2025年1月24日金曜日

9年前の年末年始に書いた歌評×3(noteで書いた記事の復刻)

はだしの時空間ーー第二回ぺんぎんぱんつ賞受賞作を読む   2015年12月25日 23:41

 皆さんは何回目に読む連作が一番好きですか?

 第二回ぺんぎんぱんつ賞が発表された。正確にいうと、ぺんぎんぱんつ賞一名(はだし)、ぺんぎん賞四名(白水麻衣、えんどうけいこ、迂回、ナタカ)、ぱんつ賞四名(荻森美帆、伊豆みつ、姉野もね、加賀田優子)が発表された。そのなかから、ぺんぎんぱんつ賞に選ばれたはだしの連作「東京ひとり暮らし」を読んでみたい。

 連作空間に入って三つ目、つまり三首目に〈馬を見失ってしまう時代だ〉という短歌が配置されている。とてもとても短い歌だけど、始点は他の九首と統一されている。本当です。ただ、わたしはいまTumblrという媒体を用いて横書きでこの文章を書いているし、短歌を山括弧で括って提示しているのでこれはもう皆さんに信じてもらうしかありません。

(ちょっとだけ余談をすると、【瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.(仮)』抄出三十首】フリーペーパーは、抄出された三十首が横書き中央揃えで提示されていて、内容面はいうまでもなく形式面でも抜群に面白いし、瀬戸夏子までもが中央揃えにされている。)

 〈つい、買ってきたお菓子のほうを座椅子に座らせてしまうな〉ーーこれが二首目でこの短歌も字足らずになっている。けれども、字足らず感はあまりせず、むしろ逆に間延びしているような印象を与える。事実、わたしは初読時、二首目を〈つい、買ってきたお菓子のほうを座椅子に座らせてしまうな   馬を見失ってしまう時代だ〉と読んだ。

 〈座らせてしまうな〉と〈馬を〉の間にスペースが三つ空いているのは、いまわたしが手元で見ている紙面上に三字分のスペースがあるからで、これは、一首目の同じ箇所に〈られる〉とあることを根拠にしているが、逆にいえば、それしか根拠はない。

 第二回ぺんぎんぱんつ賞は「短歌連作十首」での応募だった。そのことははだしの連作の右側に書かれている。そのため、健全な読者ははだしの連作を読む前にその事実を了解している。わたしも了解している。なので、〈つい、買ってきたお菓子のほうを座椅子に座らせてしまうな   馬を見失ってしまう時代だ〉まで読んだあと、ん、と思い視線を上げ、右から、一、二、三、……と数えていき、〈歩いてたら前ゆく人がスカウトをされてわたしに道がひらける〉を十、と数えたところで、〈馬を見失ってしまう時代だ〉が三首目であることを確定事項とした。

 そう遠くはない未来、デジタルで読む連作はフラッシュ暗算みたくなるのだろうか。一首目から順に等間隔で連作がパッ、パッ、パッ、…と表示されてゆく。そうしたら、誰もが〈馬を見失ってしまう時代だ〉を三首目として認識できるだろうし、誤って(間違ってはいない)、六首目から目に入れてしまうこともない。そのうち、一首あたりの表示時間にズレを導入したり、逆再生やシャッフル機能を駆使するような猛者も出てくるに違いない。フラッシュ連作の時代の到来である。しかし、まだ、というか、少なくとも、いまわたしが読んでいるはだしの連作は紙上にある。

 さて、はだしの連作は「思い出す」ということがテーマのひとつになっている。一首目からして〈「寮母に嫌われる」よりは、と思えば大抵のことは乗り越えられる〉だし、五首目は〈生活がいちばん好きだったな、なかでもダースベイダーのやつ なんだっけ?〉で、七首目が〈おとなの亀がひっくり返ってると泣けるし、思い出す〉ときて、八首目に〈うつくしい夕焼けをみてセックスになりそう頭のなかの教室〉となるので、一瞬【完全記憶】!という言葉が頭にフラッシュするのだけど、〈なりそう〉という言葉がすぐに甦ってもくるし、紙面を見れば書いてあるしで、ちっとも完全記憶ではなかったことをわたしは認識する。けれど、そのあと、今度は四つのスペースを挟んで〈手首の内側に恐竜のスタンプ押して誰にもバレないよう過ごせた日のやや早歩きな下校とかを〉という文字列がレイアウトによる〈日/の〉という分断を挟んでやってきてくれて、ああ、はだしの連作を読んで良かった、となったのであります。

