2024年10月28日月曜日

歌評と10首選

 今月はめっきり短歌へのモチベーションが下がってしまった。自作を作るモチベーションはあるのだけど、他作を読むモチベーションがなかなか上がらない。理由はあるのだけど、あんまりはっきりとは言語化していない。かんたんに言えば自分が思う短歌の韻律なり質量なりに到達していないような歌が散見されることが短歌へのモチベーションを下げている。まあでもそんなことばかり言ってられないので今年Twitterで引用した歌を振り返ってみたい。

幾度も折り直されたあとのある鶴が休んでいる保育園/佐佐木定綱(「短歌」2024.10)

扇風機動かなくなるひと夏を牛肉のようにそばにいてほしい/竹中優子(「短歌」2024.10)

先月号の「短歌」の角川短歌受賞者競詠企画から。佐佐木の一首は、折り鶴を〈幾度も折り直されたあと〉と描写することで折り鶴に動きが生まれているのが面白い。保育園だからその跡が雑なことまで連想させるのも良い。竹中の一首は、扇風機が故障し、節約で冷房も入っていないだろう自室の空気と〈牛肉〉の鶏肉や豚肉と比した上でのレトロ感とが奇妙にマッチしているように感じた。どちらもぴったりの比喩かはわからないが、比喩なんて別にぴったりでなくても良いんです。

頭のなかで向かいの人の髪を切るそのほうが似合うと思うから/平岡直子(「現代短歌」2024.11)

「現代短歌」の作品連載から。歌の仕組みがわかるので素直に驚くことはないけれど、まあ及第点かな、と思うような一首。みたいな言い方はちょっと辛いですか。ただ、向かいの人の実際の髪型に対してもそこまで悪意はないというか、〈そのほうが似合うと思うから〉とは言ってるものの、「似合ってない」とまでは思ってないと思う。それぐらいの距離感から「頭のなかで向かいの人の髪を切る」絵を読者に想像させる、その距離感に平岡さんを感じる一首。

非常時のそういう救急搬送のようにつぎつぎオムライス来る/平岡直子(「歌壇」2024.10)

こっちは「歌壇」の巻頭作品。同じ巻頭作品に俵万智が寄稿していたこともあり、平岡さんの歌の中にある俵万智性=〈ようにつぎつぎオムライス来る〉に注目した。歌としてはこちらも仕組みがわかりやすい一首なんだけど、オムライスが〈つぎつぎ〉来るの〈つぎつぎ〉が作者の個性なのかな。オムライスがひとつだとあまりに象徴性が強すぎるけど、複数になることでその非常時性が緩和される感じとそのグロテスクさ(一人撃たれるのと複数人がつぎつぎ撃たれるのとでは喚起されるイメージが変わる)。

太陽のずっと下には信号と横断歩道の関係がある/永井祐(「歌壇」2024.10)

仕事が終わって僕はガーナを食べていて静岡県の「静」という字

連作で並んである二首で、二首目だけ見ると一見意味不明なんだけど、一首目の「信号」と「横断歩道」のお陰で「静」(しずか、と読んだ)の中の「青」「争」に気がついた。青と赤とが争うのが信号であり、その二字が入った「静」という字に注意が向かった歌が同じ連作にある。時期的に笹井賞の選考委員・大森静佳が関係しているのかとか思ったりした。引用歌を見る限り「ガーネット」がかなり良さげなので早く今月の短歌研究を手に入れて読みたい。

と、書いてきたのだけど、フィードがここまでしか出来なかったので、総合誌名(「現代短歌」「短歌研究」「歌壇」「短歌」)で検索して出てきた歌+「アンソロジスト」vol.4と椛沢さんの歌集から10首厳選してみた。良かったらあなたの最近のベストな10首も教えてください。

①迷惑系歌人となって【歌会に相田みつをの詩を出してみた】/三田三郎(『現代短歌』2024年9月号)

②あたらしい球技がしたい 二〇二八年までの代表入りを目指して/吉田恭大(『現代短歌』2023.11)

③夜の領土を逃れゆくときひまわりを暗渠へ捨てるなら頭から/服部真里子(『短歌研究』2024.7)

④姉として見ておりとおい石段の隅にちぎれた尾の痙攣を/大森静佳(『短歌研究』2023.1)

⑤腰を下ろして中身を出してなんだっけ、ああそうだ、流すんだ全てを/pha(『短歌研究』2024.5+6)

⑥伸びる過去と積もる過去とがあるでしょういずれも魔法ではないでしょう/佐伯紺(『短歌研究』2024.1)

⑦雪がみぞれにみぞれが光に変わってく 愛が 愛が 愛がうるさいよ/初谷むい「アンソロジスト vol.4」

⑧手芸店に紫の石を持ったまま見えなくなっていたの夕暮れ/山崎聡子「アンソロジスト vol.4」

⑨シャワーを浴びるときの角度のままずっと過ごす秋には掃除をしない/平岡直子(『短歌研究』2023.1)

