2025年1月24日金曜日

9年前の年末年始に書いた歌評×3(noteで書いた記事の復刻)

はだしの時空間ーー第二回ぺんぎんぱんつ賞受賞作を読む   2015年12月25日 23:41

 皆さんは何回目に読む連作が一番好きですか?

 第二回ぺんぎんぱんつ賞が発表された。正確にいうと、ぺんぎんぱんつ賞一名(はだし)、ぺんぎん賞四名(白水麻衣、えんどうけいこ、迂回、ナタカ)、ぱんつ賞四名(荻森美帆、伊豆みつ、姉野もね、加賀田優子)が発表された。そのなかから、ぺんぎんぱんつ賞に選ばれたはだしの連作「東京ひとり暮らし」を読んでみたい。

 連作空間に入って三つ目、つまり三首目に〈馬を見失ってしまう時代だ〉という短歌が配置されている。とてもとても短い歌だけど、始点は他の九首と統一されている。本当です。ただ、わたしはいまTumblrという媒体を用いて横書きでこの文章を書いているし、短歌を山括弧で括って提示しているのでこれはもう皆さんに信じてもらうしかありません。

(ちょっとだけ余談をすると、【瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.(仮)』抄出三十首】フリーペーパーは、抄出された三十首が横書き中央揃えで提示されていて、内容面はいうまでもなく形式面でも抜群に面白いし、瀬戸夏子までもが中央揃えにされている。)

 〈つい、買ってきたお菓子のほうを座椅子に座らせてしまうな〉ーーこれが二首目でこの短歌も字足らずになっている。けれども、字足らず感はあまりせず、むしろ逆に間延びしているような印象を与える。事実、わたしは初読時、二首目を〈つい、買ってきたお菓子のほうを座椅子に座らせてしまうな   馬を見失ってしまう時代だ〉と読んだ。

 〈座らせてしまうな〉と〈馬を〉の間にスペースが三つ空いているのは、いまわたしが手元で見ている紙面上に三字分のスペースがあるからで、これは、一首目の同じ箇所に〈られる〉とあることを根拠にしているが、逆にいえば、それしか根拠はない。

 第二回ぺんぎんぱんつ賞は「短歌連作十首」での応募だった。そのことははだしの連作の右側に書かれている。そのため、健全な読者ははだしの連作を読む前にその事実を了解している。わたしも了解している。なので、〈つい、買ってきたお菓子のほうを座椅子に座らせてしまうな   馬を見失ってしまう時代だ〉まで読んだあと、ん、と思い視線を上げ、右から、一、二、三、……と数えていき、〈歩いてたら前ゆく人がスカウトをされてわたしに道がひらける〉を十、と数えたところで、〈馬を見失ってしまう時代だ〉が三首目であることを確定事項とした。

 そう遠くはない未来、デジタルで読む連作はフラッシュ暗算みたくなるのだろうか。一首目から順に等間隔で連作がパッ、パッ、パッ、…と表示されてゆく。そうしたら、誰もが〈馬を見失ってしまう時代だ〉を三首目として認識できるだろうし、誤って(間違ってはいない)、六首目から目に入れてしまうこともない。そのうち、一首あたりの表示時間にズレを導入したり、逆再生やシャッフル機能を駆使するような猛者も出てくるに違いない。フラッシュ連作の時代の到来である。しかし、まだ、というか、少なくとも、いまわたしが読んでいるはだしの連作は紙上にある。

 さて、はだしの連作は「思い出す」ということがテーマのひとつになっている。一首目からして〈「寮母に嫌われる」よりは、と思えば大抵のことは乗り越えられる〉だし、五首目は〈生活がいちばん好きだったな、なかでもダースベイダーのやつ なんだっけ?〉で、七首目が〈おとなの亀がひっくり返ってると泣けるし、思い出す〉ときて、八首目に〈うつくしい夕焼けをみてセックスになりそう頭のなかの教室〉となるので、一瞬【完全記憶】!という言葉が頭にフラッシュするのだけど、〈なりそう〉という言葉がすぐに甦ってもくるし、紙面を見れば書いてあるしで、ちっとも完全記憶ではなかったことをわたしは認識する。けれど、そのあと、今度は四つのスペースを挟んで〈手首の内側に恐竜のスタンプ押して誰にもバレないよう過ごせた日のやや早歩きな下校とかを〉という文字列がレイアウトによる〈日/の〉という分断を挟んでやってきてくれて、ああ、はだしの連作を読んで良かった、となったのであります。

「それをいうならブニュエルでしょ」瀬戸 夏子   2015年12月28日 15:20

 わたしの〈瀬戸 夏子〉原体験は【「それをいうならブニュエルでしょ」】でこれは『率Free Paper COLLECTION 2012ー2014』「2」の〈音立てて銀貨こぼるるごとく見ゆつぎつぎ水からあがる人たち/小島なお〉に対する一首評という体裁の下で書かれた言葉だ。

