2022年6月1日水曜日

平岡直子『Ladies and』について

以下、引用句はすべて平岡直子川柳句集『Ladies and』より。

・タイトル『Ladies and』の視覚も含めた書き言葉としての洗練さと声に出したときのギャップ。集中に〈Ladies and どうして gentleman〉の一句があるため機内アナウンスやショーの始まりのように威勢よく発声することを躊躇ってしまう。と、書いてから一句が「gentlemen」ではなく〈gentleman〉であることに気がついた。そうするとこの句は既存フレーズのずらしに加えて「推し」の構造や天皇制をも射程に入れた句として読める。つまり、「Ladies and gentlemen」という既存フレーズに〈どうして〉と突っ込みを入れているのではなくて「Ladies and gentlemen」というフレーズの場をイメージしたときに浮かぶのが「どうしてか(ひとりの)gentlemanだ」というようなニュアンスが〈gentleman〉だと出る。

・連作「照らしてあげて」が素晴らしい。平岡の川柳の発表媒体のひとつである「ウマとヒマワリ」で「川柳連作」と平岡は表記していたが、「川柳」に「連作」であると明示することの効果とは(少なくとも、暮田真名「OD寿司」のようなタイプとは異なる連作性ではあるだろう)。〈キックボードでかわいがる春キャベツ〉〈照らしてあげて生産農家が通るから〉〈脱・昆布の文字をひからせプラカード〉の〈春キャベツ〉〈生産農家〉〈脱・昆布〉あたりから農地を〈キックボード〉〈プラカード〉〈照らして〉あたりから広々とはしているが電灯の少ない空間をイメージする。具体的にはミレーの「落穂拾い」のような空間を。「落穂拾い」の中のサイズ感ではなくわたしたちがスマートフォンで「落穂拾い」をググって見ている画面上で茶々を入れているようなスケール感がこれらの句にはある。〈Googleはとてもかしこい幼稚園〉。視点は決して〈キックボード〉に載っていて〈春キャベツ〉をこつこつやっているわけではない。〈視界への脅迫として横に川〉。ここでの〈生産農家〉とはスマホサイズで可視化される大きさ/小ささの人間のサイズではないか。

・〈照らしてあげて生産農家が通るから〉句の複雑性。〈生産農家〉にフォーカスをあてるよう懇願しているのではない。あくまでも〈生産農家が通る〉からそこを〈照らしてあげて〉と呼び掛けている=生産農家はまだその地点にやってきてはいないが、遠くないうちにここにやってくることは確実。「照らす」とは光に湿度を与えるような言葉。穴子のタレのように。ex.卓上に塩の壺まろく照りゐたりわが手は憩ふ塩のかたはら/葛原妙子『朱靈』。

・言葉遊びよりも言葉遊びによって展開されたイメージに価値を認めたい=既成の概念や手垢のついた表現をずらすことではなくずらしたことで立ち現れるイメージの方に価値を置く=〈わたし〉でないことが即〈自然〉、即〈言語〉になるのではない。言語によって構築された世界観とはつまるところ〈わたし〉の拡大でしかないという袋小路を突破するヒントがここにはあるのではないか。〈七夕はナナホシテントウムシの略〉〈夕虹を抜けだしてきた沢庵だ〉〈羽子板のようにしてくださいと言う〉など。

・平岡直子が立ち返ってくるような句

〈夜と子どもが暗さを競うお祭りに〉〈夜を捨てるペットボトル集まれ光れ〉〈虫の音と革命のないカードゲーム〉……〈暗さを競う〉〈夜(よ)を捨てる〉〈虫の音(ね)と革命のない〉で一句になっている。

2022年5月11日水曜日

暮田真名『ふりょの星』について

アサガオに寿司を見せびらかしていい?