「それをいうならブニュエルでしょ」瀬戸 夏子   2015年12月28日 15:20

 わたしの〈瀬戸 夏子〉原体験は【「それをいうならブニュエルでしょ」】でこれは『率Free Paper COLLECTION 2012ー2014』「2」の〈音立てて銀貨こぼるるごとく見ゆつぎつぎ水からあがる人たち/小島なお〉に対する一首評という体裁の下で書かれた言葉だ。

 最初の一行が【 「それをいうならブニュエルでしょ」という言葉が耳に残って離れない。】で最後の一行が【 長い間、「それをいうならブニュエルでしょ」という言葉が耳に残って離れない。】だ。

 ひとつきほどまえに葉ね文庫で【瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.( 仮)抄出三十首』】フリーペーパーを手に入れて以来わたしはむさぼるように瀬戸 夏子を読んでいる。しかし『そのなかに心臓をつくって住みなさい』を買い求めることはなかった。その理由は自分でもまったくわからなかったのだけど間違いなく【「それをいうならブニュエルでしょ」という言葉が耳に残って離れない。】からだ。

強盗と消防士がかなしく分かつポカリスエットに頬を打たれた

わたしを信じていて ゆめをみて 絶望を斡旋するのがわたしのよろこび

それはそれはチューリップの輪姦でした

恋よりももっと次第に飢えていくきみはどんな遺書より素敵だ

瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.(仮)』抄出三十首

横書き中央揃え

泉から抜けてった水 極太のサインペンとビニール袋な

こすられた仏蘭西語から間の抜けた僕が出るまでたいがいにしな


瀬戸 夏子「おまえは」『率三号』

手入れとはつかれて異なる羞しさのホテルで借りた重すぎる傘

ひとり去りまたひとり来てエッセンス淡く泡立ち坂昇りつめ

代名詞しかないままにあるがまま倒錯が行き来しているふたつの朝を

瀬戸 夏子「メイキング」『率6号』

スプーンのかがやきそれにしたって裸であったことなどあったか君や僕に

いいきかせて天国のほうへ不要なんだ君や僕の愛と憎しみなんか

瀬戸夏子「イヴ」

横書き中央揃え

 長い間、「それをいうならブニュエルでしょ」という言葉が耳に残って離れない。

瀬戸夏子に手前は存在しないーー石井僚一「ラヴレターは瀬戸夏子の彼方に」を読む   2016年1月2日 18:10

 周知のようにわたしは「それをいうならブニュエルでしょ」という言葉が耳に残って離れない。石井僚一「ラヴレターは瀬戸夏子の彼方に」はそんな状況下で読まれることになる。

 「ラヴレターは瀬戸夏子の彼方に」は横書き中央揃えというわたしにはもはやお馴染みの瀬戸夏子の形式をすっかりそのまま反復している。が、その一方で、短歌と背景の白黒が反転している。

骨に骨 引き寄せるとき身を捩るあなたはあなたの抒情の墓石

不在の、あなたの森の、その日々の、鳥の籠には紫陽花の咲いて弾ける

須くシモーヌ・ヴェイユ、檻の降る丘で脚本通りに君を

性格は夜 特技は無 紙とペンが時間の類語であればこそ霊魂は不滅

すこし瀬戸すこし夏子のラヴを差し引いても接吻は遺書であること

 連作において「瀬戸夏子」という空間は「抒情の墓石」「鳥の籠」「檻の降る丘」「遺書」「紙とペン」などとして提示されているが、石井僚一がラヴレターを贈るのはここにではない。ラヴレターの宛先は「瀬戸夏子の彼方に」である。「彼方」とは石井僚一から見れば「あなたの抒情」「不在の、あなたの森の、その日々の、」「霊魂」「ラヴ」である。

 さて、瀬戸夏子に限らず目の前にある短歌がただ単に目の前にあるとき、それはただ単に目の前に居合わせている者にとっては死んでいるも同然であるとただ単に目の前に居合わせていることができない者がただ単に目の前に居合わせている者に対して感じてしまうことがあることをわたしは完全に否定はしない。

 死=ただ単に存在していること、とするならば、それは確かにただ単にそこに存在している=死んでいるけれども、死=生成していないこと、とするならば、それは確かに生成していない=死んでいるからだ。そして、死んでいるも同然のそれをわたしが手前=(?)上=(?)左から読むとき、わたしはそれがそこに生成している時間を辿り直している、と言うこともできるだろう。

