2010年代後半にわたしは自分宛にふたつの短歌を受け取った。ひとつは〈再演よあなたにこの世は遠いから間違えて生まれた男の子に祝福を/瀬戸夏子〉。ひとつは〈灯台が転がっているそこここにおやすみアジアの男の子たち/平岡直子〉。
リアルタイムでわたしに強烈なメッセージとして訴えてきたのは瀬戸の〈間違えて生まれた男の子に祝福を〉だったが、この男の子が祝福されるのは(あなた=男の子と読むなら)あくまで〈あなたにこの世は遠いから〉であり、わたしがわたしとしてここに在るからではない。そのズレは当時のわたしにはむしろ救いであったが、2022年の現在はその限りでない。
平岡の一首はどうだろう。そもそもそうした枠組みでいままで自分のことを考えたことがなかったが、立派な日本男児であるわたしも他ならぬ〈アジアの男の子たち〉のひとりなのだ。ハロー・アイ・アム・アジアン・ボーイ。アジアはアジアでも東南アジア上空を飛行中のような気分になるのは、〈灯台〉という語彙(〈そこここに転がっている〉!)がラッタウット・ラープチャルーンサップ『観光』の記憶と重なり合うからだが、加えて、〈アジアの〉と限定されたことでかえって自由にアジア各地を転々と移動することができる。今日は韓国、明日はフィリピン。来年は神戸にも行きたい。
そんなアジアの男の子であるわたしの内部でいま猛烈な勢いで軋んでいるのが〈君に会いたい君に会いたい 雪の道 聖書はいくらぐらいだろうか/永井祐〉。君に会いたい君に会いたい、という軋みは〈秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは/堂園昌彦〉の普遍/不変的問いを悠々と超えていく。
平岡直子20首選
『みじかい髪も長い髪も炎』(2021.4)
腹ばいで読むとき歌はくるくると全方角に散っていく花
食べかけのベーグルパンと少年と置き去りの壊れた自転車
まつ毛というまつ毛が電波狂わせて終夜よい子でいるキャンペーン
じゃあずっとここに立ってる廃線の線路がポケットに流れこむ
灯台が転がっているそこここにおやすみアジアの男の子たち
なんとなくピンとこなくて sympathy って言い直す 言い直す風のなか
東西も南北もない地図のうえ線路はこの世の刃として伸びよ
記憶が風に混ざってだんだんわからなくなるけれど、蜘蛛と雷
喪服を脱いだ夜は裸でねむりたいあるいはそれが夢の痣でも
「歌壇」巻頭作品(2019.11)
ページの端がちょっと折れても元気でね若者や恐竜のようにね
トイレから戻ってきてもそこにいて、グループ展の小さなチラシ
短歌同人誌「外出」(2019.5-)
今日はとても長生きをした行きずりの会話たくさん耳に注いで
タクシーのなかはちらちらしてたけど、目次に目を通すだけで一生?
雨ざらしの家具にみえても構わないから身長を書き込まないで
垂直に口開く鯉ベルトごと脱ぎ捨てられたズボンのように
深呼吸しろと言われてするときに散る画数がばらばらの文字
うた新聞(2021.7)
穴をふさげる穴なんてない プリクラの顔に変わっていくつもりなの
リハーサルは終わりよ、整形モンスター、星のかたちの心を持って
版画にて刷られたる鮒 好感を持たれることに命を賭けて
わたしたちはぜんぶ帳消しにしよう蛍光ペンでお化粧しよう
平岡直子は直接性の歌人だ。直子だから? 直子だからってのもある。余談だが、〈垂直に口開く鯉ベルトごと脱ぎ捨てられたズボンのように〉という平岡の一首は〈平岡直子〉という四字についての一首だ。
直接性というキーワードから平岡直子は一元論者であると思われるかもしれないが、ここは慎重に判断するべきだろう。というか、おそらくそうであるからこそ、平岡は断言のあとに必ず断言を覆す。
「短歌は汎用性のある着ぐるみだ。短歌は汎用性のある着ぐるみではない。一人として同じ内面を持つ人間はいないとみなすのも、全員が同じ内面を持っているとみなすのも、ほとんど同じことなのではないか。」平岡直子「パーソナルスペース」短歌総合誌「歌壇」2022年1月号
直接性とは、「ほとんど同じ」であることの歓喜と悲劇にのたうち回ることだ。
「短歌って、極論を言うとぜんぶが幻想的なんですよね。韻文という性質上、散文のモードではちょっと考えられないくらい非現実的な表現にまみれているものなので。(……)でも、ぜんぶが幻想的だということは、ぜんぶが幻想的ではないとも言えてしまうので、そこから何か取り出して喋るのは難しい。」「座談会 幻想はあらがう 大森静佳×川野芽生×平岡直子」文芸誌「文學界」2022年5月号
どちらかというと裏返されながら見せているむきだしの映画館 『みじかい髪も長い髪も炎』
女の子を裏返したら草原で草原がつながっていればいいのに 「外出」創刊号
以前にも書いたが、わたしが平岡の近作でもっとも良いと思うものは「ラッピング」12首(「うた新聞」2021年7月号)だ。平岡の短歌を読んでいくなかで焦点をそこに合わせすぎることには賛成できない〈穴〉という(キー)ワードを自己言及的に用いた〈穴をふさげる穴なんてない〉というテーゼから出発し、途中、一首の構造上、作者の吐露と読む必要性はないが、わたしはそう読んだ〈好感を持たれることに命を賭けて〉というショッキングなフレーズが挟まる一連は〈わたしたちはぜんぶ帳消しにしよう蛍光ペンでお化粧しよう〉という一首で締められる。内容面としては「ラッピング」というより「トッピング」のような連作だが(一方で、短歌定型や連作という型、枠組みに力点をおけば、この連作は「トッピング」ではなく「ラッピング」なのだろう)この連作の理論的バックボーンとして読めるのが、平岡が「外出」創刊号に書いた「短歌には足し算しかない」という文章(名文!)だ。
かんたんに時系列をおさらいしておくと、「外出」創刊号は2019年5月に刊行されている。その前年の2018年に平岡は「外出」の同人である染野太朗とともに「日々のクオリア」を完走していて、くだんの「短歌には足し算しかない」はその続編のようなスタイルで書かれた文章だ(表面的には、永井祐と宝川踊の一首評二日分だが、一方で、この文章は一首評一本が見開き二頁×二の四頁全体で「短歌には足し算しかない」と題されていることにも注意が必要で、これは上記の「ラッピング」と「トッピング」の関係性ともパラレルだろう)。
それぞれの結論部(最終段落)を引用する。
「かけ算やわり算によって都合よく情報のサイズを変更したり、正確に復元したりできるかもしれないというのは幻想だと思う。短歌には足し算しかない。作者にできるのは書き加えることだけで、読者にできるのは歌にさらになにかを書き加えることだけである。」(永井)
「欠損した言葉は歌の背後にある身体性を回復させない。だから、この歌はたしかに透明なのである。」(宝川)
短歌実作と短歌の批評をおこなっているわたしたちには「短歌には足し算しかない。作者にできるのは書き加えることだけで、読者にできるのは歌にさらになにかを書き加えることだけである。」というシンプル極まりない主張がどれだけ困難で勇気を必要とするものか身をもって理解できるはずだ。