モナリザの肩の隣に寿司がある

/暮田真名『ふりょの星』

以下、『ふりょの星』からの引用は〈〉で示す。

川柳というと言葉で言葉の意味をずらすようなイメージがあるが、これらの句はそうしたものとは微妙に違うと思う。もちろん〈寿司を見せびらか〉す相手に〈アサガオ〉を選んだり〈モナリザの肩の隣に寿司〉を存在させたのは他ならぬ言葉なのだけど、これらは一方で映像としてイメージすることが可能でもある。一句目なんかは実際にやろうとする意志があればできる。二句目は本場のルーブル美術館では出来ないだろうが、モナリザの絵をスマホでダウンロードなりスクショするかしてその上から寿司のスタンプを押せばそれらしくはなる。これらの句を面白く読んだのはこのような想像可能性も込みでのことだった。

〈ウェットティッシュの重さで沈む屋形船〉という句でも屋形船を沈めてしまう大量のウェットティッシュを想像するよりもウェットティッシュはウェットティッシュのままその重さで沈んでしまうミニチュアの屋形船を想像してみる方をわたしは好む。ウェットティッシュの容れ物自体が言われてみれば屋形船みたいだし、表紙絵のミニチュア感を連想しても良い。〈旅客機を乾かしながら膝枕〉〈扁桃腺がジャングルジムだったら〉〈どうしてもエレベーターが顔に出る〉〈コップの水にひそむ交番〉こうした句においてもミニチュア化しているのは「旅客機」「ジャングルジム」「エレベーター」「交番」の方だ。

諦念のように集中で繰り返される〈やがて元通り嘘になるだろう〉とは、言葉の次元のことではないと思う。句そのものは元通りにも嘘にもならない。特に川柳は書かれてあることを書かれてあるままに読む文芸だと思うから。〈やがて元通りに嘘になる〉ものとはわたしたちの世界におけるスケールの序列(スケールカースト)の方だ。

他には流石に代表句として小池さんに引用されすぎの感があった〈いけにえにフリルがあって恥ずかしい〉を表題で「いけフリ」と呼んだりする精神や〈涕泣の似合う木馬にしたい〉〈緞帳よりも重たい砂金〉の漢字を「さんずいに弟」「いとへんに段」で検索する動作に川柳を感じた(〈弟的な寿司なのかなあ〉)。単なる偶然かもしれないが、数冊しか読んだことのない俳句の句集で読めない漢字を検索するときは先の「さんずいに弟」「いとへんに段」のようにピンポイントで当てにいくことは難しくなんとなく似てる形の漢字で代替して検索して絞っていく漸進的な検索方法を取った記憶がある(〈桜を湯がく できないなんて〉)。