 しかしながら、単にわたしが手前からそれを辿り直すだけではそれを彼方に贈ることはできない。それを彼方に贈るためには辿り直したわたし自身も死ななければならない。そのとき、わたしは短歌=「ラヴレター」になるほかないのだ。

 「瀬戸夏子」となった時には死んでしまっている瀬戸夏子の手前を「瀬戸夏子の彼方」と名指すことによってこちら側から辿り直し、その辿り直しそれ自体を短歌=「ラヴレター」として提示する。「ラヴレターは瀬戸夏子の彼方に」は(その試みが成功しているかどうかはともかく)そんな一連だ。

 ……みたいな展開だとまだすっきりするのかもしれないが、話をさらにややこしく、いや、すっきりさせると、わたしは「瀬戸夏子」に手前は存在しないと思う。もう少し正確にいえばわたしの好きな「瀬戸夏子」とは(もし仮に瀬戸夏子の手前があるのだとすれば)手前がそのまま短歌という空間に表出しているというか、手前や彼方のような時間性を一切遮断しているというか、そういった生成の時間がまったくなく、つまり、膨大な時間の蓄積を濃縮したのではなく、はじめから存在し、そして、これからも存在する空間であり、それを時間という観点から表現するならば【「それをいうならブニュエルでしょ」という言葉が耳に残って離れない。】という瀬戸夏子の言葉とまったく同じ意味合いで瀬戸夏子の耳に残って離れない時間。それこそがわたしの好きな「瀬戸夏子」であり、そこには手前も彼方も存在していない。

2024年10月28日月曜日

歌評と10首選

 今月はめっきり短歌へのモチベーションが下がってしまった。自作を作るモチベーションはあるのだけど、他作を読むモチベーションがなかなか上がらない。理由はあるのだけど、あんまりはっきりとは言語化していない。かんたんに言えば自分が思う短歌の韻律なり質量なりに到達していないような歌が散見されることが短歌へのモチベーションを下げている。まあでもそんなことばかり言ってられないので今年Twitterで引用した歌を振り返ってみたい。

幾度も折り直されたあとのある鶴が休んでいる保育園/佐佐木定綱(「短歌」2024.10)

扇風機動かなくなるひと夏を牛肉のようにそばにいてほしい/竹中優子(「短歌」2024.10)

先月号の「短歌」の角川短歌受賞者競詠企画から。佐佐木の一首は、折り鶴を〈幾度も折り直されたあと〉と描写することで折り鶴に動きが生まれているのが面白い。保育園だからその跡が雑なことまで連想させるのも良い。竹中の一首は、扇風機が故障し、節約で冷房も入っていないだろう自室の空気と〈牛肉〉の鶏肉や豚肉と比した上でのレトロ感とが奇妙にマッチしているように感じた。どちらもぴったりの比喩かはわからないが、比喩なんて別にぴったりでなくても良いんです。

頭のなかで向かいの人の髪を切るそのほうが似合うと思うから/平岡直子(「現代短歌」2024.11)

「現代短歌」の作品連載から。歌の仕組みがわかるので素直に驚くことはないけれど、まあ及第点かな、と思うような一首。みたいな言い方はちょっと辛いですか。ただ、向かいの人の実際の髪型に対してもそこまで悪意はないというか、〈そのほうが似合うと思うから〉とは言ってるものの、「似合ってない」とまでは思ってないと思う。それぐらいの距離感から「頭のなかで向かいの人の髪を切る」絵を読者に想像させる、その距離感に平岡さんを感じる一首。

非常時のそういう救急搬送のようにつぎつぎオムライス来る/平岡直子(「歌壇」2024.10)

こっちは「歌壇」の巻頭作品。同じ巻頭作品に俵万智が寄稿していたこともあり、平岡さんの歌の中にある俵万智性=〈ようにつぎつぎオムライス来る〉に注目した。歌としてはこちらも仕組みがわかりやすい一首なんだけど、オムライスが〈つぎつぎ〉来るの〈つぎつぎ〉が作者の個性なのかな。オムライスがひとつだとあまりに象徴性が強すぎるけど、複数になることでその非常時性が緩和される感じとそのグロテスクさ(一人撃たれるのと複数人がつぎつぎ撃たれるのとでは喚起されるイメージが変わる)。

