈蛾は草いろのタオルに來(きた)る〉にも同じことを思う。いちゃもんをつければ草いろは直前の蛾から逆算されているのでは? とも言えるが、見立てとして落としているわけではなくスピード感を持って書かれることでタオルの上に蛾が来たことの方に焦点があたる。夕暮れと白燈のひかりってわけがたいのかしらと思って調べてみたら白燈蛾(しろひとり)という蛾がいるみたい。そうすると、夕暮れと白燈ではなくて夕暮れと白燈蛾とがわけがたくということになる。タオルの恩寵が凄い。

くさむらを刈りしが庭よりのぼりきて或影はふかく椅子に沈みぬ/葛原妙子『朱靈』

〈或影〉は「わくえい」と読むのだろうか。シンプルに「あかげ」「あるかげ」でいいのだろうか。どちらにせよ影に或るという修辞を被せるのが凄いなと思う。草むらを刈っているのだから外側から家のなかにある椅子を見ている感じだろうか。〈のぼりきて〉の段階で歌の運動は椅子側(内側)から発生しているようにも思える。同じページに〈めのまへにちかづくわが子の足小さし顔小さしふかき手提を下げたり〉という歌もあってこちらも深さが歌の核になっている。カバンの大小を歌った歌に〈君のかばんはいつでも無意味にちいさすぎ たまにでかすぎ どきどきさせる/宇都宮敦〉があるが、葛原の一首は大小ではなくて小ささと深さの対比になっている。なのだけど、冒頭の一首もそうだったようにこの視点もまったくイメージ不可能な視点かと言われると決してそうではない。ベタ塗りのような手提げの深さだと思う。

2021年11月26日金曜日

『葛原妙子歌集』読書日記その1

 川野里子編『葛原妙子歌集』のゆるゆる読書日記。完璧主義なので完本所収の『朱靈』から読みます。

卓上に塩の壺まろく照りゐたりわが手は憩ふ塩のかたはら/葛原妙子『朱靈』

歌のなかで描かれる手が片手なのか両手なのかってこれまで意識したことがなかった。たとえば〈欲望がフォルムを、フォルムが欲望を追いつめて手は輝きにけり/大森静佳〉の手は象徴化されているようにわたしには思え、この手の具体性は問題にならない。また、同じ大森の〈彫ることは感情に手を濡らすこと濡れたまま瞳(め)を四角く切りぬ〉も四角く切ったという動作が描かれていながら手は抽象化されている。大森の手が時間の緊張(切迫)へ身を投じる一方、葛原の手は弛緩した空間への最後のピースとして現れてくる。葛原の一首に描かれる「わが手」をわたしは片手だと読んだ。結句の「塩のかたはら」から塩の壺とわが手とでペア(両)の印象を受けたからだ。いわゆるハンドサイズの調味料としての塩ではなく塩の壺とまで書かれているからもしかしたらこの壺はわたしの想像以上に大きく持ち上げようとすれば両手が必要になるのかもしれない。けれど、一首のなかで壺は穏やかだ。だからこそわが手はゆったりとかたわらで憩うことができる。もし仮にわが手を両手と読むとしても塩の壺とわが手とで両手なのだと思う。その他、〈卓にあるカツトグラスの花瓶のため細き手は二つにわかれて白し/杉原一司〉と比べて読んでも面白いのではないか。杉原の手は非人称を志向する。

床(ゆか)とほく滑らかに照る 銀貨を落せるところ銀の飛沫散る/葛原妙子『朱靈』

二句目までを面白く読んだ。この歌も照っている。ある意味マジックワードだとも思うが、照りというのはイメージ上の短歌空間の平面に少し奥行きを作るような言葉だと思う。この一首では一旦〈とほく〉と床の平面を伸ばしてからそこに丁寧に質感を与えている。他方、一字あけ以降はせっかく拵えた空間を台無しにしてしまったような感がある。〈銀貨〉の〈貨〉や〈飛沫〉は〈滑らかに照る〉ではなく〈とほく〉の仲間だと思うので。

2020年3月30日月曜日

短歌読書日記(3月下旬)

永田紅『日輪』

一年近く借りていていい加減に返さなければ、と。

人はみな馴れぬ齢を生きているユリカモメ飛ぶまるき曇天
ああ君が遠いよ月夜 下敷きを挾んだままのノート硬くて
輪郭がまた瘦せていた 水匂う出町柳に君が立ちいる
どこに行けば君に会えるということがない風の昼橋が眩しい
午後ひとり自転車の鍵をはずしいし君の視界に立ち止まれざりき
鍵束の木彫りの鯨ゆらゆらとまるい頭でついていくはず
不安不安とおくに花火あがる昼ひとのまぶたは閉じていたりき
午後の課をさぼりて遭うとう偶然を演習林に夢見ていたり
切実な時空は何度あらわれるたとえば疵だらけの木蓮の道
近づかば終わらむ思慕よ柳の葉引っぱりながらバスを待ちいる
思うとき結局人の印象は顔なり 腐ったトマトを捨てる
話すたび意味の褪せゆく傷ならむその一回を吾に費やせり
あずけたる頭(ず)のおもたさを君は言う対岸を犬はすすむ 無音で
修復をかさねて傷を深くする私たち 草刈りの匂いす
ねこじゃらしに光は重い 君といたすべての場面を再現できる