静電気でまかなう旅の交通費

/暮田真名『ふりょの星』

2022年4月15日金曜日

対立はどこにあるのかーー高橋たか子『誘惑者』、松浦理英子『ナチュラル・ウーマン』読書メモから

〈まわすたび軋むキューピー人形の首はつぶせばつぶれる軽さ/平井俊『現代短歌』2018年10月号〉……するすると読め進められるのは『ナチュラル・ウーマン』。所収の三篇ともに「腹這い」の描写があった。「マットレス」も印象的。『誘惑者』で印象的だったパイプの熱(松澤龍介から鳥居哲代へ)が『ナチュラル・ウーマン』でも折々に(火、煙、根性焼き、キスマーク)。「「火口の中はぱあっと明るい」(『誘惑者』)」。言葉を投げることの大切さ。言葉が次の反応なり行動を生む(『ナチュラル・ウーマン』)。見掛け上の結果に反して『誘惑者』は行動の原因を言葉で問い続けた(最後の最後で織田薫の数え上げが鳥居哲代に反応を引き起こす)。鳥居哲代の頭から離れなかったのは砂川宮子の言葉だった。『誘惑者』で『ナチュラル・ウーマン』の容子に一番近い登場人物は砂川宮子だろう。織田薫回に鳥居哲代が感じた反復の滑稽さ。「「芝浦桟橋はまだでしょうか」と、鳥居哲代は言った。軀じゅうに笑いのようなものが突っ走った。」。『ナチュラル・ウーマン』のラストのコントラスト。「一段階段を下りた花世に背を向けて屋上へ駆け上り出した時に、下から声が追いかけた。「最後まで私たちらしいわね。あなたは高みへと上り、私は下降しーー」(『ナチュラル・ウーマン』)」。『ナチュラル・ウーマン』で一番好きな登場人物は容子、『誘惑者』では砂川宮子(アイスクリーム!)。瀬戸夏子「と」平岡直子問題。瀬戸夏子と平岡直子は同時には愛せない問題(瀬戸夏子、平岡直子に服部真里子、大森静佳も加えて「作品」というフィクショナルな領域で愛してみせたのが笹川諒『水の聖歌隊』だろう……〈月曜には月曜の姉がいることを昼、そして夜の日記に記す/笹川諒「テレーゼ」『短歌』2021年9月号〉。『誘惑者』を読みながら終盤で思い出したのが〈熱砂のなかにボタンを拾う アンコールがあればあなたは二度生きられる/平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』〉だった。しかし、大枠で言うなら『誘惑者』が瀬戸夏子的で『ナチュラル・ウーマン』が平岡直子的。穂村弘は『シンジケート』派か『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』派か。穂村単独でも問題になりうるが、この選択が雪舟えま『たんぽるぽる』の評価にも連動する(瀬戸夏子『はつなつみずうみ分光器』)ことの方に関心がある。『手紙魔まみ』「も」『たんぽるぽる』「も」は不可能なのか。わたしは残念ながら穂村弘自体にあまり関心がなく『たんぽるぽる』は批評者としては惹かれるが作者として、読者としては惹かれない(「現代短歌の無意識」参照)。かつて、瀬戸夏子は歌人・穂村弘と批評家・穂村弘の分裂を指摘したが、二次創作短歌の興隆により、現在は多くの歌人が、歌人・批評家・読者の三幅対になっているように思える。わたしの話をする。わたしは近頃は永井祐の歌にある官能性をもう少し前景化できないかと考えている。意外にも永井祐解釈において官能的なのは平岡直子よりも瀬戸夏子。『現実のクリストファー・ロビン』の永井祐評(!)。「成功した永井の歌には局部的な快楽ではなく、けだるい、しかしたしかに全身的な快楽がながれている。全身的であるがゆえに、永井の歌のうち、成功しているものほど極端に凹凸がすくなく、寸胴であり、顔もない。それこそが最上のバランスになる。」。「永井祐の歌のうち、あまりに直線が勝ちすぎるものについては、私はその恩寵を感知することができない。しかしその平板なフォルムが反射=光のゆがみによってーーたとえば、名詞の出現を呼びこむときーーその美しい名詞の出現は、凹凸をもたない器の不可視の凹凸のなかに浮かびあがってくるように思える。私はその様子を、もう、何度もみたことがある。」(瀬戸夏子「私は見えない私はいない/美しい日本の(助詞の)ゆがみ(をこえて)」『現実のクリストファー・ロビン』)。〈二種類(ふたしゅるい)色があるのでお好みを的にさびしい・さみしい選ぶ/永井祐『広い世界と2や8や7』〉。「葛原妙子と森岡貞香が「斎藤茂吉をこっちにとっちゃおう」と談合していたというエピソードが好きで、わたしはこのごろ「永井さんをこっちにとっちゃおう」とだれもいない家のなかで虚空に向かって話している。」(平岡直子「パーソナルスペース」『歌壇』2022年1月号)。「指を休ませないで花世は話しかける。/「お金が入ったら一緒に住もうか。」/「うん。」/「でも、きっと無理よね。」/「無理かしら?」/「無理よ。」/「無理なの?」/「どちらかが死ぬわ。」/「私が死ぬことはないだろうけど。」/花世は口を閉した。私は再び陶酔境に入った。」(『ナチュラル・ウーマン』)。

2022年4月14日木曜日

現代短歌の無意識(再掲)

初出はnote(2021年5月8日)