⑩汗を引きずる声を引きずる むしめがね あればと百均で買っていた/椛沢知世『あおむけの踊り場であおむけ』

2024年10月23日水曜日

村上航作品評「岡山のベニイロフラミンゴ」

以下の文章は今年5月の東京文フリで初売りされた「super Gyakubaraaa‘s」に寄稿したGyakubaraaa‘sの同人である村上航くんの作品評であり歌人評です。冊子は通販で購入することが出来ますので、ぜひとも!

https://watarudeer.booth.pm/items/5711852


人間にできないことはないんだとみかん畑に大の字で寝る/村上航

村上くんから「歌会でご一緒させていただいたときに、いつもキレキレの評をされている」という言葉を頂いて、今回わたしは連作評の依頼を受けたのだけれど、正直に話すと、わたしは連作評や歌集評の類いが得意ではない。依頼の言葉にすでに答えが出ているように、わたしが「キレキレ」なのは、無記名互選歌会での歌評と選である。

わたしは普段、他人の連作や歌集を、一首一首、この歌は選に値するかどうか、という観点で読んでいる。いや、読んでしまっている。それは、良い歌とは何かを学んだのが、瀬戸夏子によって一時期ツイッターで運営されていた「短歌bot」であったことが大きい。そして、そうして選んだいくつかの歌になんらかの構造が見出だされる場合は、それを連作評や歌集評のような体裁でツイートする。なんらかの構造はある場合もあればない場合もある。構造はあれば必ず良いということでもない。そして、これが一番大切なことだが、連作評や歌集評を書くために選をすることはない。すべては選に値する歌があってからの話だ。

そうした観点から、送ってもらった村上くんの四つの連作を読んでみて、選に値すると判断した歌は一首だった。一首だったのだが、どうか落ち込まないでほしい。以前、ある歌人と、別のある歌人の新作三十首の話題になったさい、自分の感想として、選に値すると判断した歌は三首だった、と話したら「(三十首で)三首あったら充分(良い連作)だよね」という返事があった。これにわたしも同意する。百首連作を読んで、まるまる一冊歌集を読んで、選に値すると判断する歌が一首もないと思うことは決して珍しいことではない。

村上くんは岡山に住んでいて、わたしは大阪に住んでいる。岡山と大阪は、大阪と東京よりはるかに行き来しやすいが、わたしは岡山に行ったことがない。けれども、岡山に住んでいる歌人とは、大阪や京都なんかで会う機会というのが案外とあって(向こうが来てくれてるだけなんだけど)村上くんと同じ岡山大学短歌会出身のOP(「京大短歌」29号目次参照)だけでもKさんやMさんやNさん、最近だとIくんとも顔を合わせたことがある。

岡山といえば「みかん畑」の「オレンジ」のイメージがあるのだが、なぜだろう。マスカットは黄緑、ピオーネは紫なのに。村上くんは漫画「ヒカルの碁」に出てくるくせ者キャラ・越智康介に似た髪色をかつてしていたが、その越智くんの髪色もオレンジだった。村上くんと数年前の冬に行った天王寺動物園のベニイロフラミンゴの発色も広く括れば同系統で、そうしたものの影響もあるだろうか。いずれにせよ村上くんの歌のイメージはオレンジ寄りの赤系統の陽だ。

「みかん畑」の歌ともう一首、選ぼうか迷った歌に〈ことごとくホットドッグの仕組みって簡単すぎる 朝方のひとり〉という歌がある。一首のニュアンス的に初句で言いたかったことは「つくづくと」なのではないか、という歌会的発想が出てきてしまったため、選からは漏れたのだけど、〈ホットドッグの仕組みって簡単〉と書ける度量は買いたい。

村上くんのセンスは案外と掴み所が難しい。言葉を選ばずにいえばダサいと感じることも多々ある。にもかかわらず、次の瞬間には平気でオシャレだったりする。往々にしてひとりの人間というのは、一貫してダサかったり一貫してオシャレだったりするものなのに。

一貫してオシャレであることがダサいとされることもあるし、そもそもダサいという価値判断自体が一定の尺度からのオシャレではない、という判断であることもあるため、ダサいとオシャレとは表裏一体の関係にある。村上くんのおもしろさはそうした感性の一貫性自体に揺らぎがあることだ。

数年前、わたしは「指サック太郎」という動画をYouTubeにアップした。羊文学「あたらしいわたし」を鼻歌でBGMとして歌いながら指サックを使った人形劇を繰り広げる怪動画だったのだが、その動画に唯一反応してくれたのが村上くんだった。自分自身(男)の自室での自撮りや、ハマっている異性アイドルの写真投稿といったややもするとダサいと判断されるツイッター上での挙動にいち早く肯定的な反応を示してくれたのも村上くんだった。

「みかん畑」の一首には「人間にできないことはない」「畑に大の字で寝る」など一般的な社会ルールからの逸脱、という文脈があり、そこに「逆張り」を見出だすこともできるだろう。ただ、それでは片手落ちのような気がする。「畑に大の字で寝る」ことも防犯カメラからのアングルで見ればちっぽけなものだ。そこで、大の字で寝ている人間の目を借りてみる。すると、どうだろう。世界のスケールが一転する。その一転する感触こそが「人間にできないことはない」という放言の強度であり、村上くんという歌人の陽性の一端なのだと思う。