2023年9月12日火曜日

『浅い夢』覚書

横書き100首。復職してから現在までに7首~15首単位で画像ファイル一枚にしてTwitterとInstagramに投稿していた短歌から100首選んだ。投稿時はscrapboxでメモしていた短歌を文庫本メーカーで縦書きに変えて完成としていた。

1首編集の過程で重複が出たが、暮田真名『ふりょの星』の例もあるし、と思ってそのまま採用(なんとでも言える口だけはある)。NewJeansをNew Jeansと本文で誤記していたので、同封のK-POPフリペで訂正したが、STAYCをSTYACと誤記している箇所が見つかった。英語だと編集の目が一気に落ちる。

瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.』に横書き中央揃えの、伊舎堂仁『感電しかけた話』にnoteタイプの横書きレイアウトを、青松輝『4』に本人のツイート画像のような横書きデザインを夢見たのだが、いずれも「本」ないし「商業」によって現実化しなかったので自分で作ってみたのが『浅い夢』

なんとでも言える口で文フリ前日につぶやいたが、良い線はついている。縦書き二行歌集は、わたしが短歌をはじめてからでも『翅ある人の音楽』『静電気』『meal』『人魚』『景徳鎮』などがあるが、横書き歌集は一冊も見ていない。

「横書き」だけが前面に出るのではなく、横書き短歌が違和感なく存在するレイアウトは可能だろうか。縦書き二行形式の、縦書き一行が一般的な短歌レイアウトへのちょっとしたずらしのような効果(先にあげた歌集が旧仮名、文語のいずれかもしくは両方を採用しているのは決して偶然ではない。このことは横書き歌集の夢を見た三冊の文体とも関連する話)まで横書きに望めるかというと微妙で、そもそも二行形式との関連で言えばスマートフォンなどのメモアプリやTwitterへの投稿時はほとんどすべての短歌が横書き二行にまたがっているはずなので、それを横書き一行にするのも縦書き一行にするのも大差ない、という考え方もできる。

良い読者ではないが、現代詩、とりわけ余白の少ない散文詩のレイアウトに可能性を感じることがある。これは、わたしが可能性を感じている新聞のレイアウトに一番近い印字形式だから、ではないか。どんなレイアウトやフォントでも同じように短歌が読める人もいるだろうが、わたしは無理で、コピー本をときどき作ってしまうのもコピー本だと「SimSun」というお気に入りのフォントが使えるから(印刷会社では対応してなくて、「オフタイマーをもうすぐ切れる」の時は慣れないフォントを使った)。と言いつつ、「SimSun」は縦書き短歌のほうが映えるんですが。