雪舟えま『たんぽるぽる』歌集一冊の面白さはわかるのだけれど、それに触発されて歌ができるということがわからない。自分の場合に置き換えてみると、かつて永井祐を読んで面白いくらいに歌ができる時期があった。原理的にはそれとおなじ仕組みなのだろうが、それは信仰と反発を同時に生む。『はつなつみずうみ分光器』でいうところの藤本玲未、山崎聡子、初谷むい。遡って、今橋愛、盛田志保子、飯田有子。柴田葵は笹井宏之賞時代の兵庫ユカだろうか。収録のタイミングに間に合わせてほしかったが、橋爪志保、平岡直子。『みじかい髪も長い髪も炎』のあとがきにあったように「短歌はふたたびの夢の時代に入った」のだと思う。しかし、この一文で何度も反芻したくなるのは不思議なことに「ふたたびの」の「の」だ。〈食べかけのベーグルパンと少年と置き去りの壊れた自転車/平岡直子〉。平岡直子を筆頭に瀬口真司、青松輝。穂村弘も夢の時代のキーパーソンになるのだろう。『シンジケート』の新装版はもう間もなく。わたしが見る夢は現在のツイッター短歌界隈のように混乱かつ退屈を極めるものであってはならない。少なくともその混乱の抜け道になっていくべきだ。辛うじて現在はその抜け道を寄り道的に享受する余裕がわたしにはあるが、皆がふたたび夢を食い合うようになればあっという間にワンルームに引き返すことになるだろう。雪舟えま『たんぽるぽる』(5刷)の帯を東直子が書いている。藤本玲未『オーロラのお針子』の帯を東直子が書いていることは東直子が監修者だから理解できるが、『たんぽるぽる』の帯を東直子が書いていることに何度も驚く。東直子も穂村弘も雪舟えまもリアルタイムでないからこそ驚く。初谷むいが『地上絵』の帯を書いているぐらいの感覚。その初谷むい、藤本玲未、前田康子の章を『はつなつみずうみ分光器』では面白く読んだ。とりわけ前田康子は『現代短歌』との付き合いなんかも薄っすら感じつつ椛沢知世の歌のクリティカルポイントが掴めた。それから吉野裕之。冒頭の引用を読んでわたしは爆笑したが、阿波野巧也はブチ切れてもいいと思った。それにしても東直子の再評価。再評価?『春原さんのリコーダー』『青卵』文庫化の反響ではなく文庫化と同時に再評価が済んだ印象がある。『みじかい髪も長い髪も炎』に東直子、北川草子の影を一切感じなかったのが奇跡のように思える。『はつなつみずうみ分光器』『みじかい髪も長い髪も炎』二冊の裏ボスは日々のクオリアの花山周子だ。〈無造作に床に置かれたダンベルが狛犬のよう夜を守るの/平岡直子〉

2022年4月2日土曜日

対立はどこにあるのかーー2022年の短歌総合誌から

はじめにわたしのスタンスを明確にしておくと『短歌研究』2022年4月号の対談「短歌は「持続可能」か。」(坂井修一VS.斉藤斎藤)における斉藤斎藤の主張(「私は短歌がほかのジャンルと違うのはその一人称性だと思っていて、三人称的に神の視点で描くものに短歌がなってしまったら、コンテンツ力でほかのジャンルに勝てない。」はまったくその通りだと思うし、坂井に「それは本当の文学じゃないと思うよ。」と言われる立場から少なくとも現在までわたしは短歌を作ってきた。


『短歌研究』2022年2月号に掲載された斉藤斎藤の連作「群れをあきらめないで(5)」に〈見る私・透明な魂・アララギズム・一人称性・写生・男性〉〈見られる私・身体・ぽうずのようなもの・三人称性・幻想・女性〉という二首が並べられている。この図式を目にして以来、対立させられてはいるが、どこか不自然さを持って対立させられているように思える〈アララギズム〉と〈ぽうずのようなもの〉の対について考えている。考えていたのだが、意外な所にヒントがあった。この二首に続いて記される詞書の部分。〈(……)A 正直ついでに小声で言うと、ぼくはさいきんの女性の歌を、正直読めてないと思う。さいきんの女性の歌の多くは、「自分のためのおしゃれ」に見えるんだ。/B どういうことだい? /A 「おしゃれ」とは、社会から見られる視線を引き受けることだとすれば、「自分のためのおしゃれ」とは、自分で自分に見られること、「見られる側」でありながら、その視線を社会から自分に取りもどすことだろう。/B 「見られる側」から「見る側」に回るのではなく、ね。/A で、ぼくは見ての通り、「おしゃれ」が全くわからないから、「自分のためのおしゃれ」が「おしゃれ」とどう戦っているのか、複雑すぎてわからないんだ。わからないものを適当に褒めるわけにもいかないからなあ……。〉。