 最初の一行が【 「それをいうならブニュエルでしょ」という言葉が耳に残って離れない。】で最後の一行が【 長い間、「それをいうならブニュエルでしょ」という言葉が耳に残って離れない。】だ。

 ひとつきほどまえに葉ね文庫で【瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.( 仮)抄出三十首』】フリーペーパーを手に入れて以来わたしはむさぼるように瀬戸 夏子を読んでいる。しかし『そのなかに心臓をつくって住みなさい』を買い求めることはなかった。その理由は自分でもまったくわからなかったのだけど間違いなく【「それをいうならブニュエルでしょ」という言葉が耳に残って離れない。】からだ。

強盗と消防士がかなしく分かつポカリスエットに頬を打たれた

わたしを信じていて ゆめをみて 絶望を斡旋するのがわたしのよろこび

それはそれはチューリップの輪姦でした

恋よりももっと次第に飢えていくきみはどんな遺書より素敵だ

瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.(仮)』抄出三十首

横書き中央揃え

泉から抜けてった水 極太のサインペンとビニール袋な

こすられた仏蘭西語から間の抜けた僕が出るまでたいがいにしな


瀬戸 夏子「おまえは」『率三号』

手入れとはつかれて異なる羞しさのホテルで借りた重すぎる傘

ひとり去りまたひとり来てエッセンス淡く泡立ち坂昇りつめ

代名詞しかないままにあるがまま倒錯が行き来しているふたつの朝を

瀬戸 夏子「メイキング」『率6号』

スプーンのかがやきそれにしたって裸であったことなどあったか君や僕に

いいきかせて天国のほうへ不要なんだ君や僕の愛と憎しみなんか

瀬戸夏子「イヴ」

横書き中央揃え

 長い間、「それをいうならブニュエルでしょ」という言葉が耳に残って離れない。

瀬戸夏子に手前は存在しないーー石井僚一「ラヴレターは瀬戸夏子の彼方に」を読む   2016年1月2日 18:10

 周知のようにわたしは「それをいうならブニュエルでしょ」という言葉が耳に残って離れない。石井僚一「ラヴレターは瀬戸夏子の彼方に」はそんな状況下で読まれることになる。

 「ラヴレターは瀬戸夏子の彼方に」は横書き中央揃えというわたしにはもはやお馴染みの瀬戸夏子の形式をすっかりそのまま反復している。が、その一方で、短歌と背景の白黒が反転している。

骨に骨 引き寄せるとき身を捩るあなたはあなたの抒情の墓石

不在の、あなたの森の、その日々の、鳥の籠には紫陽花の咲いて弾ける

須くシモーヌ・ヴェイユ、檻の降る丘で脚本通りに君を

性格は夜 特技は無 紙とペンが時間の類語であればこそ霊魂は不滅

すこし瀬戸すこし夏子のラヴを差し引いても接吻は遺書であること

 連作において「瀬戸夏子」という空間は「抒情の墓石」「鳥の籠」「檻の降る丘」「遺書」「紙とペン」などとして提示されているが、石井僚一がラヴレターを贈るのはここにではない。ラヴレターの宛先は「瀬戸夏子の彼方に」である。「彼方」とは石井僚一から見れば「あなたの抒情」「不在の、あなたの森の、その日々の、」「霊魂」「ラヴ」である。

 さて、瀬戸夏子に限らず目の前にある短歌がただ単に目の前にあるとき、それはただ単に目の前に居合わせている者にとっては死んでいるも同然であるとただ単に目の前に居合わせていることができない者がただ単に目の前に居合わせている者に対して感じてしまうことがあることをわたしは完全に否定はしない。

 死=ただ単に存在していること、とするならば、それは確かにただ単にそこに存在している=死んでいるけれども、死=生成していないこと、とするならば、それは確かに生成していない=死んでいるからだ。そして、死んでいるも同然のそれをわたしが手前=(?)上=(?)左から読むとき、わたしはそれがそこに生成している時間を辿り直している、と言うこともできるだろう。

 しかしながら、単にわたしが手前からそれを辿り直すだけではそれを彼方に贈ることはできない。それを彼方に贈るためには辿り直したわたし自身も死ななければならない。そのとき、わたしは短歌=「ラヴレター」になるほかないのだ。

 「瀬戸夏子」となった時には死んでしまっている瀬戸夏子の手前を「瀬戸夏子の彼方」と名指すことによってこちら側から辿り直し、その辿り直しそれ自体を短歌=「ラヴレター」として提示する。「ラヴレターは瀬戸夏子の彼方に」は(その試みが成功しているかどうかはともかく)そんな一連だ。