2023年3月4日土曜日

動的な鏡ーー橋場悦子『静電気』について

 橋場悦子『静電気』より20首選

相手からもわたしが見えるのを忘れひとを見つめてしまふときあり

閉めきつた部屋にも深く入(はひ)り込む切り取り線のやうな虫の音

好きな色「透明」と言ひしひとのこと思ひ出したり夕立の中

空つぽの弁当箱を持ち帰るやうだ心臓ことこと揺れて

いくつものルートがあるが乗り換へはいづれも二回必要である

白も黒もますます似合はなくなりて出勤時刻迫りくる朝

迷つても平気地球は丸いから 空の青さの沁みる十月

最後尾の札は立てかけられてゐて誰も並んでゐない店先

奥さんと呼ばるることの少なくて毎朝鍵を外から掛ける

この鍵で開くからわたしの部屋なんだ真つ暗闇に明かりをつける

信号のない交差点つつ切つてもつと遠くへもつとひとりに

ああこれは夢だと気づく夢の中片つ端から蓋開けてゐる

えんえんと西瓜割りしてゐる心地ひとり収まる深夜タクシー

日が暮れる前にどこまで歩けるかときどき桜の咲く帰り道

花冷えが一番寒い化粧したままいつまでも座り込む部屋

街路樹はなべて炎のかたちして空に届かず東京の夏

写真とは常に昔を写すもの鏡ほどにはおそろしくない

彩りにパプリカなども添へて出す これを独占欲といふのか

ぬひぐるみみたいだなんて本物のパンダ見ながら言つては駄目だ

夕暮れのとき長くして次々に知らないひととばかり行き交ふ


古着屋や美容室の鏡で見ている自分はワンルームでハンドミラーを見ている自分より遥かに魅力的だ。マンションのエレベーターや実家の全身鏡で見る自分はその中間ぐらい。鏡ってだいたいは矩形でその形から静的な存在だと思い込んでいたが、決してそうではなく、動的な存在なんだと『静電気』を読んで思った。〈夕暮れのとき長くして次々に知らないひととばかり行き交ふ〉という一首がただの都会のワンシーンには見えないように見えるのが不思議で、それは〈長くして〉に拠るものだろうか。あるいは(いや、同じことか)〈知らないひと〉ひとりひとりにきっちり出会っているからだろうか(その時間が〈長くして〉に拠って確保されているということ)。時間や空間が間延びしているのは〈ときどき桜の咲く帰り道〉を歩いていることからもよくわかるというか、このフレーズだけで満開の桜の季節までもを内包していて、その感覚が〈迷つても平気地球は丸いから〉という断言を可能にする。〈えんえんと西瓜割りしてゐる心地ひとり収まる深夜タクシー〉。おそらく後部座席の運転手と対角の位置に長さのせいで少し緩んだシートベルトをつけて座っているのだと思う(ほろ酔いの酩酊感なら真後ろに座るだろうが、だとするとドライバーの頭は西瓜にならない)のだけどこの一首に〈奥さんと呼ばるることの少なくて毎朝鍵を外から掛ける〉に通底するものを読むことも出来るだろう。余談だが、一首二段組の歌集に、長さに拠って一行になった歌が入り込んでいる歌集をはじめて見て、この点も『静電気』の世界線だな、と思った。

2023年2月12日日曜日

短歌定型の現在ーー山崎聡子の「つつ」「まま」「よ」について

コロナ禍の前のことになるけれど、短歌の「接続と因果」にこだわっていた時期があった。主に否定的な文脈で「つつ」や「まま」や「とき」といった語を作者が恣意的に用いてることを大阪や京都の歌会で執拗に指摘していた。それはいわゆる「つぶやき+実景」の+の崩壊、短歌定型という一点のみで成り立っていた接着剤が表面化してしまうことへの気持ち悪さだった、ろうか。

先日発売されたばかりの「あこがれ」をテーマにした短歌アンソロジー(「アンソロジスト vol.4」)を読んでいてびっくりしたのは、平岡直子と山崎聡子の文体の近さだ。ふたりの文体は、もはやつぶやきと実景のような二項が一首のなかで対立せずに抱えられていく。なかでも山崎聡子の文体はひとつの完成形と言えるだろう(これに対して〈女の子を裏返したら草原で草原がつながっていたらいいのに〉と歌った平岡の近作(「録画」「黒百合」)の文体は山崎的な文体をさらに極限へ押し進めたかたちだが、現在のわたしには評価は不能である)。

お砂糖がちょっと焦げたらカラメルで、夜で、絶望的で、弱火で、

ビル街にゆっくりと夕暮れがきて大量のフラミンゴの気配だ

/平岡直子「録画」「短歌研究」2023年1月号

つきあかりのしたの警察署のようにとてもしずかな身体だったわ

音漏れのようにじぐざぐ歩いてた 夜の港を、誰かが、誰かが、

/平岡直子「黒百合」「アンソロジスト vol.4」


手芸店に紫の石を持ったまま見えなくなっていたの夕暮れ

/山崎聡子「宝石」「アンソロジスト vol.4」

公園のトイレにくらぐら産まれつつ記憶のなかに蝉声はある

/山崎聡子「Birth」「短歌研究」2022年11月号

ここまでくるともはや「まま」や「つつ」の恣意性を指摘したいとは思わない。見事な歌だと思う。手芸店の一首は、子ども時代の回想を短歌一首に仕立て上げたとも読めるが、一方で、回想をいったん経由した上で短歌的な「現在」にも手が届いている。公園の一首は、わたしが産まれた「現在」(!)を記憶のなかの蝉声を媒介とすることで浮かび上がらせる。あの、蝉声の、もう鳴り止まないんじゃないか、という時間感覚が「つつ」そのものでもある。「蝉声はある」の「は」がとんでもなく凄く、この「は」によって記憶とわたしとの地位が反転しつつ接続する。