「おしゃれ」という語彙からわたしが連想したのが水原紫苑・責任編集『短歌研究』2021年8月号の石川美南「侵される身体と抗うわたしについて」。平岡直子、北山あさひ、谷川由里子、川野芽生の歌を挙げて制度と身体について考える大変おもしろい文章だが、紙幅の半分は平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』に割かれており、実質的には平岡直子論である。「平岡の歌を読んでいると、意味内容に関係なく唐突にムッとする瞬間がある。理解しがたい服装の人を見て、自分のファッションに対する感度の低さを意識させられたときの鈍い痛みのような。そんな連想をしてしまうのは、私が平岡作品の良き読者ではないからだろうか。いや、そうではなく、このムッとする感じは作品自体によって誘発されているものであり、むしろ作品の魅力なのだと思う。」。この「ムッとする感じによって誘発」される「魅力」は鷲田清一『ちぐはぐな身体ーーファッションって何?』の引用文中の語彙から「平岡の場合は「どこまでやれば他人が注目してくれるか」というアピール感は薄いが、「のっぴきならなさ」は紛れもない。」と言い換えられる(「どこまでやれば他人が注目してくれるか」「のっぴきならなさ」は鷲田清一『ちぐはぐな身体』からの引用)(「短歌」と「ファッション」については『文學界』2021年8月号の特集「ファッションと文学」に掲載されている川野芽生と山階基の文章も必読。両者が「試着室」という空間に言及している点を興味深く読んだ。わたしにとっては「試着室」という空間も汗をかいてしまったり何か急かされているような感覚になったりでそれはそれで息苦しさの残る空間ではあるのだけど)。


現在発売中の『短歌研究』2022年4月号に先の斉藤の連作の続き(「群れをあきらめないで(6)」)が掲載されているが、ここで斉藤は虚実の問題を取り上げる。具体的には、第66回角川短歌賞受賞作田中翠香「光射す海」(道券はな「嵌めてください」と同時受賞)の作品世界についての分析なのだが、ここでの議論のポイントはこれまた詞書で書かれる〈(……)筆者が指摘しているのは、ほんとうの対立は、虚/実の手前にあるということだ。〉〈或る種の読者は、こいつ何を当たり前のことを念入りに述べているのか訝しく思うだろうし、もう或る種の読者は、こいつが何にこだわっているのか一切ぴんと来てないだろう。つまりこれは、虚/実の対立ではなく、疼く身体/疼かない身体の対立であり、〉にある。ここから〈だから前者の(水沼注:〈すなわち、身体の奥に疼きの回路を持ち合わせている読/作者は、〉)身体の奥が疼きさえすれば、犯していない罪について、うっかり虚構を立ち上げることもあるだろう。〉として作品内で〈タンク山にのぼった、わたし、明け方の夢にあなたの顔をしていた?〉という山崎聡子の一首が引用される。〈うっかり虚構を立ち上げる〉がポイントだと思う。「群れをあきらめないで(6)」の論理では身体が疼くことは虚構を立ち上げる起点になるのではない。虚構を立ち上げることのブレーキになる(山崎聡子作品についての斉藤の基本的なスタンスは短歌ムック『ねむらない樹』vol.5の座談会「短歌における「わたし」とは何か?」(宇都宮敦✕斉藤斎藤✕花山周子)に詳しい)。


『短歌研究』誌上において柳澤美晴は3月号で奥田亡羊の、4月号で斉藤斎藤の、それぞれ『歌壇』2022年1月号の特集「気鋭歌人に問う、短歌の活路」の文章を援用しつつ時評を書いているが、柳澤が援用するこの特集で最もラディカルな問いを提示しているのは平岡直子の「パーソナルスペース」だと思う。「パーソナルスペース」は永井祐論でありながら同時に「葛原妙子と森岡貞香が「斎藤茂吉をこっちにとっちゃおう」と談合していたというエピソードが好きで、わたしはこのごろ「永井さんをこっちにとっちゃおう」とだれもいない家のなかで虚空に向かって話している。」とまで言ってのける文章だ。4月号の時評の末尾で柳澤は先の北京オリンピックにおける羽生結弦の四回転アクセルへの挑戦を例に「我々は他人の眼にどう映るかを気にして「じぶんの観せ方」を決めることはやめ、もっと大胆に詠い、放胆に論じるべきだ。語り口で魅せてやるくらいの好戦的な気持ちで。」と述べるが、平岡の文章がそうでなくて一体。


