2024年4月25日木曜日

ポストニューウェーブと瀬戸夏子、瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.』歌集評

2023年8月執筆

a ポストニューウェーブと瀬戸夏子

瀬戸夏子がポストニューウェーブの話をしている最初期の記憶は、わせたんでのロングインタビュー(『早稲田短歌』45号)で、永井、斉藤、宇都宮という語呂の良さが妙に記憶に残っている。永井、斉藤、宇都宮とは言うまでもなく永井祐、斉藤斎藤、宇都宮敦のことだ。最近出た長谷川麟『延長戦』の栞文で瀬戸が「ポストニューウェーブの課題のひとつ(最後のプログラム)に歌集があった」というようなことを書いていて、初読ではあまりピンとこなかったのだが、『日本の中でたのしく暮らす』(永井祐)と『ピクニック』(宇都宮敦)は歌集刊行のタイミングが遅く、反対に『渡辺のわたし』(斉藤斎藤)はタイミングが早く、という ニュアンスではないか、と推測する。

歌集『渡辺のわたし』については、瀬戸が『はつなつみずうみ分光器』で、第二歌集『人の道、死ぬと町』をポストニューウェーブのひとつの到達点(「ポストニューウェーブ短歌折り返しのリミット」)として挙げていることと、永井祐が「現代短歌」の平成の歌集特集(2019年6月号)で書いていた「斉藤斎藤ははじめの歌集を出すのがかなり早かった人だと思う」という記述が参考になる。同じ文章で永井が『人の道、死ぬと町』の前半におさめられた歌群を評価しているのも大変興味深い。

『はつなつみずうみ分光器』で、瀬戸が設定したもうひとつの到達点が大森静佳の『カミーユ』(「二〇一〇年代の短歌における達成の極のひとつを斉藤斎藤『人の道、死ぬと町』に見るならば、もうひとつの極は間違いなく大森静佳の『カミーユ』である。」)なのだが、同じく瀬戸がポストニューウェーブについて字数を重ねた「ねむらない樹」最新号(vol.10)の笹井宏之論で、笹井宏之のわたしとあなたの純度を磨きあげていく作風の先端に大森静佳の名を挙げているのは個人的にはやや意外な感があった。が、我妻俊樹『カメラは光ることをやめて触った』栞文でのポストニューウェーブのポエジー派、雪舟えま、笹井宏之、我妻俊樹の三幅対を補助線にすれば見通しがすっきりする。

いわゆるポストニューウェーブの三人、永井、斉藤、宇都宮はいわゆる口語短歌においてそれぞれの方法で純化を達成したと言えるが、『はつなつみずうみ分光器』において、このラインの延長線は引かれていない。瀬戸がこのラインの延長線を意図的に引いていないのは、瀬戸の選歌眼や選歌集を見れば明らかだが、ここでわたしなりに延長線を引いて見るなら、『予言』、『光と私語』、『ビギナーズラック』となるだろう(そこからさらに『了解』や『感電しかけた話』にまで話を広げるのは、山田航の仕事だ)。

ここまでの流れから、瀬戸はポストニューウェーブのさらにポエジー派、具体的には、雪舟えま、笹井宏之、我妻俊樹の系譜に連なる意志があることが見て取れるが、こうした視点に瀬戸夏子を含めた文章が既にあって、「ねむらない樹」vol.9 特集「詩歌のモダニズム」上の佐藤弓生の文章がそれにあたる。佐藤は現代のモダニズムの系譜として、井上法子、望月裕二郎、平岡直子の歌とともに瀬戸夏子の歌を引用している。引用歌集はそれぞれ『永遠でないほうの火』『あそこ』『みじかい髪も長い髪も炎』『そのなかに心臓をつくって住みなさい』。

b 瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.』歌集評

わたしを信じていて ゆめをみて 絶望を斡旋するのがわたしのよろこび

暗唱できるようになった短歌一首が歌集という一冊の物質上で改変されてしまっていたときの衝撃がいまも残っている。いまにして思えばそれは推敲でしかなかったのだが、当時のわたしはそれを推敲と受け取ることができず(暴力だと思った)あれだけ楽しみにしていた歌集の購入を一旦保留にした。

泉から抜けていく水……極太のサインペンとビニール袋なら(『かわいい海とかわいくない海 end.』)

泉から抜けてった水 極太のサインペンとビニール袋な(短歌同人誌「率」三号)