琥珀のなか火は燻って裸のまま生まれて死ぬという甘言よ

/山崎聡子「宝石」

トンネルに入って薄くなった影を垂らして八月のおわりの帰路よ

/山崎聡子「Birth」

余談として、山崎-平岡的な回想を経由した上で短歌定型という現在に回帰する文体が採用する間投詞が「よ」であることに長らく興味がある。この選択について、実作レベルでの必然性はほとんどつかめた(みたいです)のだけど、「まま」や「つつ」や「とき」を束ねるときに用いられる間投詞が「よ」であることに疑問を持つ読者や評者もいるだろう。これに対してはそれなりの時間を掛けて作ってみるとわかってくる、としかいまは言えないが、とにかくこの文体だと一首の判子(直近の現代短歌社賞選考会を参照)が「よ」になる。

さらなる余談として、山崎の第二歌集『青い舌』は「動詞と名詞を行き来するような歌集」だと以前わたしはつぶやいていたようだが、いま読むとかなり難しいことを書いている。重要なのは、「動詞」と「名詞」の「動」と「名」で、短歌一首は往々にして「A(接続詞)B」構文を取るのだけど、山崎-平岡文体はこの構文の安定状態が崩れている、ということだろうか。こちらも手掛かりになれば。

風がたき火に混じるその日を冬と呼び風に十字を切って遊んだ

水たまりを渡してきみと手をつなぐ死が怖いっていつかは泣くの

遮断機の向こうに立って生きてない人の顔して笑ってみせて

/山崎聡子『青い舌』


参考音源

The 1975 「I'm In love With You」

宇多田ヒカル 「BLUE」

NewJeans 「ditto」

Se So Neon 「NAN CHUN」

adieu 「旅立ち」

IVE 「LOVE DIVE」

ずっと真夜中でいいのに。 「消えてしまいそうです」

Clairo 「Sling」アルバム

Remi Wolf「Juno」アルバム

2023年1月9日月曜日

「角川短歌」1月号から10首選すれば抱負が自ずから出た

「新春一三三歌人大競詠」を拾い読みした感想をつらつらと。角川の新年大競詠を読んで毎年のように思うのは作り手としての自分とはまったく無縁の文体の歌人がほとんどを占めるということで、柔道なんかの「階級が違う」に感覚としては近い。わたしは「見かけは平易な口語文体」で「ねじれやメタが高度」(瀬戸夏子)な歌風(わからない、という方は勉強してください)なのだが、角川的な文体までくるとシンプルに歌を読む楽しみがある。7首というのは、基本的に、見切りがつけられない=次作へ期待が持ち越されれば、成功だと思う(流石に5回続けてつまらない作品を読んだ作者は追わなくなるので)。


目を上げて川をみるなりわが電車利根川鉄橋にさしかかりたれば/小池光

と言いつつ、10首連作枠から。「わが」で「わたしが乗っている」を担わせているのがうまい。加えて、「わが電車」と限定されることで無防備な(場所の限定がなかった)川を見る目が一気に座席へ収束する。縦二座席ではなく横に長いタイプのがらがらの電車の真ん中あたりに座っているような気がするのは両眼を使って見ているように感じるから。