ところで、『短歌ヴァーサス』vol.11(2007年)の座談会「境界線上の現代短歌ーー次世代からの反撃」(荻原裕幸✕穂村弘✕ひぐらしひなつ✕佐藤りえ)でもフィギュアスケートの例えが使われていた。長くなるが最後に引用したい(この号には斉藤斎藤「生きるは人生とは違う」も掲載されている)。


〈穂村 (……)ジャンルによってその二重性(水沼注:一次的な表現そのものが評価されると同時に表現ジャンル観が評価されること)の強さは違うと思うんだけど、短歌みたいなものはきわめて二重性が強いわけ。で、斉藤斎藤の場合、実際の一次的な表現ですごくいいって言った人の率よりも、なぜ自分は肉体練習をしないのか、っていう定型観の強度みたいな方に行ってるよね(水沼注:『渡辺のわたし』刊行後の話であることに注意されたい。わたしが斉藤の作品で最も評価するのは第二歌集『人の道、死ぬと町』所収の連作「棺、『棺』」だ)。だから彼の歌を見るというのは、その「観」を見るっていうようなところがある。その直前までは「観」じゃなくて、盛田志保子や今橋愛や、東直子、早坂類あたりの、その種の女性の一次的な言語感覚のすごさみたいなものが圧倒的に僕なんかの目には強く映っていたんだけど、それはとうとう飽和状態になって「もういい!」って(笑)。どんなに素晴らしい演技をしても、要するにお前は生まれつき身体が柔らかいだけじゃないか、って、そういう話になる。もちろんそれでいいんだよ。それでたとえばフィギュアスケートだったら、スケート観よりも実際に五回転できるってことがすごいわけだけど、短歌においては東直子とかが五回転できて、斉藤斎藤が「いや、俺は跳びませんから」みたいな(笑)、「俺のスケートは跳ばないスケートですから」みたいなさ。〉

2022年3月23日水曜日

瀬戸夏子と横書き中央揃え

わたしが現代短歌に本格的に目覚めたのは葉ね文庫のフリーペーパーコーナーに置いてあった「瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.(仮)』抄出三十首」という一枚の紙との出会いだった。一枚の紙といってもコピー用紙ではなく硬質な紙質の白というよりは銀に近い色味の紙だ(同内容で背景が黄緑のペーパーも存在する)。言うまでもなく、書肆侃侃房から2016年の2月に出た瀬戸夏子第二歌集『かわいい海とかわいくない海 end.』の近刊を告げるフリーペーパーなのだが、この段階(2015年の秋頃)ではまだタイトルに「(仮)」がついている。この抄出三十首を見て惹かれた歌をいくつか挙げてみる。〈かなわない頬っぺたのように夜の空 クリスマスと浮気は何度でもしよう〉〈強盗と消防士がかなしく分かつポカリスエットに頬を打たれた〉〈わたしを信じていて ゆめをみて 絶望を斡旋するのがわたしのよろこび〉〈北極の極ならそんなの埼玉の天使と東京の天使で話しあいなよ〉〈それはそれはチューリップの輪姦でした〉……。さて、表題にもしたが、これらの歌はいわゆるWordの設定でいうところの横書き中央揃えで印字されていて、わたしはこの事実にこだわりがある。というか、これらの歌が横書き中央揃えで印字されていなかったらわたしはこのタイミングでこれらの歌に打たれることはなかっただろうと思う。事実、このあとしばらくの間、わたしは横書き中央揃えで短歌を印字して発表していたし、同じように打たれた(?)石井僚一も2015年の大晦日に「ラヴレターは瀬戸夏子の彼方に」というネットプリントを横書き中央揃えに白黒反転までして出した。〈骨に骨 引き寄せるとき身を捩るあなたはあなたの抒情の墓石〉〈須くシモーヌ・ヴェイユ、檻の降る丘で脚本通りに君を〉。『かわいい海とかわいくない海 end.』刊行直前のこうした流れの中でわたしはこの歌集が横書き中央揃えで刊行されることを信じて疑わなかった。周知のように、この歌集は縦書き一頁三行を基本レイアウトとしている。横書き中央揃えではなかったのだ。ただし、その残り香のように本文中の章題の表記と Special Thanks は横書き中央揃えになっている。〈スイーツその可能性の中心〉〈わたしは無罪で死刑になりたい〉〈生まれかわったら昭和になりたい〉(章題)「過去、現在、未来を問わず短歌を愛し短歌を憎むすべての人々」(Special Thanks)……横書き歌集のことを思い出したのは伊舎堂仁の第二歌集『感電しかけた話』に、表紙、横書きに倒された自選5首の宣伝ツイート、ベースになっていると思われるnote記事などからその可能性を覚えたからだった。とはいえ、リーダビリティ(散文性、非屹立性)から要請される横書きや向井ちはる『OVER DRIVE』のようなデザイン的な横書き(余談になるが、瀬戸の運営していたツイッターの<短歌bot>で名前と歌を知った向井ちはるの歌は縦書きのシンプルなレイアウトで読みたいと思った)とも瀬戸の中央揃えは異なる何かを表象しているように思う。屹立は屹立なのだが、打ち抜き方の形が違う。それが横書き中央揃えという形で具現化された、とまで主張するのはあまりに順接すぎる嫌いもあるけれど。横書き中央揃えという詩の中心点。それは脳内でイメージされる詩的消失点の対極にある。〈青空は左利きだとクイズにあった桜という字はわたしが消した〉(瀬戸夏子「どんな死体なのかな」第二歌集刊行記念特典ペーパー葉ね文庫ver. 横書き中央揃えで印字)