〈曇天〉という言葉がとても似合う歌集。初読時もそうだったけど、読んでると混濁とした気持ちになってくる。『北部キャンパスの日々』『春の顕微鏡』(第三歌集は未読)とどんどんシンプルになっていくような印象だが、『日輪』の特に前半は一首の構造も混濁とした印象がある。この辺りは、花山周子さんの日々のクオリアに詳しく書かれている(花山さんの比較的近い同時代の女性歌人の歌の変遷についての文章は実に読み応えがあった。果たしてわたしたちの年代でおなじことが可能だろうか)。


ああそうか日照雨(そばえ)のように日々はあるつねに誰かが誰かを好きで
近道にも遠まわりにも使われる草の道よく会う猫のいる
思いきることと思いを切ることの立葵までそばにいさせて
/永田紅『北部キャンパスの日々』



土岐友浩『Bootleg』

わたしが短歌をはじめてからでいえば永井祐なんかより断然歌の被引用数は多いのではないかと思う。そして暗唱性がめちゃくちゃ高い。そんなこともあってすっかり歌集一冊読んだ気持ちになり長らく通読はおろか手元に置いてもなかったのだが、このタイミングで通読。日々のクオリアで平岡さんが最後の一文に書いていた「ダイナミックな作風」のいわんとしていることが非常によくわかった。句跨がりが話題に上ることが多い印象だったけど、個人的には初句の入り方に特徴があるというか語りというよりはいきなり場面に連れていかれる部分がありそこもダイナミックさに繋がるのかなと。いま読めて良かった。

僕は物語でいたい 自転車を停めたところに切り株がある
気づいたら雲が出ていて、ひまわりの頸の硬さを教えてもらう
白鳥よ夜になったら暗くなるだけの静かな公園に行く
誓ったり祈ったりしたことはない 目を離したら消えていた鳥 
ついたけれどうまくひっかからなかった小さな嘘が転がっていく
あきらかな嘘とそうではないものを見分けて読んでいく航海記
いつまでも雨にならずに降る水の、謝らなくて正解だった
どうしようもなく暑い日にあおぐ手を止めてうちわの柄を嚙む子ども
待ち合わせしながらたまに目をつぶりカラスの長い鳴き声をきく
尽くすほど追いつめているだけなのか言葉はきみをすずらん畑
紙ふぶき大成功の、安田大サーカスというひとつの星座

2020年3月18日水曜日

短歌読書日記(3月中旬)

相変わらず、歌集を読んでいる。一時期は総合誌を追いかけるのが楽しかったが、ここのところは買いそびれていた歌集なんかをわりと必死に探し求めている。

「羽根と根」の創刊号と2号の合本のやつ『フラジャイル』『紅い花』『人類のヴァイオリン』などいま探すのむずかしい歌集の引用がけっこうある(それぞれの好きな歌集をリレー形式で評論する企画がある)ので重宝する。

というつぶやきからセレクション歌人の『辰巳泰子集』の存在を思い出しさっそく読んだ。「羽根と根」で佐々木朔さんが引用していた歌や有名歌の印象とはまた少し違う魅力をわたしは『紅い花』に感じた。とりあえず二十首選。

辰巳泰子『紅い花』
東西にのびて憩へるいもうとの四肢マシュマロのごとく匂へり
一枚の木綿のシャツの畳みかたを違へるごとく愛しあひをり
身につけし卑怯のひとつ昂りてなすことごとく青春と言ふ
ニス塗りわすれしところより崩れはじめたる積木と言ひて言へば易しも
理由なきあまきちからをたづさへて秋の海ごとうねる地球儀
ステンレスの刃(やいば)林檎にあてがひて保身のための語は聞き捨てつ
あをぞらにすつくと伸びて佇つ葦のいましあはせにまみれてもみよ
冬の陽を浴びて産毛のそよぎゐる男の肋骨(スペアリブ)を見てゐる
傘の柄を握る左手(ゆんで)がふるへても腸(わた)を破れぬ一語あるあはれ
わが内臓(わた)のうらがはまでを照らさむと電球涯なく呑みくだす夢
まう会はぬと告げたる歯にて蛤の吐ききれざりし砂嚙みてをり
ローソンの袋に顔も手も胴も入れて歩いてゐる夢の淵
争ひつかれて透明になる術ぞこれ風なぎわたる十字路へ来て
離(か)れたらむ自由たとへばふたたびを花につたなく泣かされてみむ
なにごとも水に流してしまふならやまとのみづは腐る日近し
空つぽの灰皿のうへに降(ふ)りきたる秋のたんぽぽのふかき着床
サバンナにけもの撃たれて死すまでの意識は白く奪へるテレビ
身障のひとの絵とこそおもふゆゑ救はれて佇つひとりかわれも
夕風と身をからませる一体の柳かとほくこの身けだるし
あさの眼は閉ぢてこそ聴けさいはてへ往きて戻れる静脈の音