太陽のずっと下には信号と横断歩道の関係がある/永井祐(「歌壇」2024.10)

仕事が終わって僕はガーナを食べていて静岡県の「静」という字

連作で並んである二首で、二首目だけ見ると一見意味不明なんだけど、一首目の「信号」と「横断歩道」のお陰で「静」(しずか、と読んだ)の中の「青」「争」に気がついた。青と赤とが争うのが信号であり、その二字が入った「静」という字に注意が向かった歌が同じ連作にある。時期的に笹井賞の選考委員・大森静佳が関係しているのかとか思ったりした。引用歌を見る限り「ガーネット」がかなり良さげなので早く今月の短歌研究を手に入れて読みたい。

と、書いてきたのだけど、フィードがここまでしか出来なかったので、総合誌名(「現代短歌」「短歌研究」「歌壇」「短歌」)で検索して出てきた歌+「アンソロジスト」vol.4と椛沢さんの歌集から10首厳選してみた。良かったらあなたの最近のベストな10首も教えてください。

①迷惑系歌人となって【歌会に相田みつをの詩を出してみた】/三田三郎(『現代短歌』2024年9月号)

②あたらしい球技がしたい 二〇二八年までの代表入りを目指して/吉田恭大(『現代短歌』2023.11)

③夜の領土を逃れゆくときひまわりを暗渠へ捨てるなら頭から/服部真里子(『短歌研究』2024.7)

④姉として見ておりとおい石段の隅にちぎれた尾の痙攣を/大森静佳(『短歌研究』2023.1)

⑤腰を下ろして中身を出してなんだっけ、ああそうだ、流すんだ全てを/pha(『短歌研究』2024.5+6)

⑥伸びる過去と積もる過去とがあるでしょういずれも魔法ではないでしょう/佐伯紺(『短歌研究』2024.1)

⑦雪がみぞれにみぞれが光に変わってく 愛が 愛が 愛がうるさいよ/初谷むい「アンソロジスト vol.4」

⑧手芸店に紫の石を持ったまま見えなくなっていたの夕暮れ/山崎聡子「アンソロジスト vol.4」

⑨シャワーを浴びるときの角度のままずっと過ごす秋には掃除をしない/平岡直子(『短歌研究』2023.1)

⑩汗を引きずる声を引きずる むしめがね あればと百均で買っていた/椛沢知世『あおむけの踊り場であおむけ』

2024年10月23日水曜日

村上航作品評「岡山のベニイロフラミンゴ」

以下の文章は今年5月の東京文フリで初売りされた「super Gyakubaraaa‘s」に寄稿したGyakubaraaa‘sの同人である村上航くんの作品評であり歌人評です。冊子は通販で購入することが出来ますので、ぜひとも!

https://watarudeer.booth.pm/items/5711852


人間にできないことはないんだとみかん畑に大の字で寝る/村上航

村上くんから「歌会でご一緒させていただいたときに、いつもキレキレの評をされている」という言葉を頂いて、今回わたしは連作評の依頼を受けたのだけれど、正直に話すと、わたしは連作評や歌集評の類いが得意ではない。依頼の言葉にすでに答えが出ているように、わたしが「キレキレ」なのは、無記名互選歌会での歌評と選である。

わたしは普段、他人の連作や歌集を、一首一首、この歌は選に値するかどうか、という観点で読んでいる。いや、読んでしまっている。それは、良い歌とは何かを学んだのが、瀬戸夏子によって一時期ツイッターで運営されていた「短歌bot」であったことが大きい。そして、そうして選んだいくつかの歌になんらかの構造が見出だされる場合は、それを連作評や歌集評のような体裁でツイートする。なんらかの構造はある場合もあればない場合もある。構造はあれば必ず良いということでもない。そして、これが一番大切なことだが、連作評や歌集評を書くために選をすることはない。すべては選に値する歌があってからの話だ。

そうした観点から、送ってもらった村上くんの四つの連作を読んでみて、選に値すると判断した歌は一首だった。一首だったのだが、どうか落ち込まないでほしい。以前、ある歌人と、別のある歌人の新作三十首の話題になったさい、自分の感想として、選に値すると判断した歌は三首だった、と話したら「(三十首で)三首あったら充分(良い連作)だよね」という返事があった。これにわたしも同意する。百首連作を読んで、まるまる一冊歌集を読んで、選に値すると判断する歌が一首もないと思うことは決して珍しいことではない。