第二歌集以降、瀬戸の歌にあった暴力性は影を潜め、瀬戸の歌は軽くなり、柔らかくなった。〈ひとさしゆびはひとをさしてた零度のような玩具もあるし〉〈おりがみのあしのときめき不意に主役は刺されるものさ〉(「20170507」『現実のクリストファー・ロビン』)。スポーツにしてもそうだが、柔らかくなるとは、習熟するということと同義だ。この習熟曲線はなにも瀬戸に限った話ではない。永井祐や山下翔の第一歌集から第二歌集への推移についても同様である(句跨りからなめらかな句の接続へ)。

「選」(暴力)と「読み」(習熟)というふたつの歌に対する態度があるが、これらは似て非なるものだ。いま同世代の短歌の世界は完全に「読み」が優位になっている。短歌同人誌「波長」二号に掲載された鈴木ちはねの前号評「読むことと詠むことの合わせ鏡について」を読んでわたしは深く感動するとともに同じくらいの危機感を抱いた。

わたしに歌会(習熟)の読みの面白さを教えてくれたのは阿波野巧也だったが、選(暴力)の凄さを教えてくれたのは瀬戸夏子だ。Twitterに一時期存在した短歌bot、とりわけピンクベースのアイコンの短歌botはいまもわたしが歌を選ぶ際の最終的な拠り所になっている。短歌botから具体的に印象に残っている歌人名を挙げるなら、渡辺松男、大橋弘、望月裕二郎、おさやことり……〈遮断機があがりきるまで動かないぼくは断然菜の花だから/大橋弘〉……キーワードは「変態」だ。柔らかくなるとは、〈変態〉することと同義だろうか?

再演よあなたにこの世は遠いから間違えて生まれた男の子に祝福を

かなわない頬っぺたのように夜の空 クリスマスと浮気は何度もしよう

代名詞しかないままにあるがまま倒錯が行き来しているふたつの朝を

歌集一冊を通読して感じるのは瀬戸の短歌の人力定型性。定型から零れ落ちそうになるぎりぎりのラインでもう一度息を吹き返すそれは同じ非定型でも〈花冷え どんな他人のことも湖のように全部わかる瞬間がある/平岡直子〉(「外出」創刊号)とは明らかに一首の生成過程を異にする。

皆殺しのサーカスその行数でそのあとすぐにそれとも頑張っちゃう?

骨組みだけになっても自由に踊りつづけようミルクと売国奴と

c

2023年のいま『かわいい海とかわいくない海 end.』を位置付けるとするならどうなるだろうか。歴史の綾だが、「二〇〇〇年から二〇二〇年に刊行された、第一歌集から第三歌集までを対象」とした『はつなつみずうみ分光器』では2021年5月刊行の平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』は対象外になった。しかしながら、同時代性(は、「町」「率」でのふたりの歩みや「SH」発行も含めた現代川柳への接近を持ち出せば充分だろう)を鑑みると、『みじかい髪も長い髪も炎』とのペアリングは絶対に外せない。また、川柳ではなく俳句への接近という対照性を視野に入れれば堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』も外せない(ふたりはわせたんの同世代である)。『かわいい海とかわいくない海 end.』、『みじかい髪も長い髪も炎』、『やがて秋茄子へと到る』の三幅対。わたし(たち)が愛してやまないわせたん黄金期。

灯台が転がっているそこここにおやすみアジアの男の子たち/平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』

振り下ろすべき暴力を曇天の折れ曲がる水の速さに習う/堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』

我妻俊樹『カメラは光ることをやめて触った』歌集評

2023年8月執筆

「歌会は評のライブではあっても歌のライブではないこと、おそらく評よりはるかに長い時間かけて歌がつくられていることについて、逆では? というのはある。即詠された歌でさえ、場合によっては何十時間もかけて読まれるべきでは? とか。」@koetokizu 2018年3月3日