『海量』『東北』を読んで以降、参照項として浮かびがちな大口玲子との違いについて。大口さんの歌は大口さんがひたすら燃えているのを読む感じだけど辰巳さんはあなたにも燃えるものあるでしょ?と一緒に燃えさせてくれる感じがある。この点については佐々木さんの「辰巳の歌は「情念の歌」と評されているけれども、決して情念に流されるままの歌ではない。むしろ激しい感情の流れの中にあって、自分がどのような状態かを確認し続けることで懸命に自分を押しとどめるための歌、情念にさらわれないための歌のように思える。」の指摘に同意する。大口さんの歌は情念を屹立させるような歌。助動詞を梃子に意外とリズムがシンプルなのも屹立性と関係あるのかなと思ったりする。

房総へ花摘みにゆきそののちにつきとばさるるやうに別れき/大口玲子


好きだった世界をみんな連れてゆくあなたのカヌー燃えるみずうみ
/東直子『青卵』

この歌、燃えているのはカヌーなのかみずうみなのか、という読みの選択肢を以前に聞いたことがあったけど、カヌーを含んだみずうみ全体を〈わたし〉が燃やしているみたいなイメージで読みたいなと思った。


わたしが一番最強だと思う短歌の初句は井上(法子)さんの〈どんなにか〉。まあこの〈最強〉にはいろんな意味合いがあるけれど。凄さがじわじわわかってきたのは武田さんの〈生きてさえいれば 〉。わたしとかだとこのフレーズがもしかりに単体で浮かんだとしても字余りで結句にすると思う(アララギのわれは、口語のぼくは、きみは落としみたいなニュアンスで)。それがこの歌では初句七音でもなくぴったりと〈5/7〉を埋めるようにある。実際、最初ピンと来なかったのは〈生きてさえいれば〉を初句七音みたいなリズムで読んでたからだ。〈生きてさえ/いれば 〉の凄さは令和版百人一首の平岡さんの評文の最後の二文に書かれてある。




上のとこれ以降は、以前に正岡豊さんがつぶやいていた短歌の初句と自尊心の話を思い出してのこと。

〈かわいい海とかわいくない海 end.〉(もとは一首として発表された)だと「ちょっとちょっとちょっと」ってつっこむことも速すぎて見ないこともできると思うんだけど(そういう意味でユートピアに近づけてるのは〈おりがみのあしのときめき不意に主役は刺されるものさ/瀬戸夏子〉だとわたしは思う)

他に短歌の入りで感動したのは土岐さんの幻の(?)名歌〈春の原っぱのさようならへその緒を切られたみたいにくすぐったい〉で第三回だったかの歌葉新人賞候補作中の一首なんだけど、この歌を瀬戸さんがbotで〈切られたみたいで〉と間違って入力してたのがまた感慨深いというか(瀬戸さんの第二歌集は〈て〉の歌集とも言える)

2020年3月12日木曜日

短歌読書日記(3月上旬)

再読含めていろいろと歌集を読んだ。

宇都宮敦『ピクニック』

「髪伸びた?」ってきかれてるのに好きよと言う ざまあみろって形の口で
はらってもはらっても落ちる砂ならば連れて帰ろう どこに? どこでも
お互いのからだをまくらにまるまって ねえねえ どっちの喉が鳴ってる?

