以下の文章は今年5月の東京文フリで初売りされた「super Gyakubaraaa‘s」に寄稿したGyakubaraaa‘sの同人である村上航くんの作品評であり歌人評です。冊子は通販で購入することが出来ますので、ぜひとも!
https://watarudeer.booth.pm/items/5711852
人間にできないことはないんだとみかん畑に大の字で寝る/村上航
村上くんから「歌会でご一緒させていただいたときに、いつもキレキレの評をされている」という言葉を頂いて、今回わたしは連作評の依頼を受けたのだけれど、正直に話すと、わたしは連作評や歌集評の類いが得意ではない。依頼の言葉にすでに答えが出ているように、わたしが「キレキレ」なのは、無記名互選歌会での歌評と選である。
わたしは普段、他人の連作や歌集を、一首一首、この歌は選に値するかどうか、という観点で読んでいる。いや、読んでしまっている。それは、良い歌とは何かを学んだのが、瀬戸夏子によって一時期ツイッターで運営されていた「短歌bot」であったことが大きい。そして、そうして選んだいくつかの歌になんらかの構造が見出だされる場合は、それを連作評や歌集評のような体裁でツイートする。なんらかの構造はある場合もあればない場合もある。構造はあれば必ず良いということでもない。そして、これが一番大切なことだが、連作評や歌集評を書くために選をすることはない。すべては選に値する歌があってからの話だ。
そうした観点から、送ってもらった村上くんの四つの連作を読んでみて、選に値すると判断した歌は一首だった。一首だったのだが、どうか落ち込まないでほしい。以前、ある歌人と、別のある歌人の新作三十首の話題になったさい、自分の感想として、選に値すると判断した歌は三首だった、と話したら「(三十首で)三首あったら充分(良い連作)だよね」という返事があった。これにわたしも同意する。百首連作を読んで、まるまる一冊歌集を読んで、選に値すると判断する歌が一首もないと思うことは決して珍しいことではない。
村上くんは岡山に住んでいて、わたしは大阪に住んでいる。岡山と大阪は、大阪と東京よりはるかに行き来しやすいが、わたしは岡山に行ったことがない。けれども、岡山に住んでいる歌人とは、大阪や京都なんかで会う機会というのが案外とあって(向こうが来てくれてるだけなんだけど)村上くんと同じ岡山大学短歌会出身のOP(「京大短歌」29号目次参照)だけでもKさんやMさんやNさん、最近だとIくんとも顔を合わせたことがある。
岡山といえば「みかん畑」の「オレンジ」のイメージがあるのだが、なぜだろう。マスカットは黄緑、ピオーネは紫なのに。村上くんは漫画「ヒカルの碁」に出てくるくせ者キャラ・越智康介に似た髪色をかつてしていたが、その越智くんの髪色もオレンジだった。村上くんと数年前の冬に行った天王寺動物園のベニイロフラミンゴの発色も広く括れば同系統で、そうしたものの影響もあるだろうか。いずれにせよ村上くんの歌のイメージはオレンジ寄りの赤系統の陽だ。
「みかん畑」の歌ともう一首、選ぼうか迷った歌に〈ことごとくホットドッグの仕組みって簡単すぎる 朝方のひとり〉という歌がある。一首のニュアンス的に初句で言いたかったことは「つくづくと」なのではないか、という歌会的発想が出てきてしまったため、選からは漏れたのだけど、〈ホットドッグの仕組みって簡単〉と書ける度量は買いたい。
村上くんのセンスは案外と掴み所が難しい。言葉を選ばずにいえばダサいと感じることも多々ある。にもかかわらず、次の瞬間には平気でオシャレだったりする。往々にしてひとりの人間というのは、一貫してダサかったり一貫してオシャレだったりするものなのに。
一貫してオシャレであることがダサいとされることもあるし、そもそもダサいという価値判断自体が一定の尺度からのオシャレではない、という判断であることもあるため、ダサいとオシャレとは表裏一体の関係にある。村上くんのおもしろさはそうした感性の一貫性自体に揺らぎがあることだ。
数年前、わたしは「指サック太郎」という動画をYouTubeにアップした。羊文学「あたらしいわたし」を鼻歌でBGMとして歌いながら指サックを使った人形劇を繰り広げる怪動画だったのだが、その動画に唯一反応してくれたのが村上くんだった。自分自身(男)の自室での自撮りや、ハマっている異性アイドルの写真投稿といったややもするとダサいと判断されるツイッター上での挙動にいち早く肯定的な反応を示してくれたのも村上くんだった。
「みかん畑」の一首には「人間にできないことはない」「畑に大の字で寝る」など一般的な社会ルールからの逸脱、という文脈があり、そこに「逆張り」を見出だすこともできるだろう。ただ、それでは片手落ちのような気がする。「畑に大の字で寝る」ことも防犯カメラからのアングルで見ればちっぽけなものだ。そこで、大の字で寝ている人間の目を借りてみる。すると、どうだろう。世界のスケールが一転する。その一転する感触こそが「人間にできないことはない」という放言の強度であり、村上くんという歌人の陽性の一端なのだと思う。