我妻の歌をまったく知らない相手に我妻の歌の特徴を伝える必要があるとすれば、我妻自身のTwitterでのこの言葉を引用するのが最も適切だろう。

歌集『カメラは光ることをやめて触った』の増補部分、要するに誌上歌集「足の踏み場、象の墓場」(短歌同人誌「率」十号)以降の歌群を読んだときにわたしが感じたのは、我妻俊樹すら短歌シーンとは無縁ではない、ということだ。実際、第一部「カメラは光ることをやめて触った」に収められた歌群の大半は、Twitterアカウント上で月詠として公開されたり、Twitterでの宣伝を利用してネットプリントで発表されたりしたものだし、版元である書肆侃侃房刊行のムック「たべるのがおそい」や「ねむらない樹」に寄稿した作品も収録されているため、短歌シーンに無縁どころか、がっつりシーンの先端にいる印象すら与える。しかしながら、瀬戸夏子の栞文にあるようにわたしたちは、いや、わたしは「我妻の歌を排除」してきたように思う。

我妻俊樹をシーンの先端とすると、我妻の歌は具体的にどう変わったか。非常に抽象的な言い方になるが、以前(「足の踏み場、象の墓場」)にはあった「足の踏み場」や「象の墓場」的な面積が、限定され見切れた状態でしか捉えることができなくなった。〈砂糖匙くわえて見てるみずうみを埋め立てるほど大きな墓を〉から〈目の中の西東京はあかるくて駐輪コーナーに吹きだまる紙へ〉へ。〈目の中の〉の〈目の中〉は片目の中と読むが、注目したいのは、〈あかるくて〉という修飾。同じようにあかるさを詠み込んだ歌として「足の踏み場、象の墓場」以降の代表作の一首に〈コーヒーが暗さをバナナがあかるさを代表するいつかの食卓で〉があるが、この〈あかるさ〉は間違ってもわたしたちが我妻に与えたあかるさではない。我妻自身がみずから設定せざるを得なかった光度だ。

「カメラは光ることをやめて触った」パートでわたしが特に惹かれたのも〈好きな〉という一見排除とは相容れない歩み寄りのように思える語彙を使っている歌だ。

好きな色は一番安いスポンジの中から一瞬で見つけたい

好きな電車に飛び乗って黙っていたい大きすぎない鯛焼きを手に

安いスポンジ特有のチープな発色から好きな色を反射的に見つける、大きすぎない鯛焼きを手に電車に飛び乗った上で黙っていたいというささやかだけれどキッチュで贅沢な欲望。そうした欲望は、「足の踏み場、象の墓場」で文字通り繰り返し歌われた〈バッタ〉であることが〈うれしくて〉という一首の発情と同一線上にある。

ぼくのほうが背が低いのがうれしくてバッタをとばせてゆく河川敷

とびはねる表紙のバッタうれしくてくるいそうだよあの子とあの子


勇気なのだ 間違い電話に歯切れよく「五分で着きます!」きみはこたえた

我妻のキャリアから一首選ぶならこの歌をわたしは選ぶ。この歌は一見人間同士のコミュニケーションの本質を語っているように見えるが、「勇気なのだ」の語り手は間違い電話の受け手でも掛け手でもない。「勇気なのだ」という声に偶然ぶつかったようにも自分からぶつかりにいっているようにも思える「五分で着きます!」。勇気なのだ。二物衝撃の衝撃に内側から触れた一首。短歌のライブがここにある。

2023年9月12日火曜日

『浅い夢』覚書

横書き100首。復職してから現在までに7首~15首単位で画像ファイル一枚にしてTwitterとInstagramに投稿していた短歌から100首選んだ。投稿時はscrapboxでメモしていた短歌を文庫本メーカーで縦書きに変えて完成としていた。

1首編集の過程で重複が出たが、暮田真名『ふりょの星』の例もあるし、と思ってそのまま採用(なんとでも言える口だけはある)。NewJeansをNew Jeansと本文で誤記していたので、同封のK-POPフリペで訂正したが、STAYCをSTYACと誤記している箇所が見つかった。英語だと編集の目が一気に落ちる。

瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.』に横書き中央揃えの、伊舎堂仁『感電しかけた話』にnoteタイプの横書きレイアウトを、青松輝『4』に本人のツイート画像のような横書きデザインを夢見たのだが、いずれも「本」ないし「商業」によって現実化しなかったので自分で作ってみたのが『浅い夢』

なんとでも言える口で文フリ前日につぶやいたが、良い線はついている。縦書き二行歌集は、わたしが短歌をはじめてからでも『翅ある人の音楽』『静電気』『meal』『人魚』『景徳鎮』などがあるが、横書き歌集は一冊も見ていない。