ファン・ゴッホくるへるごとくまつきつき菜の花ばたけは菜の花を着て/渡辺松男

去年の終わりぐらいから渡辺松男こそライバルに相応しいという気持ちがむくむくと湧き上がっている。渡辺の歌を読むたびにどうしてここまで好感度が高いのかと首を傾げたくなるほどの嫌悪感を抱く。これでは鮭の産卵じゃんと思うが、みんないくらは好きなんだった。〈ひとが手を振れるに光る腋の下たいさんぼくの咲きたるごとし〉なんて実質松男型の〈ノースリーブの腕のひかりの苦しくて好きになつたらあかんと思ひき/大辻隆弘『景徳鎮』〉じゃんと思うが、実質をいかに魅せるかが個性なんですかねえ。


重なり合う星座はあらず親になることなく見上げる冬の夜空に/鍋島恵子

ぽつぽつと見かけるたびにこの作者の歌の立ち姿が良いなと思ってしまう。なぜだろう。


返ってきたメールとすごす冬の午後 いろんな色にライターがある/永井祐

〈メールしてメールしている君のこと夕方のなかに置きたいと思う〉然り、永井さんはメールを味わうのが相当お好き。LINEなんかも既読を付けずに受信したメッセージをしばらく馴染ませるようなタイプなのかな。もう少し踏み込むと山階基作品の優しさとの違いを考えるとおもしろいと思う。〈自転車のサドルをかなり上げたまま返したことを伝えそびれる/山階基「忘れながら数えながら」『短歌研究』2023年1月号〉


詞書:福岡では時々空飛ぶ桃を見ることがある どこもこんなものだろうか

空飛ぶ桃を眺める朝よ 染野さんの島田修三のうた何度も唱える/竹中優子

わたしも一年休職していたこともあり〈今休めば太宰治賞に間に合うと思わなかったと言えば嘘になる〉も含めて細かいニュアンスまであうあうとなる。〈チキンラーメン慌てて食べてひとしきり『あの日の海』と『人魚』を読んだ〉という一首をわたしは作った。


美しく重たくひどい着心地のコートに消えてしまいたいのよ/平岡直子

〈からっぽの頭で乗っている電車シュークリームの空気は甘い〉と迷ったが、この永井祐感を先に読んでからの一首を選ぶ。〈美しく重たく〉〈ひどい着心地の〉〈コートに消えてしまいたいのよ〉と三段階のギアチェンジがあるが、一首の読み下しとは反対に初二句の〈美しく重たく〉の脚韻(で合ってます?)が現在の心情として重たくのしかかってくる。


毛布からはみだす肩が冷たいと自律神経に雪が積もると/小島なお

「短歌テトラスロン」の30首もそうだったが、得体のしれない、スケールの異様に大きな相手を扱いそこね続けている。こういうときにわたしは「歌集で読みたい」と思うようだ。〈読むように抱き、それからはありふれた手順であかい月をみあげた〉〈浴室の磨りガラスにまで貼りついた私の声を剥がしておいて/小島なお「魚は馬鹿」『短歌研究』2023年1月号〉


風の誕生日それからわたくしの頭皮くるしむごとく波打つ/大森静佳

『シンジケート』にこんな歌なかったっけ、と思ったが、〈風の交差点すれ違うとき心臓に全治二秒の手傷を負えり/穂村弘『ドライ ドライ アイス』〉だった。『ヘクタール』の出版それから、みたいな歌でしょうか。


もう二度と起きないけれど僕たちは微粒子レベルでまた手をつなぐ/藪内亮輔

藪内さんの歌は着眼点は微粒子レベルなのに歌の骨格が太いという矛盾がずっとあり、もはやそれしかないが、それを作家性と呼ぶのだろうか。


私ばかりが愛情に飢ゑてゐて恥づかしい銀杏並木のコインランドリー/睦月都

研究も含めた競詠企画で読むと毎回フレッシュさを覚え、先の小島さんとは違った意味で「歌集で読みたい」と思う作者。わたしの中で歌集とはとにかく飽きずに最後までページを捲りたい本でしかない(ので、理想の歌集とはすべての歌をはじめて読むように読める歌集、になる。平岡直子の「まだ読み終わらない」という『シンジケート』評を思い出されたい)。スケールの大きさとフレッシュさ。いい歌集作るぞ。