村上くんは岡山に住んでいて、わたしは大阪に住んでいる。岡山と大阪は、大阪と東京よりはるかに行き来しやすいが、わたしは岡山に行ったことがない。けれども、岡山に住んでいる歌人とは、大阪や京都なんかで会う機会というのが案外とあって(向こうが来てくれてるだけなんだけど)村上くんと同じ岡山大学短歌会出身のOP(「京大短歌」29号目次参照)だけでもKさんやMさんやNさん、最近だとIくんとも顔を合わせたことがある。

岡山といえば「みかん畑」の「オレンジ」のイメージがあるのだが、なぜだろう。マスカットは黄緑、ピオーネは紫なのに。村上くんは漫画「ヒカルの碁」に出てくるくせ者キャラ・越智康介に似た髪色をかつてしていたが、その越智くんの髪色もオレンジだった。村上くんと数年前の冬に行った天王寺動物園のベニイロフラミンゴの発色も広く括れば同系統で、そうしたものの影響もあるだろうか。いずれにせよ村上くんの歌のイメージはオレンジ寄りの赤系統の陽だ。

「みかん畑」の歌ともう一首、選ぼうか迷った歌に〈ことごとくホットドッグの仕組みって簡単すぎる 朝方のひとり〉という歌がある。一首のニュアンス的に初句で言いたかったことは「つくづくと」なのではないか、という歌会的発想が出てきてしまったため、選からは漏れたのだけど、〈ホットドッグの仕組みって簡単〉と書ける度量は買いたい。

村上くんのセンスは案外と掴み所が難しい。言葉を選ばずにいえばダサいと感じることも多々ある。にもかかわらず、次の瞬間には平気でオシャレだったりする。往々にしてひとりの人間というのは、一貫してダサかったり一貫してオシャレだったりするものなのに。

一貫してオシャレであることがダサいとされることもあるし、そもそもダサいという価値判断自体が一定の尺度からのオシャレではない、という判断であることもあるため、ダサいとオシャレとは表裏一体の関係にある。村上くんのおもしろさはそうした感性の一貫性自体に揺らぎがあることだ。

数年前、わたしは「指サック太郎」という動画をYouTubeにアップした。羊文学「あたらしいわたし」を鼻歌でBGMとして歌いながら指サックを使った人形劇を繰り広げる怪動画だったのだが、その動画に唯一反応してくれたのが村上くんだった。自分自身(男)の自室での自撮りや、ハマっている異性アイドルの写真投稿といったややもするとダサいと判断されるツイッター上での挙動にいち早く肯定的な反応を示してくれたのも村上くんだった。

「みかん畑」の一首には「人間にできないことはない」「畑に大の字で寝る」など一般的な社会ルールからの逸脱、という文脈があり、そこに「逆張り」を見出だすこともできるだろう。ただ、それでは片手落ちのような気がする。「畑に大の字で寝る」ことも防犯カメラからのアングルで見ればちっぽけなものだ。そこで、大の字で寝ている人間の目を借りてみる。すると、どうだろう。世界のスケールが一転する。その一転する感触こそが「人間にできないことはない」という放言の強度であり、村上くんという歌人の陽性の一端なのだと思う。

2024年4月25日木曜日

ポストニューウェーブと瀬戸夏子、瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.』歌集評

2023年8月執筆

a ポストニューウェーブと瀬戸夏子

瀬戸夏子がポストニューウェーブの話をしている最初期の記憶は、わせたんでのロングインタビュー(『早稲田短歌』45号)で、永井、斉藤、宇都宮という語呂の良さが妙に記憶に残っている。永井、斉藤、宇都宮とは言うまでもなく永井祐、斉藤斎藤、宇都宮敦のことだ。最近出た長谷川麟『延長戦』の栞文で瀬戸が「ポストニューウェーブの課題のひとつ(最後のプログラム)に歌集があった」というようなことを書いていて、初読ではあまりピンとこなかったのだが、『日本の中でたのしく暮らす』(永井祐)と『ピクニック』(宇都宮敦)は歌集刊行のタイミングが遅く、反対に『渡辺のわたし』(斉藤斎藤)はタイミングが早く、というニュアンスではないか、と推測する。