「横書き」だけが前面に出るのではなく、横書き短歌が違和感なく存在するレイアウトは可能だろうか。縦書き二行形式の、縦書き一行が一般的な短歌レイアウトへのちょっとしたずらしのような効果(先にあげた歌集が旧仮名、文語のいずれかもしくは両方を採用しているのは決して偶然ではない。このことは横書き歌集の夢を見た三冊の文体とも関連する話)まで横書きに望めるかというと微妙で、そもそも二行形式との関連で言えばスマートフォンなどのメモアプリやTwitterへの投稿時はほとんどすべての短歌が横書き二行にまたがっているはずなので、それを横書き一行にするのも縦書き一行にするのも大差ない、という考え方もできる。

良い読者ではないが、現代詩、とりわけ余白の少ない散文詩のレイアウトに可能性を感じることがある。これは、わたしが可能性を感じている新聞のレイアウトに一番近い印字形式だから、ではないか。どんなレイアウトやフォントでも同じように短歌が読める人もいるだろうが、わたしは無理で、コピー本をときどき作ってしまうのもコピー本だと「SimSun」というお気に入りのフォントが使えるから(印刷会社では対応してなくて、「オフタイマーをもうすぐ切れる」の時は慣れないフォントを使った)。と言いつつ、「SimSun」は縦書き短歌のほうが映えるんですが。

2023年3月4日土曜日

動的な鏡ーー橋場悦子『静電気』について

 橋場悦子『静電気』より20首選

相手からもわたしが見えるのを忘れひとを見つめてしまふときあり

閉めきつた部屋にも深く入(はひ)り込む切り取り線のやうな虫の音

好きな色「透明」と言ひしひとのこと思ひ出したり夕立の中

空つぽの弁当箱を持ち帰るやうだ心臓ことこと揺れて

いくつものルートがあるが乗り換へはいづれも二回必要である

白も黒もますます似合はなくなりて出勤時刻迫りくる朝

迷つても平気地球は丸いから 空の青さの沁みる十月

最後尾の札は立てかけられてゐて誰も並んでゐない店先

奥さんと呼ばるることの少なくて毎朝鍵を外から掛ける

この鍵で開くからわたしの部屋なんだ真つ暗闇に明かりをつける

信号のない交差点つつ切つてもつと遠くへもつとひとりに

ああこれは夢だと気づく夢の中片つ端から蓋開けてゐる

えんえんと西瓜割りしてゐる心地ひとり収まる深夜タクシー

日が暮れる前にどこまで歩けるかときどき桜の咲く帰り道

花冷えが一番寒い化粧したままいつまでも座り込む部屋

街路樹はなべて炎のかたちして空に届かず東京の夏

写真とは常に昔を写すもの鏡ほどにはおそろしくない

彩りにパプリカなども添へて出す これを独占欲といふのか

ぬひぐるみみたいだなんて本物のパンダ見ながら言つては駄目だ

夕暮れのとき長くして次々に知らないひととばかり行き交ふ


古着屋や美容室の鏡で見ている自分はワンルームでハンドミラーを見ている自分より遥かに魅力的だ。マンションのエレベーターや実家の全身鏡で見る自分はその中間ぐらい。鏡ってだいたいは矩形でその形から静的な存在だと思い込んでいたが、決してそうではなく、動的な存在なんだと『静電気』を読んで思った。〈夕暮れのとき長くして次々に知らないひととばかり行き交ふ〉という一首がただの都会のワンシーンには見えないように見えるのが不思議で、それは〈長くして〉に拠るものだろうか。あるいは(いや、同じことか)〈知らないひと〉ひとりひとりにきっちり出会っているからだろうか(その時間が〈長くして〉に拠って確保されているということ)。時間や空間が間延びしているのは〈ときどき桜の咲く帰り道〉を歩いていることからもよくわかるというか、このフレーズだけで満開の桜の季節までもを内包していて、その感覚が〈迷つても平気地球は丸いから〉という断言を可能にする。〈えんえんと西瓜割りしてゐる心地ひとり収まる深夜タクシー〉。おそらく後部座席の運転手と対角の位置に長さのせいで少し緩んだシートベルトをつけて座っているのだと思う(ほろ酔いの酩酊感なら真後ろに座るだろうが、だとするとドライバーの頭は西瓜にならない)のだけどこの一首に〈奥さんと呼ばるることの少なくて毎朝鍵を外から掛ける〉に通底するものを読むことも出来るだろう。余談だが、一首二段組の歌集に、長さに拠って一行になった歌が入り込んでいる歌集をはじめて見て、この点も『静電気』の世界線だな、と思った。