2022年11月13日日曜日

永井祐一首評①②

来年は3回告(こく)ると君は言うコーデュロイのきれいなシャツを着て

/永井祐『広い世界と2や8や7』

わたしはこの歌に色気を感じるけれど、何に由来した色気なのだろう? 告(こく)る、とは、意中の人間に向かって自分の好意を伝えること。それを来年は3回やるらしい。同じ人に? まったく別の人に? というのは、おそらくどちらでも良くて、とにかく来年は3回告るぞ、という宣言、その清々しさ。の、空気は同じ連作の〈来年の抱負を0時のカラオケで言い合うクリスマスイブがいい〉の一首でだいたい補完出来てしまうのだけど、それだとただの良い空気感の歌になってしまう。おそらく、告られる相手がわたしたちの完全に外側にいて、もしかしたらこの発言を聞いている周りの人間ですら、いや、言っている当人ですら君(自分)が誰に告るのかわかっていないのだろう。クリスマスイブにコーデュロイのシャツなのも、いくらコーデュロイのシャツの厚さをもってしたとしても薄着に違いないが、高級なジャケットやマッチョなジャケットを羽織っているよりも身の丈に合っているというか、パリッとした生地感とすっぽりと出た(顔というより)頭の清々しさを際立たせている。わたしは以前から永井祐と瑛人の近接性を感じているけれど、一首に感じた色気とはそうした類いの香りのことだったのかもしれない。

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あらためてまじまじとながめてみれば人は誰でもドMにみえる

/永井祐『広い世界と2や8や7』

言うまでもなく〈人は誰でもドMにみえる〉のは〈あらためてまじまじとながめてみ〉ているからである。リワークセンターという復職の学校的な場所に通っていたときに認知行動療法という考え方を知った。かんたんに言うと、出来事そのもの(一次)ではなく出来事の受け止め方(二次)を見直すことで(不調のときには分かちがたく結びついている)出来事そのものと出来事の受け止め方とを分離し、そのあいだに柔軟な思考回路を構築する考え方のことで、この関係性は千葉雅也『動きすぎていけない』第8章で整理されているドゥルーズ『マゾッホとサド』のサディズム(イロニー)とマゾヒズム(ユーモア)に対応している。永井祐はアイロニーの人かユーモアの人かと言われたら、ユーモアの人(そもそも短歌定型の枠組みで歌を作っていることが既にM的なん)だけど、出来事そのものにアタックしないというのは、見ようによれば、本質を突き詰めない、根本に向きわない態度としてヌルい、と感じる大学生がいるかもしれない。他ならぬわたし自身三十一歳になった現在でも、そう思うことがないことはないが、一方で、広い世界とは、あらためてまじまじとながめた先にあるものなのだろう。

2022年11月7日月曜日

ラッピングーー平岡直子について

2010年代後半にわたしは自分宛にふたつの短歌を受け取った。ひとつは〈再演よあなたにこの世は遠いから間違えて生まれた男の子に祝福を/瀬戸夏子〉。ひとつは〈灯台が転がっているそこここにおやすみアジアの男の子たち/平岡直子〉。

リアルタイムでわたしに強烈なメッセージとして訴えてきたのは瀬戸の〈間違えて生まれた男の子に祝福を〉だったが、この男の子が祝福されるのは(あなた=男の子と読むなら)あくまで〈あなたにこの世は遠いから〉であり、わたしがわたしとしてここに在るからではない。そのズレは当時のわたしにはむしろ救いであったが、2022年の現在はその限りでない。

平岡の一首はどうだろう。そもそもそうした枠組みでいままで自分のことを考えたことがなかったが、立派な日本男児であるわたしも他ならぬ〈アジアの男の子たち〉のひとりなのだ。ハロー・アイ・アム・アジアン・ボーイ。アジアはアジアでも東南アジア上空を飛行中のような気分になるのは、〈灯台〉という語彙(〈そこここに転がっている〉!)がラッタウット・ラープチャルーンサップ『観光』の記憶と重なり合うからだが、加えて、〈アジアの〉と限定されたことでかえって自由にアジア各地を転々と移動することができる。今日は韓国、明日はフィリピン。来年は神戸にも行きたい。