2022年3月7日月曜日

小島なお『展開図』再読

歌集が出てすぐの頃(2020年5月あたり)「心の領地」を境に分断された(当時のわたしはあとがきで「選歌をお願い」されておこなった「高野公彦様」による選歌を選歌が本質的にはらむ暴力性以上の強い力として受け止めてしまった)文体についていけなかったこともあり改めて「心の領地」から読んでいく。


悪いことじゃないよ時間をこなすのは杭の頭に順に触れゆく

花の日は花に甘えてなにか言うための言葉を探さずにおり

また空を浪費しながら私あり覚えておこう使いきるまで

いつまでを友だったのかセロテープ透ける向こうが学生時代

陽だまりを啄む鳩の分身が瞬くたびに増えてゆく午後

セーターについたチョークの粉 いまは抽象的な過渡期と思う

一花ごとにある時間軸 木槿から木槿の時差を渡ってあるく


自分の、心のために使う時間。しかし、内省的ではない。浪費とは一般的な消費感覚に対する批評でもある。セロテープがこちら側とあちら側とのフィルターになる。窓ではなくセロテープ。直線的、縦幅と横幅にかなりの開きがある。任意の点で切ることができる。一回性ではなく残像のように重なりつつ振れる。〈体内に三十二個の夏があり十七個目がときおり光る〉の〈十七〉を特権的に読むこともできるだろうが、それでも固定された点としてクリアに呼び出されるわけではない(セロテープ)〈プレパラートにむかし覗いたものは何 月の産毛も見えそうな夜〉(プレパラート)〈ソフトクリーム舐めてあかるむ喉をいま古い涙のようなもの落つ〉現在形で舐めてあかるむものがソフトクリームであること。単なるノスタルジーではない。差異と反復。「失恋」もまたそのひとつのかたちだろう。ところで、後半の大森静佳『カミーユ』的文体はこうした個的存在者の差異と反復をむしろ抹消してしまう嫌いがあった(〈私だけの夏なわけでもないだろう季節は誰の手紙でもない/小島なお〉〈来てくれて待っててくれて夏の川やさしさはやさしすぎて苦手/同〉翻って『カミーユ』的文体とは歴史的な差異と反復に有効な文体なのだと思う〈明け渡してほしいあなたのどの夏も蜂蜜色に凪ぐねこじゃらし/大森静佳〉〈ダナイード、とわたしは世界に呼びかけて八月きみの汗に触れたり/同〉)。


【「心の領地」以前】

他人の恋は豆電球のあかるさで薄い硝子に触りたくなる

テーブルにLOFTの袋置かれあり黄色はこの世を生きる者の色

雪を踏むローファーの脚後ろから見ている自分を椿と気づく

妹のほそく毛深い後ろ首 躑躅は妊婦のためにある花

灯台はこわい むくんだ産月の妹の脚思い出すから

泣くためにきた用水路さくら浮く水面にほそい蛇泳ぎゆく