2023年2月12日日曜日

短歌定型の現在ーー山崎聡子の「つつ」「まま」「よ」について

コロナ禍の前のことになるけれど、短歌の「接続と因果」にこだわっていた時期があった。主に否定的な文脈で「つつ」や「まま」や「とき」といった語を作者が恣意的に用いてることを大阪や京都の歌会で執拗に指摘していた。それはいわゆる「つぶやき+実景」の+の崩壊、短歌定型という一点のみで成り立っていた接着剤が表面化してしまうことへの気持ち悪さだった、ろうか。

先日発売されたばかりの「あこがれ」をテーマにした短歌アンソロジー(「アンソロジスト vol.4」)を読んでいてびっくりしたのは、平岡直子と山崎聡子の文体の近さだ。ふたりの文体は、もはやつぶやきと実景のような二項が一首のなかで対立せずに抱えられていく。なかでも山崎聡子の文体はひとつの完成形と言えるだろう(これに対して〈女の子を裏返したら草原で草原がつながっていたらいいのに〉と歌った平岡の近作(「録画」「黒百合」)の文体は山崎的な文体をさらに極限へ押し進めたかたちだが、現在のわたしには評価は不能である)。

お砂糖がちょっと焦げたらカラメルで、夜で、絶望的で、弱火で、

ビル街にゆっくりと夕暮れがきて大量のフラミンゴの気配だ

/平岡直子「録画」「短歌研究」2023年1月号

つきあかりのしたの警察署のようにとてもしずかな身体だったわ

音漏れのようにじぐざぐ歩いてた 夜の港を、誰かが、誰かが、

/平岡直子「黒百合」「アンソロジスト vol.4」


手芸店に紫の石を持ったまま見えなくなっていたの夕暮れ

/山崎聡子「宝石」「アンソロジスト vol.4」

公園のトイレにくらぐら産まれつつ記憶のなかに蝉声はある

/山崎聡子「Birth」「短歌研究」2022年11月号

ここまでくるともはや「まま」や「つつ」の恣意性を指摘したいとは思わない。見事な歌だと思う。手芸店の一首は、子ども時代の回想を短歌一首に仕立て上げたとも読めるが、一方で、回想をいったん経由した上で短歌的な「現在」にも手が届いている。公園の一首は、わたしが産まれた「現在」(!)を記憶のなかの蝉声を媒介とすることで浮かび上がらせる。あの、蝉声の、もう鳴り止まないんじゃないか、という時間感覚が「つつ」そのものでもある。「蝉声はある」の「は」がとんでもなく凄く、この「は」によって記憶とわたしとの地位が反転しつつ接続する。


琥珀のなか火は燻って裸のまま生まれて死ぬという甘言よ

/山崎聡子「宝石」

トンネルに入って薄くなった影を垂らして八月のおわりの帰路よ

/山崎聡子「Birth」

余談として、山崎-平岡的な回想を経由した上で短歌定型という現在に回帰する文体が採用する間投詞が「よ」であることに長らく興味がある。この選択について、実作レベルでの必然性はほとんどつかめた(みたいです)のだけど、「まま」や「つつ」や「とき」を束ねるときに用いられる間投詞が「よ」であることに疑問を持つ読者や評者もいるだろう。これに対してはそれなりの時間を掛けて作ってみるとわかってくる、としかいまは言えないが、とにかくこの文体だと一首の判子(直近の現代短歌社賞選考会を参照)が「よ」になる。

さらなる余談として、山崎の第二歌集『青い舌』は「動詞と名詞を行き来するような歌集」だと以前わたしはつぶやいていたようだが、いま読むとかなり難しいことを書いている。重要なのは、「動詞」と「名詞」の「動」と「名」で、短歌一首は往々にして「A(接続詞)B」構文を取るのだけど、山崎-平岡文体はこの構文の安定状態が崩れている、ということだろうか。こちらも手掛かりになれば。