 ……みたいな展開だとまだすっきりするのかもしれないが、話をさらにややこしく、いや、すっきりさせると、わたしは「瀬戸夏子」に手前は存在しないと思う。もう少し正確にいえばわたしの好きな「瀬戸夏子」とは(もし仮に瀬戸夏子の手前があるのだとすれば)手前がそのまま短歌という空間に表出しているというか、手前や彼方のような時間性を一切遮断しているというか、そういった生成の時間がまったくなく、つまり、膨大な時間の蓄積を濃縮したのではなく、はじめから存在し、そして、これからも存在する空間であり、それを時間という観点から表現するならば【「それをいうならブニュエルでしょ」という言葉が耳に残って離れない。】という瀬戸夏子の言葉とまったく同じ意味合いで瀬戸夏子の耳に残って離れない時間。それこそがわたしの好きな「瀬戸夏子」であり、そこには手前も彼方も存在していない。

2024年10月28日月曜日

歌評と10首選

 今月はめっきり短歌へのモチベーションが下がってしまった。自作を作るモチベーションはあるのだけど、他作を読むモチベーションがなかなか上がらない。理由はあるのだけど、あんまりはっきりとは言語化していない。かんたんに言えば自分が思う短歌の韻律なり質量なりに到達していないような歌が散見されることが短歌へのモチベーションを下げている。まあでもそんなことばかり言ってられないので今年Twitterで引用した歌を振り返ってみたい。

幾度も折り直されたあとのある鶴が休んでいる保育園/佐佐木定綱(「短歌」2024.10)

扇風機動かなくなるひと夏を牛肉のようにそばにいてほしい/竹中優子(「短歌」2024.10)

先月号の「短歌」の角川短歌受賞者競詠企画から。佐佐木の一首は、折り鶴を〈幾度も折り直されたあと〉と描写することで折り鶴に動きが生まれているのが面白い。保育園だからその跡が雑なことまで連想させるのも良い。竹中の一首は、扇風機が故障し、節約で冷房も入っていないだろう自室の空気と〈牛肉〉の鶏肉や豚肉と比した上でのレトロ感とが奇妙にマッチしているように感じた。どちらもぴったりの比喩かはわからないが、比喩なんて別にぴったりでなくても良いんです。

頭のなかで向かいの人の髪を切るそのほうが似合うと思うから/平岡直子(「現代短歌」2024.11)

「現代短歌」の作品連載から。歌の仕組みがわかるので素直に驚くことはないけれど、まあ及第点かな、と思うような一首。みたいな言い方はちょっと辛いですか。ただ、向かいの人の実際の髪型に対してもそこまで悪意はないというか、〈そのほうが似合うと思うから〉とは言ってるものの、「似合ってない」とまでは思ってないと思う。それぐらいの距離感から「頭のなかで向かいの人の髪を切る」絵を読者に想像させる、その距離感に平岡さんを感じる一首。

非常時のそういう救急搬送のようにつぎつぎオムライス来る/平岡直子(「歌壇」2024.10)

こっちは「歌壇」の巻頭作品。同じ巻頭作品に俵万智が寄稿していたこともあり、平岡さんの歌の中にある俵万智性=〈ようにつぎつぎオムライス来る〉に注目した。歌としてはこちらも仕組みがわかりやすい一首なんだけど、オムライスが〈つぎつぎ〉来るの〈つぎつぎ〉が作者の個性なのかな。オムライスがひとつだとあまりに象徴性が強すぎるけど、複数になることでその非常時性が緩和される感じとそのグロテスクさ(一人撃たれるのと複数人がつぎつぎ撃たれるのとでは喚起されるイメージが変わる)。

太陽のずっと下には信号と横断歩道の関係がある/永井祐(「歌壇」2024.10)

仕事が終わって僕はガーナを食べていて静岡県の「静」という字

連作で並んである二首で、二首目だけ見ると一見意味不明なんだけど、一首目の「信号」と「横断歩道」のお陰で「静」(しずか、と読んだ)の中の「青」「争」に気がついた。青と赤とが争うのが信号であり、その二字が入った「静」という字に注意が向かった歌が同じ連作にある。時期的に笹井賞の選考委員・大森静佳が関係しているのかとか思ったりした。引用歌を見る限り「ガーネット」がかなり良さげなので早く今月の短歌研究を手に入れて読みたい。

と、書いてきたのだけど、フィードがここまでしか出来なかったので、総合誌名(「現代短歌」「短歌研究」「歌壇」「短歌」)で検索して出てきた歌+「アンソロジスト」vol.4と椛沢さんの歌集から10首厳選してみた。良かったらあなたの最近のベストな10首も教えてください。

①迷惑系歌人となって【歌会に相田みつをの詩を出してみた】/三田三郎(『現代短歌』2024年9月号)

②あたらしい球技がしたい 二〇二八年までの代表入りを目指して/吉田恭大(『現代短歌』2023.11)