そんなアジアの男の子であるわたしの内部でいま猛烈な勢いで軋んでいるのが〈君に会いたい君に会いたい 雪の道 聖書はいくらぐらいだろうか/永井祐〉。君に会いたい君に会いたい、という軋みは〈秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは/堂園昌彦〉の普遍/不変的問いを悠々と超えていく。


平岡直子20首選

『みじかい髪も長い髪も炎』(2021.4)

腹ばいで読むとき歌はくるくると全方角に散っていく花

食べかけのベーグルパンと少年と置き去りの壊れた自転車

まつ毛というまつ毛が電波狂わせて終夜よい子でいるキャンペーン

じゃあずっとここに立ってる廃線の線路がポケットに流れこむ

灯台が転がっているそこここにおやすみアジアの男の子たち

なんとなくピンとこなくて sympathy って言い直す 言い直す風のなか

東西も南北もない地図のうえ線路はこの世の刃として伸びよ

記憶が風に混ざってだんだんわからなくなるけれど、蜘蛛と雷

喪服を脱いだ夜は裸でねむりたいあるいはそれが夢の痣でも

「歌壇」巻頭作品(2019.11)

ページの端がちょっと折れても元気でね若者や恐竜のようにね

トイレから戻ってきてもそこにいて、グループ展の小さなチラシ

短歌同人誌「外出」(2019.5-)

今日はとても長生きをした行きずりの会話たくさん耳に注いで

タクシーのなかはちらちらしてたけど、目次に目を通すだけで一生?

雨ざらしの家具にみえても構わないから身長を書き込まないで

垂直に口開く鯉ベルトごと脱ぎ捨てられたズボンのように

深呼吸しろと言われてするときに散る画数がばらばらの文字

うた新聞(2021.7)

穴をふさげる穴なんてない プリクラの顔に変わっていくつもりなの

リハーサルは終わりよ、整形モンスター、星のかたちの心を持って

版画にて刷られたる鮒 好感を持たれることに命を賭けて

わたしたちはぜんぶ帳消しにしよう蛍光ペンでお化粧しよう

平岡直子は直接性の歌人だ。直子だから? 直子だからってのもある。余談だが、〈垂直に口開く鯉ベルトごと脱ぎ捨てられたズボンのように〉という平岡の一首は〈平岡直子〉という四字についての一首だ。

直接性というキーワードから平岡直子は一元論者であると思われるかもしれないが、ここは慎重に判断するべきだろう。というか、おそらくそうであるからこそ、平岡は断言のあとに必ず断言を覆す。

「短歌は汎用性のある着ぐるみだ。短歌は汎用性のある着ぐるみではない。一人として同じ内面を持つ人間はいないとみなすのも、全員が同じ内面を持っているとみなすのも、ほとんど同じことなのではないか。」平岡直子「パーソナルスペース」短歌総合誌「歌壇」2022年1月号

直接性とは、「ほとんど同じ」であることの歓喜と悲劇にのたうち回ることだ。

「短歌って、極論を言うとぜんぶが幻想的なんですよね。韻文という性質上、散文のモードではちょっと考えられないくらい非現実的な表現にまみれているものなので。(……)でも、ぜんぶが幻想的だということは、ぜんぶが幻想的ではないとも言えてしまうので、そこから何か取り出して喋るのは難しい。」「座談会 幻想はあらがう 大森静佳×川野芽生×平岡直子」文芸誌「文學界」2022年5月号