これまで〈偶然性〉っていう文脈で『ピクニック』は読んでいたけど、意外と動物とダイレクトにコミュニケーション取りにいってる歌もあったし、なんというか、〈人間の動物性を否定しない〉みたいな表現の方が適切なのかな、と思った。

ということを、

嫌なやつになっちゃいそうだよ もうじゅうぶん嫌なやつだよと抱きしめられる

この歌、もっとふたりの会話っぽい感じかと思ってたんだけど、あらためて読んでみるとふたつの文にはズレがけっこうある、というか、字あけ以降がそれまでをかっちり抱きしめてしまうわけではないんだな。どちらかというと、そのまま、お客様二階へ的なノリで次の一首へ誘導される。

という読み筋から到達した。棚からぼた餅だ。



東直子『春原さんのリコーダー』
・出来事に直接的には介入しない主体
・幽霊的な視点
・御前田あなたさんの絵のイメージの源泉ぽさ

夜が明けてやはり淋しい春の野をふたり歩いてゆくはずでした
できたての名詞のようなあやうさで静かにこわれはじめる空よ
テーブルの下に手を置くあなただけ離島でくらす海鳥(かもめ)のひとみ
遠くから見ているからね紫の帽子を被って走りなさいね
袋小路に生まれた人の額へとくらくらするほど春はさしこむ
いたのって言われてしまう悲しさをでんぐりがえししながら思う
その箱をおっとりそっと手放せばやさしく癒えてゆくよ病も
信じない 靴をそろえて待つことも靴を乱して踏み込むことも
そうですかきれいでしたかわたくしは小鳥を売ってくらしています
はじめからこわれていたの木製の月の輪ぐまの左のつめは
花まつりに瞬くレンズ切なさはひとりの体の中にはなくて

遠くから見ているからね紫の帽子を被って走りなさいね
いたのって言われてしまう悲しさをでんぐりがえししながら思う
/東直子『春原さんのリコーダー』

状況に対する視点の取り方がすごい独特で柔道的な意味での新しい受け身の方法という感じがする。歌の中で変化を起こすんじゃなくて歌に通過させる。



天井の模様に犬をきくらげを見出して見うしなううたた寝/佐伯紺

廃村を告げる活字に桃の皮ふれればにじみゆくばかり 来て/東直子

〈見出だして見うしなう〉と〈ふれればにじみゆくばかり〉の時間の粘りが実は似ている二首(どっちも読むたびになんかと、と、なっていたが、ようやく合点)。



ミニチュアになれたらきっとのぼりたいきみの苗字にあるはしごだか/橋爪志保

〈ミニチュアになってのぼりたい〉とも〈ミニチュアになれたらのぼりたくなるだろう〉とも微妙に位相の異なる〈ミニチュアになれたらきっとのぼりたい〉という望み。ミニチュアになれたけど、のぼりたくなかったな……というまさかの可能性が残されているのがひとすじ縄でなくてなんかおもしろい。


高野公彦『汽水の光』

蟬のこゑしづくのごとくあけがたの夢をとほりき醒めておもへば
粘りある炎とおもふ鶏居らぬ小屋をほどきて日暮に燃せば
ゆふぞらの隈(くま)赤きかな仔つばめの骸置きたる道を歩めば
桃の実をひらきて濡れししろがねのナイフありけり病む者の辺(へ)に
きさらぎの銀河のそらに吹きおこる風はたはたとわが夢に入る
日ざし濃き基地をめぐりてわが額(ぬか)に刻印されし金網の影
秋の夜の底ひにありししろがねの冷たきはさみ踏みあてにけり

『春原さんのリコーダー』について検索かけたら引っ掛かった永井さんの昔のブログを、さらに遡ったら高野公彦の話が出てきた。ちょうど『短歌の爆弾』にも登場してたのでせっかくだからと。

少年のわが身熱(しんねつ)をかなしむにあんずの花は夜も咲(ひら)きをり/高野公彦

たんぽぽの河原を胸にうつしとりしずかなる夜の自室をひらく/内山晶太

巻頭歌の歌のモチーフが似ているというだけで高野公彦『汽水の光』と内山晶太『窓、その他』が繋がったんだけど、全体的な歌の立ち振舞いとかもわりと近いのではないかと思いつつ、じゃあなんで内山さんの歌は二十代も読むのかと考えてみると、限りなく現在に近い現代短歌ってずらしがあっても喜怒哀楽のキャッチーなフレーズが必ず入っていて〈観覧車、風に解体されてゆく好きとか嫌いとか春の草/内山晶太〉〈心底はやく死んでほしい いいなあ 胸がすごく綿菓子みたいで/瀬戸夏子〉逆に言うとポップライン(?)で受容されるかどうかってほとんどそれだけだともいえる。



洗脳はされるのよどの洗脳をされたかなのよ砂利を踏む音/平岡直子

最初読んだときは結句の〈砂利を踏む音〉がそれこそ歌会で読みを求められるように一呼吸置いて効いているのか効いていないのかを考えていて、〈音〉まで読み下してからその音をイメージしにいっていたのだけど、それでは完全に歌に対して立ち遅れしてしまっている。〈砂利を踏む音〉は景色ではなくて〈音〉なのだから、それは〈砂利〉(じゃり)の時点で鳴り終わっている。間違っても〈砂利を踏む音〉うん(じゃりじゃり)ではない。