風がたき火に混じるその日を冬と呼び風に十字を切って遊んだ

水たまりを渡してきみと手をつなぐ死が怖いっていつかは泣くの

遮断機の向こうに立って生きてない人の顔して笑ってみせて

/山崎聡子『青い舌』


参考音源

The 1975 「I'm In love With You」

宇多田ヒカル 「BLUE」

NewJeans 「ditto」

Se So Neon 「NAN CHUN」

adieu 「旅立ち」

IVE 「LOVE DIVE」

ずっと真夜中でいいのに。 「消えてしまいそうです」

Clairo 「Sling」アルバム

Remi Wolf「Juno」アルバム

2023年1月9日月曜日

「角川短歌」1月号から10首選すれば抱負が自ずから出た

「新春一三三歌人大競詠」を拾い読みした感想をつらつらと。角川の新年大競詠を読んで毎年のように思うのは作り手としての自分とはまったく無縁の文体の歌人がほとんどを占めるということで、柔道なんかの「階級が違う」に感覚としては近い。わたしは「見かけは平易な口語文体」で「ねじれやメタが高度」(瀬戸夏子)な歌風(わからない、という方は勉強してください)なのだが、角川的な文体までくるとシンプルに歌を読む楽しみがある。7首というのは、基本的に、見切りがつけられない=次作へ期待が持ち越されれば、成功だと思う(流石に5回続けてつまらない作品を読んだ作者は追わなくなるので)。


目を上げて川をみるなりわが電車利根川鉄橋にさしかかりたれば/小池光

と言いつつ、10首連作枠から。「わが」で「わたしが乗っている」を担わせているのがうまい。加えて、「わが電車」と限定されることで無防備な(場所の限定がなかった)川を見る目が一気に座席へ収束する。縦二座席ではなく横に長いタイプのがらがらの電車の真ん中あたりに座っているような気がするのは両眼を使って見ているように感じるから。


ファン・ゴッホくるへるごとくまつきつき菜の花ばたけは菜の花を着て/渡辺松男

去年の終わりぐらいから渡辺松男こそライバルに相応しいという気持ちがむくむくと湧き上がっている。渡辺の歌を読むたびにどうしてここまで好感度が高いのかと首を傾げたくなるほどの嫌悪感を抱く。これでは鮭の産卵じゃんと思うが、みんないくらは好きなんだった。〈ひとが手を振れるに光る腋の下たいさんぼくの咲きたるごとし〉なんて実質松男型の〈ノースリーブの腕のひかりの苦しくて好きになつたらあかんと思ひき/大辻隆弘『景徳鎮』〉じゃんと思うが、実質をいかに魅せるかが個性なんですかねえ。


重なり合う星座はあらず親になることなく見上げる冬の夜空に/鍋島恵子

ぽつぽつと見かけるたびにこの作者の歌の立ち姿が良いなと思ってしまう。なぜだろう。


返ってきたメールとすごす冬の午後 いろんな色にライターがある/永井祐

〈メールしてメールしている君のこと夕方のなかに置きたいと思う〉然り、永井さんはメールを味わうのが相当お好き。LINEなんかも既読を付けずに受信したメッセージをしばらく馴染ませるようなタイプなのかな。もう少し踏み込むと山階基作品の優しさとの違いを考えるとおもしろいと思う。〈自転車のサドルをかなり上げたまま返したことを伝えそびれる/山階基「忘れながら数えながら」『短歌研究』2023年1月号〉


詞書:福岡では時々空飛ぶ桃を見ることがある どこもこんなものだろうか

空飛ぶ桃を眺める朝よ 染野さんの島田修三のうた何度も唱える/竹中優子

わたしも一年休職していたこともあり〈今休めば太宰治賞に間に合うと思わなかったと言えば嘘になる〉も含めて細かいニュアンスまであうあうとなる。〈チキンラーメン慌てて食べてひとしきり『あの日の海』と『人魚』を読んだ〉という一首をわたしは作った。


美しく重たくひどい着心地のコートに消えてしまいたいのよ/平岡直子

〈からっぽの頭で乗っている電車シュークリームの空気は甘い〉と迷ったが、この永井祐感を先に読んでからの一首を選ぶ。〈美しく重たく〉〈ひどい着心地の〉〈コートに消えてしまいたいのよ〉と三段階のギアチェンジがあるが、一首の読み下しとは反対に初二句の〈美しく重たく〉の脚韻(で合ってます?)が現在の心情として重たくのしかかってくる。