③夜の領土を逃れゆくときひまわりを暗渠へ捨てるなら頭から/服部真里子(『短歌研究』2024.7)

④姉として見ておりとおい石段の隅にちぎれた尾の痙攣を/大森静佳(『短歌研究』2023.1)

⑤腰を下ろして中身を出してなんだっけ、ああそうだ、流すんだ全てを/pha(『短歌研究』2024.5+6)

⑥伸びる過去と積もる過去とがあるでしょういずれも魔法ではないでしょう/佐伯紺(『短歌研究』2024.1)

⑦雪がみぞれにみぞれが光に変わってく 愛が 愛が 愛がうるさいよ/初谷むい「アンソロジスト vol.4」

⑧手芸店に紫の石を持ったまま見えなくなっていたの夕暮れ/山崎聡子「アンソロジスト vol.4」

⑨シャワーを浴びるときの角度のままずっと過ごす秋には掃除をしない/平岡直子(『短歌研究』2023.1)

⑩汗を引きずる声を引きずる むしめがね あればと百均で買っていた/椛沢知世『あおむけの踊り場であおむけ』

2024年10月23日水曜日

村上航作品評「岡山のベニイロフラミンゴ」

以下の文章は今年5月の東京文フリで初売りされた「super Gyakubaraaa‘s」に寄稿したGyakubaraaa‘sの同人である村上航くんの作品評であり歌人評です。冊子は通販で購入することが出来ますので、ぜひとも!

https://watarudeer.booth.pm/items/5711852


人間にできないことはないんだとみかん畑に大の字で寝る/村上航

村上くんから「歌会でご一緒させていただいたときに、いつもキレキレの評をされている」という言葉を頂いて、今回わたしは連作評の依頼を受けたのだけれど、正直に話すと、わたしは連作評や歌集評の類いが得意ではない。依頼の言葉にすでに答えが出ているように、わたしが「キレキレ」なのは、無記名互選歌会での歌評と選である。

わたしは普段、他人の連作や歌集を、一首一首、この歌は選に値するかどうか、という観点で読んでいる。いや、読んでしまっている。それは、良い歌とは何かを学んだのが、瀬戸夏子によって一時期ツイッターで運営されていた「短歌bot」であったことが大きい。そして、そうして選んだいくつかの歌になんらかの構造が見出だされる場合は、それを連作評や歌集評のような体裁でツイートする。なんらかの構造はある場合もあればない場合もある。構造はあれば必ず良いということでもない。そして、これが一番大切なことだが、連作評や歌集評を書くために選をすることはない。すべては選に値する歌があってからの話だ。

そうした観点から、送ってもらった村上くんの四つの連作を読んでみて、選に値すると判断した歌は一首だった。一首だったのだが、どうか落ち込まないでほしい。以前、ある歌人と、別のある歌人の新作三十首の話題になったさい、自分の感想として、選に値すると判断した歌は三首だった、と話したら「(三十首で)三首あったら充分(良い連作)だよね」という返事があった。これにわたしも同意する。百首連作を読んで、まるまる一冊歌集を読んで、選に値すると判断する歌が一首もないと思うことは決して珍しいことではない。

村上くんは岡山に住んでいて、わたしは大阪に住んでいる。岡山と大阪は、大阪と東京よりはるかに行き来しやすいが、わたしは岡山に行ったことがない。けれども、岡山に住んでいる歌人とは、大阪や京都なんかで会う機会というのが案外とあって(向こうが来てくれてるだけなんだけど)村上くんと同じ岡山大学短歌会出身のOP(「京大短歌」29号目次参照)だけでもKさんやMさんやNさん、最近だとIくんとも顔を合わせたことがある。

岡山といえば「みかん畑」の「オレンジ」のイメージがあるのだが、なぜだろう。マスカットは黄緑、ピオーネは紫なのに。村上くんは漫画「ヒカルの碁」に出てくるくせ者キャラ・越智康介に似た髪色をかつてしていたが、その越智くんの髪色もオレンジだった。村上くんと数年前の冬に行った天王寺動物園のベニイロフラミンゴの発色も広く括れば同系統で、そうしたものの影響もあるだろうか。いずれにせよ村上くんの歌のイメージはオレンジ寄りの赤系統の陽だ。

「みかん畑」の歌ともう一首、選ぼうか迷った歌に〈ことごとくホットドッグの仕組みって簡単すぎる 朝方のひとり〉という歌がある。一首のニュアンス的に初句で言いたかったことは「つくづくと」なのではないか、という歌会的発想が出てきてしまったため、選からは漏れたのだけど、〈ホットドッグの仕組みって簡単〉と書ける度量は買いたい。

村上くんのセンスは案外と掴み所が難しい。言葉を選ばずにいえばダサいと感じることも多々ある。にもかかわらず、次の瞬間には平気でオシャレだったりする。往々にしてひとりの人間というのは、一貫してダサかったり一貫してオシャレだったりするものなのに。