どちらかというと裏返されながら見せているむきだしの映画館 『みじかい髪も長い髪も炎』

女の子を裏返したら草原で草原がつながっていればいいのに 「外出」創刊号

以前にも書いたが、わたしが平岡の近作でもっとも良いと思うものは「ラッピング」12首(「うた新聞」2021年7月号)だ。平岡の短歌を読んでいくなかで焦点をそこに合わせすぎることには賛成できない〈穴〉という(キー)ワードを自己言及的に用いた〈穴をふさげる穴なんてない〉というテーゼから出発し、途中、一首の構造上、作者の吐露と読む必要性はないが、わたしはそう読んだ〈好感を持たれることに命を賭けて〉というショッキングなフレーズが挟まる一連は〈わたしたちはぜんぶ帳消しにしよう蛍光ペンでお化粧しよう〉という一首で締められる。内容面としては「ラッピング」というより「トッピング」のような連作だが(一方で、短歌定型や連作という型、枠組みに力点をおけば、この連作は「トッピング」ではなく「ラッピング」なのだろう)この連作の理論的バックボーンとして読めるのが、平岡が「外出」創刊号に書いた「短歌には足し算しかない」という文章(名文!)だ。

かんたんに時系列をおさらいしておくと、「外出」創刊号は2019年5月に刊行されている。その前年の2018年に平岡は「外出」の同人である染野太朗とともに「日々のクオリア」を完走していて、くだんの「短歌には足し算しかない」はその続編のようなスタイルで書かれた文章だ(表面的には、永井祐と宝川踊の一首評二日分だが、一方で、この文章は一首評一本が見開き二頁×二の四頁全体で「短歌には足し算しかない」と題されていることにも注意が必要で、これは上記の「ラッピング」と「トッピング」の関係性ともパラレルだろう)。

それぞれの結論部(最終段落)を引用する。

「かけ算やわり算によって都合よく情報のサイズを変更したり、正確に復元したりできるかもしれないというのは幻想だと思う。短歌には足し算しかない。作者にできるのは書き加えることだけで、読者にできるのは歌にさらになにかを書き加えることだけである。」(永井)

「欠損した言葉は歌の背後にある身体性を回復させない。だから、この歌はたしかに透明なのである。」(宝川)

短歌実作と短歌の批評をおこなっているわたしたちには「短歌には足し算しかない。作者にできるのは書き加えることだけで、読者にできるのは歌にさらになにかを書き加えることだけである。」というシンプル極まりない主張がどれだけ困難で勇気を必要とするものか身をもって理解できるはずだ。

2022年10月30日日曜日

〈文学〉が遠いわたしへーー2022年の短歌について

「過去や歴史はいわば時間的に手の届かないものであり、光や闇、心は空間的に手の届かないものである。著者(水沼注:大辻隆弘)の関心は、そのような今ここに形を持っていない物事に対して、ことばの世界でしかなしえない操作を施すことにあるのではないのだろうか。その動機には、届かないものへの憧憬があり、それらにことばの上で形を与えたり、あるいは形あるものと形なきものの境界を崩したりといった操作は、現実世界において届かないもの、届きようないものを、ことばの世界において手元に引き寄せようとする意志の表れではないだろうか。」山川築「ことばへの信頼」(大辻隆弘『水廊』歌集評)短歌同人誌「波長」創刊号

山川がここで述べている営みを端的に一言で〈文学〉と呼ぶならば、わたしは〈文学〉に批判的である。いや、わたしにはその〈文学〉こそが「現実世界において届かないもの、届きようのないもの」に他ならない。〈文学〉が「届きようのないもの」であるわたしには「ことばの世界でしかなしえない操作を施す」とは、実際にどういうことなのかが皆目わからない。ところで、あなたは渡辺松男が好きだろうか? そうであるならばあなたは〈文学〉に肯定的ということになる。わたしは〈文学〉に批判的なので渡辺松男を好まない。渡辺松男を好まないので〈文学〉に批判的である。

「そもそも短歌は「文学」である必要はあるのだろうか? わたしは、短歌は、(自己を表現してこそ、という)「文学」である必要はとくにないと思っている(そしてまったくおなじくらい、同時に、短歌は「文学」であってもいい、とも思っている)。」(瀬戸夏子「人がたくさんいるということ」「文學界」2022年5月号)

どのような実感から出発するにせよ短歌を読み書きする人間がここ数年で増えたことは否定のしようがないが、「文學界」という文芸誌で短歌特集が組まれたことが象徴するように、ここ数年で増えたのは「文芸」としての「短歌」を好む人間の数なのだと思う。あなたは文芸が好きだろうか? 文芸とは、「言語によって表現される芸術の総称。詩歌・小説・戯曲などの作品。文学。」(goo辞書)のことである。あなたは「言語によって表現される芸術」としての「文学」である「短歌」が好きですね?