毛布からはみだす肩が冷たいと自律神経に雪が積もると/小島なお

「短歌テトラスロン」の30首もそうだったが、得体のしれない、スケールの異様に大きな相手を扱いそこね続けている。こういうときにわたしは「歌集で読みたい」と思うようだ。〈読むように抱き、それからはありふれた手順であかい月をみあげた〉〈浴室の磨りガラスにまで貼りついた私の声を剥がしておいて/小島なお「魚は馬鹿」『短歌研究』2023年1月号〉


風の誕生日それからわたくしの頭皮くるしむごとく波打つ/大森静佳

『シンジケート』にこんな歌なかったっけ、と思ったが、〈風の交差点すれ違うとき心臓に全治二秒の手傷を負えり/穂村弘『ドライ ドライ アイス』〉だった。『ヘクタール』の出版それから、みたいな歌でしょうか。


もう二度と起きないけれど僕たちは微粒子レベルでまた手をつなぐ/藪内亮輔

藪内さんの歌は着眼点は微粒子レベルなのに歌の骨格が太いという矛盾がずっとあり、もはやそれしかないが、それを作家性と呼ぶのだろうか。


私ばかりが愛情に飢ゑてゐて恥づかしい銀杏並木のコインランドリー/睦月都

研究も含めた競詠企画で読むと毎回フレッシュさを覚え、先の小島さんとは違った意味で「歌集で読みたい」と思う作者。わたしの中で歌集とはとにかく飽きずに最後までページを捲りたい本でしかない(ので、理想の歌集とはすべての歌をはじめて読むように読める歌集、になる。平岡直子の「まだ読み終わらない」という『シンジケート』評を思い出されたい)。スケールの大きさとフレッシュさ。いい歌集作るぞ。

2022年11月13日日曜日

永井祐一首評①②

来年は3回告(こく)ると君は言うコーデュロイのきれいなシャツを着て

/永井祐『広い世界と2や8や7』

わたしはこの歌に色気を感じるけれど、何に由来した色気なのだろう? 告(こく)る、とは、意中の人間に向かって自分の好意を伝えること。それを来年は3回やるらしい。同じ人に? まったく別の人に? というのは、おそらくどちらでも良くて、とにかく来年は3回告るぞ、という宣言、その清々しさ。の、空気は同じ連作の〈来年の抱負を0時のカラオケで言い合うクリスマスイブがいい〉の一首でだいたい補完出来てしまうのだけど、それだとただの良い空気感の歌になってしまう。おそらく、告られる相手がわたしたちの完全に外側にいて、もしかしたらこの発言を聞いている周りの人間ですら、いや、言っている当人ですら君(自分)が誰に告るのかわかっていないのだろう。クリスマスイブにコーデュロイのシャツなのも、いくらコーデュロイのシャツの厚さをもってしたとしても薄着に違いないが、高級なジャケットやマッチョなジャケットを羽織っているよりも身の丈に合っているというか、パリッとした生地感とすっぽりと出た(顔というより)頭の清々しさを際立たせている。わたしは以前から永井祐と瑛人の近接性を感じているけれど、一首に感じた色気とはそうした類いの香りのことだったのかもしれない。

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あらためてまじまじとながめてみれば人は誰でもドMにみえる

/永井祐『広い世界と2や8や7』

言うまでもなく〈人は誰でもドMにみえる〉のは〈あらためてまじまじとながめてみ〉ているからである。リワークセンターという復職の学校的な場所に通っていたときに認知行動療法という考え方を知った。かんたんに言うと、出来事そのもの(一次)ではなく出来事の受け止め方(二次)を見直すことで(不調のときには分かちがたく結びついている)出来事そのものと出来事の受け止め方とを分離し、そのあいだに柔軟な思考回路を構築する考え方のことで、この関係性は千葉雅也『動きすぎていけない』第8章で整理されているドゥルーズ『マゾッホとサド』のサディズム(イロニー)とマゾヒズム(ユーモア)に対応している。永井祐はアイロニーの人かユーモアの人かと言われたら、ユーモアの人(そもそも短歌定型の枠組みで歌を作っていることが既にM的なん)だけど、出来事そのものにアタックしないというのは、見ようによれば、本質を突き詰めない、根本に向きわない態度としてヌルい、と感じる大学生がいるかもしれない。他ならぬわたし自身三十一歳になった現在でも、そう思うことがないことはないが、一方で、広い世界とは、あらためてまじまじとながめた先にあるものなのだろう。