一貫してオシャレであることがダサいとされることもあるし、そもそもダサいという価値判断自体が一定の尺度からのオシャレではない、という判断であることもあるため、ダサいとオシャレとは表裏一体の関係にある。村上くんのおもしろさはそうした感性の一貫性自体に揺らぎがあることだ。

数年前、わたしは「指サック太郎」という動画をYouTubeにアップした。羊文学「あたらしいわたし」を鼻歌でBGMとして歌いながら指サックを使った人形劇を繰り広げる怪動画だったのだが、その動画に唯一反応してくれたのが村上くんだった。自分自身(男)の自室での自撮りや、ハマっている異性アイドルの写真投稿といったややもするとダサいと判断されるツイッター上での挙動にいち早く肯定的な反応を示してくれたのも村上くんだった。

「みかん畑」の一首には「人間にできないことはない」「畑に大の字で寝る」など一般的な社会ルールからの逸脱、という文脈があり、そこに「逆張り」を見出だすこともできるだろう。ただ、それでは片手落ちのような気がする。「畑に大の字で寝る」ことも防犯カメラからのアングルで見ればちっぽけなものだ。そこで、大の字で寝ている人間の目を借りてみる。すると、どうだろう。世界のスケールが一転する。その一転する感触こそが「人間にできないことはない」という放言の強度であり、村上くんという歌人の陽性の一端なのだと思う。

2024年4月25日木曜日

ポストニューウェーブと瀬戸夏子、瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.』歌集評

2023年8月執筆

a ポストニューウェーブと瀬戸夏子

瀬戸夏子がポストニューウェーブの話をしている最初期の記憶は、わせたんでのロングインタビュー(『早稲田短歌』45号)で、永井、斉藤、宇都宮という語呂の良さが妙に記憶に残っている。永井、斉藤、宇都宮とは言うまでもなく永井祐、斉藤斎藤、宇都宮敦のことだ。最近出た長谷川麟『延長戦』の栞文で瀬戸が「ポストニューウェーブの課題のひとつ(最後のプログラム)に歌集があった」というようなことを書いていて、初読ではあまりピンとこなかったのだが、『日本の中でたのしく暮らす』(永井祐)と『ピクニック』(宇都宮敦)は歌集刊行のタイミングが遅く、反対に『渡辺のわたし』(斉藤斎藤)はタイミングが早く、というニュアンスではないか、と推測する。

歌集『渡辺のわたし』については、瀬戸が『はつなつみずうみ分光器』で、第二歌集『人の道、死ぬと町』をポストニューウェーブのひとつの到達点(「ポストニューウェーブ短歌折り返しのリミット」)として挙げていることと、永井祐が「現代短歌」の平成の歌集特集(2019年6月号)で書いていた「斉藤斎藤ははじめの歌集を出すのがかなり早かった人だと思う」という記述が参考になる。同じ文章で永井が『人の道、死ぬと町』の前半におさめられた歌群を評価しているのも大変興味深い。

(『延長戦』の栞文を読み返していたのだが、瀬戸さんの文章を読み違えていたようだ。「ポストニューウェーブ影響下の歌人たちには本当は「歌集」という課題があったとわたしには思えた。」と書いてあるのに「ポストニューウェーブの歌人たち」の「歌集」の話をしてしまっていた。2024年5月16日追記)

『はつなつみずうみ分光器』で、瀬戸が設定したもうひとつの到達点が大森静佳の『カミーユ』(「二〇一〇年代の短歌における達成の極のひとつを斉藤斎藤『人の道、死ぬと町』に見るならば、もうひとつの極は間違いなく大森静佳の『カミーユ』である。」)なのだが、同じく瀬戸がポストニューウェーブについて字数を重ねた「ねむらない樹」最新号(vol.10)の笹井宏之論で、笹井宏之のわたしとあなたの純度を磨きあげていく作風の先端に大森静佳の名を挙げているのは個人的にはやや意外な感があった。が、我妻俊樹『カメラは光ることをやめて触った』栞文でのポストニューウェーブのポエジー派、雪舟えま、笹井宏之、我妻俊樹の三幅対を補助線にすれば見通しがすっきりする。

いわゆるポストニューウェーブの三人、永井、斉藤、宇都宮はいわゆる口語短歌においてそれぞれの方法で純化を達成したと言えるが、『はつなつみずうみ分光器』において、このラインの延長線は引かれていない。瀬戸がこのラインの延長線を意図的に引いていないのは、瀬戸の選歌眼や選歌集を見れば明らかだが、ここでわたしなりに延長線を引いて見るなら、『予言』、『光と私語』、『ビギナーズラック』となるだろう(そこからさらに『了解』や『感電しかけた話』にまで話を広げるのは、山田航の仕事だ)。

