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はだしの時空間ーー第二回ぺんぎんぱんつ賞受賞作を読む 2015年12月25日 23:41
皆さんは何回目に読む連作が一番好きですか?
第二回ぺんぎんぱんつ賞が発表された。正確にいうと、ぺんぎんぱんつ賞一名(はだし)、ぺんぎん賞四名(白水麻衣、えんどうけいこ、迂回、ナタカ)、ぱんつ賞四名(荻森美帆、伊豆みつ、姉野もね、加賀田優子)が発表された。そのなかから、ぺんぎんぱんつ賞に選ばれたはだしの連作「東京ひとり暮らし」を読んでみたい。
連作空間に入って三つ目、つまり三首目に〈馬を見失ってしまう時代だ〉という短歌が配置されている。とてもとても短い歌だけど、始点は他の九首と統一されている。本当です。ただ、わたしはいまTumblrという媒体を用いて横書きでこの文章を書いているし、短歌を山括弧で括って提示しているのでこれはもう皆さんに信じてもらうしかありません。
(ちょっとだけ余談をすると、【瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.(仮)』抄出三十首】フリーペーパーは、抄出された三十首が横書き中央揃えで提示されていて、内容面はいうまでもなく形式面でも抜群に面白いし、瀬戸夏子までもが中央揃えにされている。)
〈つい、買ってきたお菓子のほうを座椅子に座らせてしまうな〉ーーこれが二首目でこの短歌も字足らずになっている。けれども、字足らず感はあまりせず、むしろ逆に間延びしているような印象を与える。事実、わたしは初読時、二首目を〈つい、買ってきたお菓子のほうを座椅子に座らせてしまうな 馬を見失ってしまう時代だ〉と読んだ。
〈座らせてしまうな〉と〈馬を〉の間にスペースが三つ空いているのは、いまわたしが手元で見ている紙面上に三字分のスペースがあるからで、これは、一首目の同じ箇所に〈られる〉とあることを根拠にしているが、逆にいえば、それしか根拠はない。
第二回ぺんぎんぱんつ賞は「短歌連作十首」での応募だった。そのことははだしの連作の右側に書かれている。そのため、健全な読者ははだしの連作を読む前にその事実を了解している。わたしも了解している。なので、〈つい、買ってきたお菓子のほうを座椅子に座らせてしまうな 馬を見失ってしまう時代だ〉まで読んだあと、ん、と思い視線を上げ、右から、一、二、三、……と数えていき、〈歩いてたら前ゆく人がスカウトをされてわたしに道がひらける〉を十、と数えたところで、〈馬を見失ってしまう時代だ〉が三首目であることを確定事項とした。
そう遠くはない未来、デジタルで読む連作はフラッシュ暗算みたくなるのだろうか。一首目から順に等間隔で連作がパッ、パッ、パッ、…と表示されてゆく。そうしたら、誰もが〈馬を見失ってしまう時代だ〉を三首目として認識できるだろうし、誤って(間違ってはいない)、六首目から目に入れてしまうこともない。そのうち、一首あたりの表示時間にズレを導入したり、逆再生やシャッフル機能を駆使するような猛者も出てくるに違いない。フラッシュ連作の時代の到来である。しかし、まだ、というか、少なくとも、いまわたしが読んでいるはだしの連作は紙上にある。
さて、はだしの連作は「思い出す」ということがテーマのひとつになっている。一首目からして〈「寮母に嫌われる」よりは、と思えば大抵のことは乗り越えられる〉だし、五首目は〈生活がいちばん好きだったな、なかでもダースベイダーのやつ なんだっけ?〉で、七首目が〈おとなの亀がひっくり返ってると泣けるし、思い出す〉ときて、八首目に〈うつくしい夕焼けをみてセックスになりそう頭のなかの教室〉となるので、一瞬【完全記憶】!という言葉が頭にフラッシュするのだけど、〈なりそう〉という言葉がすぐに甦ってもくるし、紙面を見れば書いてあるしで、ちっとも完全記憶ではなかったことをわたしは認識する。けれど、そのあと、今度は四つのスペースを挟んで〈手首の内側に恐竜のスタンプ押して誰にもバレないよう過ごせた日のやや早歩きな下校とかを〉という文字列がレイアウトによる〈日/の〉という分断を挟んでやってきてくれて、ああ、はだしの連作を読んで良かった、となったのであります。
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「それをいうならブニュエルでしょ」瀬戸 夏子 2015年12月28日 15:20
わたしの〈瀬戸 夏子〉原体験は【「それをいうならブニュエルでしょ」】でこれは『率Free Paper COLLECTION 2012ー2014』「2」の〈音立てて銀貨こぼるるごとく見ゆつぎつぎ水からあがる人たち/小島なお〉に対する一首評という体裁の下で書かれた言葉だ。
最初の一行が【 「それをいうならブニュエルでしょ」という言葉が耳に残って離れない。】で最後の一行が【 長い間、「それをいうならブニュエルでしょ」という言葉が耳に残って離れない。】だ。