歌集『渡辺のわたし』については、瀬戸が『はつなつみずうみ分光器』で、第二歌集『人の道、死ぬと町』をポストニューウェーブのひとつの到達点(「ポストニューウェーブ短歌折り返しのリミット」)として挙げていることと、永井祐が「現代短歌」の平成の歌集特集(2019年6月号)で書いていた「斉藤斎藤ははじめの歌集を出すのがかなり早かった人だと思う」という記述が参考になる。同じ文章で永井が『人の道、死ぬと町』の前半におさめられた歌群を評価しているのも大変興味深い。

(『延長戦』の栞文を読み返していたのだが、瀬戸さんの文章を読み違えていたようだ。「ポストニューウェーブ影響下の歌人たちには本当は「歌集」という課題があったとわたしには思えた。」と書いてあるのに「ポストニューウェーブの歌人たち」の「歌集」の話をしてしまっていた。2024年5月16日追記)

『はつなつみずうみ分光器』で、瀬戸が設定したもうひとつの到達点が大森静佳の『カミーユ』(「二〇一〇年代の短歌における達成の極のひとつを斉藤斎藤『人の道、死ぬと町』に見るならば、もうひとつの極は間違いなく大森静佳の『カミーユ』である。」)なのだが、同じく瀬戸がポストニューウェーブについて字数を重ねた「ねむらない樹」最新号(vol.10)の笹井宏之論で、笹井宏之のわたしとあなたの純度を磨きあげていく作風の先端に大森静佳の名を挙げているのは個人的にはやや意外な感があった。が、我妻俊樹『カメラは光ることをやめて触った』栞文でのポストニューウェーブのポエジー派、雪舟えま、笹井宏之、我妻俊樹の三幅対を補助線にすれば見通しがすっきりする。

いわゆるポストニューウェーブの三人、永井、斉藤、宇都宮はいわゆる口語短歌においてそれぞれの方法で純化を達成したと言えるが、『はつなつみずうみ分光器』において、このラインの延長線は引かれていない。瀬戸がこのラインの延長線を意図的に引いていないのは、瀬戸の選歌眼や選歌集を見れば明らかだが、ここでわたしなりに延長線を引いて見るなら、『予言』、『光と私語』、『ビギナーズラック』となるだろう(そこからさらに『了解』や『感電しかけた話』にまで話を広げるのは、山田航の仕事だ)。

ここまでの流れから、瀬戸はポストニューウェーブのさらにポエジー派、具体的には、雪舟えま、笹井宏之、我妻俊樹の系譜に連なる意志があることが見て取れるが、こうした視点に瀬戸夏子を含めた文章が既にあって、「ねむらない樹」vol.9 特集「詩歌のモダニズム」上の佐藤弓生の文章がそれにあたる。佐藤は現代のモダニズムの系譜として、井上法子、望月裕二郎、平岡直子の歌とともに瀬戸夏子の歌を引用している。引用歌集はそれぞれ『永遠でないほうの火』『あそこ』『みじかい髪も長い髪も炎』『そのなかに心臓をつくって住みなさい』。

b 瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.』歌集評

わたしを信じていて ゆめをみて 絶望を斡旋するのがわたしのよろこび

暗唱できるようになった短歌一首が歌集という一冊の物質上で改変されてしまっていたときの衝撃がいまも残っている。いまにして思えばそれは推敲でしかなかったのだが、当時のわたしはそれを推敲と受け取ることができず(暴力だと思った)あれだけ楽しみにしていた歌集の購入を一旦保留にした。

泉から抜けていく水……極太のサインペンとビニール袋なら(『かわいい海とかわいくない海 end.』)

泉から抜けてった水 極太のサインペンとビニール袋な(短歌同人誌「率」三号)

第二歌集以降、瀬戸の歌にあった暴力性は影を潜め、瀬戸の歌は軽くなり、柔らかくなった。〈ひとさしゆびはひとをさしてた零度のような玩具もあるし〉〈おりがみのあしのときめき不意に主役は刺されるものさ〉(「20170507」『現実のクリストファー・ロビン』)。スポーツにしてもそうだが、柔らかくなるとは、習熟するということと同義だ。この習熟曲線はなにも瀬戸に限った話ではない。永井祐や山下翔の第一歌集から第二歌集への推移についても同様である(句跨りからなめらかな句の接続へ)。

「選」(暴力)と「読み」(習熟)というふたつの歌に対する態度があるが、これらは似て非なるものだ。いま同世代の短歌の世界は完全に「読み」が優位になっている。短歌同人誌「波長」二号に掲載された鈴木ちはねの前号評「読むことと詠むことの合わせ鏡について」を読んでわたしは深く感動するとともに同じくらいの危機感を抱いた。