現在の短歌シーンにおける雑な二項対立構造として「言葉派」VS「人生派」(藪内売輔)「夢」VS「生活」(青松輝)のふたつが名高いが、わたしはここに瀬戸夏子のふたつの発言「「文学」であってもいい」短歌」 VS「「文学」である必要はとくにない」短歌」、「大森静佳」(スクール)VS「永井祐」(スクール)(第八回現代短歌社賞選考座談会 「現代短歌」2022年1月号)も加えたい。

ところで、この議論で現状得をするのは「言葉派」「夢」側の短歌実作者である、とわたしは考えるが、これらの二項対立が、短歌の歴史上、圧倒的マジョリティだった「人生派」とその延長線上にある「生活」「体感リアリズム」(特集「Anthropology of 60 Tanka Poets born after 1990」対談 大森静佳×藪内亮輔「現代短歌」2021年9月号。なお、対談内において、藪内は「体感リアリズム」の裏表になる概念として「祈り」「ヒロイズム」という言葉を使用している)が先行した上での言説であることには注意する必要があるし、冒頭で〈文学〉に批判的だとは述べたが、なにもわたしは〈文学〉との二項対立上で議論をしたいわけではない。わたしがしたいのは短歌一首上での議論である。

「認識をことばに移し替えるとき、なにを認識したかだけでなく、どのように認識したのかもおのずと表現される。先に引用した歌(水沼注:のつちえこ、池田輔、水沼朔太郎の三首)は、それぞれに題材も詠まれ方も異なるけれど、認識の仕方、過程を表現している点で、指向が似ている。

歌を読み解くことで、世界がどのように認識されているのかが明らかになっていく。それは、歌を読むという行為の刺激的な部分のひとつであり、他者の存在と世界の豊かさを濃密に感じる体験でもある。筆者はそんな体験をさせてくれる歌が好きだ。」山川築「認識の歌」「未来」2022年9月号

短歌は一首が読まれる際に「既存の社会的・文化的通念」が前提とされ、往々にして「マジョリティの了解の範疇へと回収され」てしまうことは既に小原奈実が指摘している(「沈黙と権力と」「短歌」2019年10月号)が、小原の文章で引用されているのが〈ゆふぐれに櫛をひろへりゆふぐれの櫛はわたしにひろはれしのみ/永井陽子〉であるように(と、書いてしまうのはあまりに意地悪だろうか)小原の議論もわたしには〈文学〉である「短歌」の話であるように思える(念の為、付け加えると、そのことの価値を否定するつもりは毛頭ない)。それに対して、上記の山川の文章は〈永井祐の模写をしている〉わたしのような実作者にも勇気を与えてくれたし、わたしが口にする「永井祐」とはつねにこのレベルでの話だ。

モデルケースに「永井祐」を立てることで生まれる問題点については、瀬戸夏子が批判的に指摘し(「死ね、オフィーリア、死ね(中)」「短歌」2017年4月号)、平岡直子がユーモアとして表現している(「パーソナルスペース」「歌壇」2022年1月号)。また、実作面においては、仲田有里『マヨネーズ』との読み比べや、永井祐だけでなく斉藤斎藤的袋小路のアップデートとして、乾遥香の歌群を読むことが有効だろう。補足として。今回は、個人的な優先順位が低かったので言及しなかったが、「短歌ブーム」的な文脈では、宇都宮敦『ピクニック』が重要な一冊だと考える。