ひとつきほどまえに葉ね文庫で【瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.( 仮)抄出三十首』】フリーペーパーを手に入れて以来わたしはむさぼるように瀬戸 夏子を読んでいる。しかし『そのなかに心臓をつくって住みなさい』を買い求めることはなかった。その理由は自分でもまったくわからなかったのだけど間違いなく【「それをいうならブニュエルでしょ」という言葉が耳に残って離れない。】からだ。
強盗と消防士がかなしく分かつポカリスエットに頬を打たれた
わたしを信じていて ゆめをみて 絶望を斡旋するのがわたしのよろこび
それはそれはチューリップの輪姦でした
恋よりももっと次第に飢えていくきみはどんな遺書より素敵だ
瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.(仮)』抄出三十首
横書き中央揃え
泉から抜けてった水 極太のサインペンとビニール袋な
こすられた仏蘭西語から間の抜けた僕が出るまでたいがいにしな
瀬戸 夏子「おまえは」『率三号』
手入れとはつかれて異なる羞しさのホテルで借りた重すぎる傘
ひとり去りまたひとり来てエッセンス淡く泡立ち坂昇りつめ
代名詞しかないままにあるがまま倒錯が行き来しているふたつの朝を
瀬戸 夏子「メイキング」『率6号』
スプーンのかがやきそれにしたって裸であったことなどあったか君や僕に
いいきかせて天国のほうへ不要なんだ君や僕の愛と憎しみなんか
瀬戸夏子「イヴ」
横書き中央揃え
長い間、「それをいうならブニュエルでしょ」という言葉が耳に残って離れない。
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瀬戸夏子に手前は存在しないーー石井僚一「ラヴレターは瀬戸夏子の彼方に」を読む 2016年1月2日 18:10
周知のようにわたしは「それをいうならブニュエルでしょ」という言葉が耳に残って離れない。石井僚一「ラヴレターは瀬戸夏子の彼方に」はそんな状況下で読まれることになる。
「ラヴレターは瀬戸夏子の彼方に」は横書き中央揃えというわたしにはもはやお馴染みの瀬戸夏子の形式をすっかりそのまま反復している。が、その一方で、短歌と背景の白黒が反転している。
骨に骨 引き寄せるとき身を捩るあなたはあなたの抒情の墓石
不在の、あなたの森の、その日々の、鳥の籠には紫陽花の咲いて弾ける
須くシモーヌ・ヴェイユ、檻の降る丘で脚本通りに君を
性格は夜 特技は無 紙とペンが時間の類語であればこそ霊魂は不滅
すこし瀬戸すこし夏子のラヴを差し引いても接吻は遺書であること
連作において「瀬戸夏子」という空間は「抒情の墓石」「鳥の籠」「檻の降る丘」「遺書」「紙とペン」などとして提示されているが、石井僚一がラヴレターを贈るのはここにではない。ラヴレターの宛先は「瀬戸夏子の彼方に」である。「彼方」とは石井僚一から見れば「あなたの抒情」「不在の、あなたの森の、その日々の、」「霊魂」「ラヴ」である。
さて、瀬戸夏子に限らず目の前にある短歌がただ単に目の前にあるとき、それはただ単に目の前に居合わせている者にとっては死んでいるも同然であるとただ単に目の前に居合わせていることができない者がただ単に目の前に居合わせている者に対して感じてしまうことがあることをわたしは完全に否定はしない。
死=ただ単に存在していること、とするならば、それは確かにただ単にそこに存在している=死んでいるけれども、死=生成していないこと、とするならば、それは確かに生成していない=死んでいるからだ。そして、死んでいるも同然のそれをわたしが手前=(?)上=(?)左から読むとき、わたしはそれがそこに生成している時間を辿り直している、と言うこともできるだろう。
しかしながら、単にわたしが手前からそれを辿り直すだけではそれを彼方に贈ることはできない。それを彼方に贈るためには辿り直したわたし自身も死ななければならない。そのとき、わたしは短歌=「ラヴレター」になるほかないのだ。
「瀬戸夏子」となった時には死んでしまっている瀬戸夏子の手前を「瀬戸夏子の彼方」と名指すことによってこちら側から辿り直し、その辿り直しそれ自体を短歌=「ラヴレター」として提示する。「ラヴレターは瀬戸夏子の彼方に」は(その試みが成功しているかどうかはともかく)そんな一連だ。
……みたいな展開だとまだすっきりするのかもしれないが、話をさらにややこしく、いや、すっきりさせると、わたしは「瀬戸夏子」に手前は存在しないと思う。もう少し正確にいえばわたしの好きな「瀬戸夏子」とは(もし仮に瀬戸夏子の手前があるのだとすれば)手前がそのまま短歌という空間に表出しているというか、手前や彼方のような時間性を一切遮断しているというか、そういった生成の時間がまったくなく、つまり、膨大な時間の蓄積を濃縮したのではなく、はじめから存在し、そして、これからも存在する空間であり、それを時間という観点から表現するならば【「それをいうならブニュエルでしょ」という言葉が耳に残って離れない。】という瀬戸夏子の言葉とまったく同じ意味合いで瀬戸夏子の耳に残って離れない時間。それこそがわたしの好きな「瀬戸夏子」であり、そこには手前も彼方も存在していない。