ここまでの流れから、瀬戸はポストニューウェーブのさらにポエジー派、具体的には、雪舟えま、笹井宏之、我妻俊樹の系譜に連なる意志があることが見て取れるが、こうした視点に瀬戸夏子を含めた文章が既にあって、「ねむらない樹」vol.9 特集「詩歌のモダニズム」上の佐藤弓生の文章がそれにあたる。佐藤は現代のモダニズムの系譜として、井上法子、望月裕二郎、平岡直子の歌とともに瀬戸夏子の歌を引用している。引用歌集はそれぞれ『永遠でないほうの火』『あそこ』『みじかい髪も長い髪も炎』『そのなかに心臓をつくって住みなさい』。

b 瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.』歌集評

わたしを信じていて ゆめをみて 絶望を斡旋するのがわたしのよろこび

暗唱できるようになった短歌一首が歌集という一冊の物質上で改変されてしまっていたときの衝撃がいまも残っている。いまにして思えばそれは推敲でしかなかったのだが、当時のわたしはそれを推敲と受け取ることができず(暴力だと思った)あれだけ楽しみにしていた歌集の購入を一旦保留にした。

泉から抜けていく水……極太のサインペンとビニール袋なら(『かわいい海とかわいくない海 end.』)

泉から抜けてった水 極太のサインペンとビニール袋な(短歌同人誌「率」三号)

第二歌集以降、瀬戸の歌にあった暴力性は影を潜め、瀬戸の歌は軽くなり、柔らかくなった。〈ひとさしゆびはひとをさしてた零度のような玩具もあるし〉〈おりがみのあしのときめき不意に主役は刺されるものさ〉(「20170507」『現実のクリストファー・ロビン』)。スポーツにしてもそうだが、柔らかくなるとは、習熟するということと同義だ。この習熟曲線はなにも瀬戸に限った話ではない。永井祐や山下翔の第一歌集から第二歌集への推移についても同様である(句跨りからなめらかな句の接続へ)。

「選」(暴力)と「読み」(習熟)というふたつの歌に対する態度があるが、これらは似て非なるものだ。いま同世代の短歌の世界は完全に「読み」が優位になっている。短歌同人誌「波長」二号に掲載された鈴木ちはねの前号評「読むことと詠むことの合わせ鏡について」を読んでわたしは深く感動するとともに同じくらいの危機感を抱いた。

わたしに歌会(習熟)の読みの面白さを教えてくれたのは阿波野巧也だったが、選(暴力)の凄さを教えてくれたのは瀬戸夏子だ。Twitterに一時期存在した短歌bot、とりわけピンクベースのアイコンの短歌botはいまもわたしが歌を選ぶ際の最終的な拠り所になっている。短歌botから具体的に印象に残っている歌人名を挙げるなら、渡辺松男、大橋弘、望月裕二郎、おさやことり……〈遮断機があがりきるまで動かないぼくは断然菜の花だから/大橋弘〉……キーワードは「変態」だ。柔らかくなるとは、〈変態〉することと同義だろうか?

再演よあなたにこの世は遠いから間違えて生まれた男の子に祝福を

かなわない頬っぺたのように夜の空 クリスマスと浮気は何度もしよう

代名詞しかないままにあるがまま倒錯が行き来しているふたつの朝を

歌集一冊を通読して感じるのは瀬戸の短歌の人力定型性。定型から零れ落ちそうになるぎりぎりのラインでもう一度息を吹き返すそれは同じ非定型でも〈花冷え どんな他人のことも湖のように全部わかる瞬間がある/平岡直子〉(「外出」創刊号)とは明らかに一首の生成過程を異にする。

皆殺しのサーカスその行数でそのあとすぐにそれとも頑張っちゃう?

骨組みだけになっても自由に踊りつづけようミルクと売国奴と

c

2023年のいま『かわいい海とかわいくない海 end.』を位置付けるとするならどうなるだろうか。歴史の綾だが、「二〇〇〇年から二〇二〇年に刊行された、第一歌集から第三歌集までを対象」とした『はつなつみずうみ分光器』では2021年5月刊行の平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』は対象外になった。しかしながら、同時代性(は、「町」「率」でのふたりの歩みや「SH」発行も含めた現代川柳への接近を持ち出せば充分だろう)を鑑みると、『みじかい髪も長い髪も炎』とのペアリングは絶対に外せない。また、川柳ではなく俳句への接近という対照性を視野に入れれば堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』も外せない(ふたりはわせたんの同世代である)。『かわいい海とかわいくない海 end.』、『みじかい髪も長い髪も炎』、『やがて秋茄子へと到る』の三幅対。わたし(たち)が愛してやまないわせたん黄金期。

灯台が転がっているそこここにおやすみアジアの男の子たち/平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』

振り下ろすべき暴力を曇天の折れ曲がる水の速さに習う/堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』

