来年は3回告(こく)ると君は言うコーデュロイのきれいなシャツを着て
/永井祐『広い世界と2や8や7』
わたしはこの歌に色気を感じるけれど、何に由来した色気なのだろう? 告(こく)る、とは、意中の人間に向かって自分の好意を伝えること。それを来年は3回やるらしい。同じ人に? まったく別の人に? というのは、おそらくどちらでも良くて、とにかく来年は3回告るぞ、という宣言、その清々しさ。の、空気は同じ連作の〈来年の抱負を0時のカラオケで言い合うクリスマスイブがいい〉の一首でだいたい補完出来てしまうのだけど、それだとただの良い空気感の歌になってしまう。おそらく、告られる相手がわたしたちの完全に外側にいて、もしかしたらこの発言を聞いている周りの人間ですら、いや、言っている当人ですら君(自分)が誰に告るのかわかっていないのだろう。クリスマスイブにコーデュロイのシャツなのも、いくらコーデュロイのシャツの厚さをもってしたとしても薄着に違いないが、高級なジャケットやマッチョなジャケットを羽織っているよりも身の丈に合っているというか、パリッとした生地感とすっぽりと出た(顔というより)頭の清々しさを際立たせている。わたしは以前から永井祐と瑛人の近接性を感じているけれど、一首に感じた色気とはそうした類いの香りのことだったのかもしれない。
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あらためてまじまじとながめてみれば人は誰でもドMにみえる
/永井祐『広い世界と2や8や7』
言うまでもなく〈人は誰でもドMにみえる〉のは〈あらためてまじまじとながめてみ〉ているからである。リワークセンターという復職の学校的な場所に通っていたときに認知行動療法という考え方を知った。かんたんに言うと、出来事そのもの(一次)ではなく出来事の受け止め方(二次)を見直すことで(不調のときには分かちがたく結びついている)出来事そのものと出来事の受け止め方とを分離し、そのあいだに柔軟な思考回路を構築する考え方のことで、この関係性は千葉雅也『動きすぎていけない』第8章で整理されているドゥルーズ『マゾッホとサド』のサディズム(イロニー)とマゾヒズム(ユーモア)に対応している。永井祐はアイロニーの人かユーモアの人かと言われたら、ユーモアの人(そもそも短歌定型の枠組みで歌を作っていることが既にM的なん)だけど、出来事そのものにアタックしないというのは、見ようによれば、本質を突き詰めない、根本に向きわない態度としてヌルい、と感じる大学生がいるかもしれない。他ならぬわたし自身三十一歳になった現在でも、そう思うことがないことはないが、一方で、広い世界とは、あらためてまじまじとながめた先にあるものなのだろう。