我妻俊樹『カメラは光ることをやめて触った』歌集評

2023年8月執筆

「歌会は評のライブではあっても歌のライブではないこと、おそらく評よりはるかに長い時間かけて歌がつくられていることについて、逆では? というのはある。即詠された歌でさえ、場合によっては何十時間もかけて読まれるべきでは? とか。」@koetokizu 2018年3月3日

我妻の歌をまったく知らない相手に我妻の歌の特徴を伝える必要があるとすれば、我妻自身のTwitterでのこの言葉を引用するのが最も適切だろう。

歌集『カメラは光ることをやめて触った』の増補部分、要するに誌上歌集「足の踏み場、象の墓場」(短歌同人誌「率」十号)以降の歌群を読んだときにわたしが感じたのは、我妻俊樹すら短歌シーンとは無縁ではない、ということだ。実際、第一部「カメラは光ることをやめて触った」に収められた歌群の大半は、Twitterアカウント上で月詠として公開されたり、Twitterでの宣伝を利用してネットプリントで発表されたりしたものだし、版元である書肆侃侃房刊行のムック「たべるのがおそい」や「ねむらない樹」に寄稿した作品も収録されているため、短歌シーンに無縁どころか、がっつりシーンの先端にいる印象すら与える。しかしながら、瀬戸夏子の栞文にあるようにわたしたちは、いや、わたしは「我妻の歌を排除」してきたように思う。

我妻俊樹をシーンの先端とすると、我妻の歌は具体的にどう変わったか。非常に抽象的な言い方になるが、以前(「足の踏み場、象の墓場」)にはあった「足の踏み場」や「象の墓場」的な面積が、限定され見切れた状態でしか捉えることができなくなった。〈砂糖匙くわえて見てるみずうみを埋め立てるほど大きな墓を〉から〈目の中の西東京はあかるくて駐輪コーナーに吹きだまる紙へ〉へ。〈目の中の〉の〈目の中〉は片目の中と読むが、注目したいのは、〈あかるくて〉という修飾。同じようにあかるさを詠み込んだ歌として「足の踏み場、象の墓場」以降の代表作の一首に〈コーヒーが暗さをバナナがあかるさを代表するいつかの食卓で〉があるが、この〈あかるさ〉は間違ってもわたしたちが我妻に与えたあかるさではない。我妻自身がみずから設定せざるを得なかった光度だ。

「カメラは光ることをやめて触った」パートでわたしが特に惹かれたのも〈好きな〉という一見排除とは相容れない歩み寄りのように思える語彙を使っている歌だ。

好きな色は一番安いスポンジの中から一瞬で見つけたい

好きな電車に飛び乗って黙っていたい大きすぎない鯛焼きを手に

安いスポンジ特有のチープな発色から好きな色を反射的に見つける、大きすぎない鯛焼きを手に電車に飛び乗った上で黙っていたいというささやかだけれどキッチュで贅沢な欲望。そうした欲望は、「足の踏み場、象の墓場」で文字通り繰り返し歌われた〈バッタ〉であることが〈うれしくて〉という一首の発情と同一線上にある。

ぼくのほうが背が低いのがうれしくてバッタをとばせてゆく河川敷

とびはねる表紙のバッタうれしくてくるいそうだよあの子とあの子


勇気なのだ 間違い電話に歯切れよく「五分で着きます!」きみはこたえた

我妻のキャリアから一首選ぶならこの歌をわたしは選ぶ。この歌は一見人間同士のコミュニケーションの本質を語っているように見えるが、「勇気なのだ」の語り手は間違い電話の受け手でも掛け手でもない。「勇気なのだ」という声に偶然ぶつかったようにも自分からぶつかりにいっているようにも思える「五分で着きます!」。勇気なのだ。二物衝撃の衝撃に内側から触れた一首。短歌のライブがここにある。

2023年9月12日火曜日

『浅い夢』覚書

横書き100首。復職してから現在までに7首~15首単位で画像ファイル一枚にしてTwitterとInstagramに投稿していた短歌から100首選んだ。投稿時はscrapboxでメモしていた短歌を文庫本メーカーで縦書きに変えて完成としていた。

1首編集の過程で重複が出たが、暮田真名『ふりょの星』の例もあるし、と思ってそのまま採用(なんとでも言える口だけはある)。NewJeansをNew Jeansと本文で誤記していたので、同封のK-POPフリペで訂正したが、STAYCをSTYACと誤記している箇所が見つかった。英語だと編集の目が一気に落ちる。

瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.』に横書き中央揃えの、伊舎堂仁『感電しかけた話』にnoteタイプの横書きレイアウトを、青松輝『4』に本人のツイート画像のような横書きデザインを夢見たのだが、いずれも「本」ないし「商業」によって現実化しなかったので自分で作ってみたのが『浅い夢』

なんとでも言える口で文フリ前日につぶやいたが、良い線はついている。縦書き二行歌集は、わたしが短歌をはじめてからでも『翅ある人の音楽』『静電気』『meal』『人魚』『景徳鎮』などがあるが、横書き歌集は一冊も見ていない。

「横書き」だけが前面に出るのではなく、横書き短歌が違和感なく存在するレイアウトは可能だろうか。縦書き二行形式の、縦書き一行が一般的な短歌レイアウトへのちょっとしたずらしのような効果(先にあげた歌集が旧仮名、文語のいずれかもしくは両方を採用しているのは決して偶然ではない。このことは横書き歌集の夢を見た三冊の文体とも関連する話)まで横書きに望めるかというと微妙で、そもそも二行形式との関連で言えばスマートフォンなどのメモアプリやTwitterへの投稿時はほとんどすべての短歌が横書き二行にまたがっているはずなので、それを横書き一行にするのも縦書き一行にするのも大差ない、という考え方もできる。

良い読者ではないが、現代詩、とりわけ余白の少ない散文詩のレイアウトに可能性を感じることがある。これは、わたしが可能性を感じている新聞のレイアウトに一番近い印字形式だから、ではないか。どんなレイアウトやフォントでも同じように短歌が読める人もいるだろうが、わたしは無理で、コピー本をときどき作ってしまうのもコピー本だと「SimSun」というお気に入りのフォントが使えるから(印刷会社では対応してなくて、「オフタイマーをもうすぐ切れる」の時は慣れないフォントを使った)。と言いつつ、「SimSun」は縦書き短歌のほうが映えるんですが。

2023年3月4日土曜日

動的な鏡ーー橋場悦子『静電気』について

 橋場悦子『静電気』より20首選

相手からもわたしが見えるのを忘れひとを見つめてしまふときあり

閉めきつた部屋にも深く入(はひ)り込む切り取り線のやうな虫の音

好きな色「透明」と言ひしひとのこと思ひ出したり夕立の中

空つぽの弁当箱を持ち帰るやうだ心臓ことこと揺れて

いくつものルートがあるが乗り換へはいづれも二回必要である

白も黒もますます似合はなくなりて出勤時刻迫りくる朝

迷つても平気地球は丸いから 空の青さの沁みる十月

最後尾の札は立てかけられてゐて誰も並んでゐない店先

奥さんと呼ばるることの少なくて毎朝鍵を外から掛ける

この鍵で開くからわたしの部屋なんだ真つ暗闇に明かりをつける

信号のない交差点つつ切つてもつと遠くへもつとひとりに

ああこれは夢だと気づく夢の中片つ端から蓋開けてゐる

えんえんと西瓜割りしてゐる心地ひとり収まる深夜タクシー

日が暮れる前にどこまで歩けるかときどき桜の咲く帰り道

花冷えが一番寒い化粧したままいつまでも座り込む部屋

街路樹はなべて炎のかたちして空に届かず東京の夏

写真とは常に昔を写すもの鏡ほどにはおそろしくない

彩りにパプリカなども添へて出す これを独占欲といふのか

ぬひぐるみみたいだなんて本物のパンダ見ながら言つては駄目だ

夕暮れのとき長くして次々に知らないひととばかり行き交ふ


古着屋や美容室の鏡で見ている自分はワンルームでハンドミラーを見ている自分より遥かに魅力的だ。マンションのエレベーターや実家の全身鏡で見る自分はその中間ぐらい。鏡ってだいたいは矩形でその形から静的な存在だと思い込んでいたが、決してそうではなく、動的な存在なんだと『静電気』を読んで思った。〈夕暮れのとき長くして次々に知らないひととばかり行き交ふ〉という一首がただの都会のワンシーンには見えないように見えるのが不思議で、それは〈長くして〉に拠るものだろうか。あるいは(いや、同じことか)〈知らないひと〉ひとりひとりにきっちり出会っているからだろうか(その時間が〈長くして〉に拠って確保されているということ)。時間や空間が間延びしているのは〈ときどき桜の咲く帰り道〉を歩いていることからもよくわかるというか、このフレーズだけで満開の桜の季節までもを内包していて、その感覚が〈迷つても平気地球は丸いから〉という断言を可能にする。〈えんえんと西瓜割りしてゐる心地ひとり収まる深夜タクシー〉。おそらく後部座席の運転手と対角の位置に長さのせいで少し緩んだシートベルトをつけて座っているのだと思う(ほろ酔いの酩酊感なら真後ろに座るだろうが、だとするとドライバーの頭は西瓜にならない)のだけどこの一首に〈奥さんと呼ばるることの少なくて毎朝鍵を外から掛ける〉に通底するものを読むことも出来るだろう。余談だが、一首二段組の歌集に、長さに拠って一行になった歌が入り込んでいる歌集をはじめて見て、この点も『静電気』の世界線だな、と思った。