わたしに歌会(習熟)の読みの面白さを教えてくれたのは阿波野巧也だったが、選(暴力)の凄さを教えてくれたのは瀬戸夏子だ。Twitterに一時期存在した短歌bot、とりわけピンクベースのアイコンの短歌botはいまもわたしが歌を選ぶ際の最終的な拠り所になっている。短歌botから具体的に印象に残っている歌人名を挙げるなら、渡辺松男、大橋弘、望月裕二郎、おさやことり……〈遮断機があがりきるまで動かないぼくは断然菜の花だから/大橋弘〉……キーワードは「変態」だ。柔らかくなるとは、〈変態〉することと同義だろうか?

再演よあなたにこの世は遠いから間違えて生まれた男の子に祝福を

かなわない頬っぺたのように夜の空 クリスマスと浮気は何度もしよう

代名詞しかないままにあるがまま倒錯が行き来しているふたつの朝を

歌集一冊を通読して感じるのは瀬戸の短歌の人力定型性。定型から零れ落ちそうになるぎりぎりのラインでもう一度息を吹き返すそれは同じ非定型でも〈花冷え どんな他人のことも湖のように全部わかる瞬間がある/平岡直子〉(「外出」創刊号)とは明らかに一首の生成過程を異にする。

皆殺しのサーカスその行数でそのあとすぐにそれとも頑張っちゃう?

骨組みだけになっても自由に踊りつづけようミルクと売国奴と

c

2023年のいま『かわいい海とかわいくない海 end.』を位置付けるとするならどうなるだろうか。歴史の綾だが、「二〇〇〇年から二〇二〇年に刊行された、第一歌集から第三歌集までを対象」とした『はつなつみずうみ分光器』では2021年5月刊行の平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』は対象外になった。しかしながら、同時代性(は、「町」「率」でのふたりの歩みや「SH」発行も含めた現代川柳への接近を持ち出せば充分だろう)を鑑みると、『みじかい髪も長い髪も炎』とのペアリングは絶対に外せない。また、川柳ではなく俳句への接近という対照性を視野に入れれば堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』も外せない(ふたりはわせたんの同世代である)。『かわいい海とかわいくない海 end.』、『みじかい髪も長い髪も炎』、『やがて秋茄子へと到る』の三幅対。わたし(たち)が愛してやまないわせたん黄金期。

灯台が転がっているそこここにおやすみアジアの男の子たち/平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』

振り下ろすべき暴力を曇天の折れ曲がる水の速さに習う/堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』

我妻俊樹『カメラは光ることをやめて触った』歌集評

2023年8月執筆

「歌会は評のライブではあっても歌のライブではないこと、おそらく評よりはるかに長い時間かけて歌がつくられていることについて、逆では? というのはある。即詠された歌でさえ、場合によっては何十時間もかけて読まれるべきでは? とか。」@koetokizu 2018年3月3日

我妻の歌をまったく知らない相手に我妻の歌の特徴を伝える必要があるとすれば、我妻自身のTwitterでのこの言葉を引用するのが最も適切だろう。

歌集『カメラは光ることをやめて触った』の増補部分、要するに誌上歌集「足の踏み場、象の墓場」(短歌同人誌「率」十号)以降の歌群を読んだときにわたしが感じたのは、我妻俊樹すら短歌シーンとは無縁ではない、ということだ。実際、第一部「カメラは光ることをやめて触った」に収められた歌群の大半は、Twitterアカウント上で月詠として公開されたり、Twitterでの宣伝を利用してネットプリントで発表されたりしたものだし、版元である書肆侃侃房刊行のムック「たべるのがおそい」や「ねむらない樹」に寄稿した作品も収録されているため、短歌シーンに無縁どころか、がっつりシーンの先端にいる印象すら与える。しかしながら、瀬戸夏子の栞文にあるようにわたしたちは、いや、わたしは「我妻の歌を排除」してきたように思う。

我妻俊樹をシーンの先端とすると、我妻の歌は具体的にどう変わったか。非常に抽象的な言い方になるが、以前(「足の踏み場、象の墓場」)にはあった「足の踏み場」や「象の墓場」的な面積が、限定され見切れた状態でしか捉えることができなくなった。〈砂糖匙くわえて見てるみずうみを埋め立てるほど大きな墓を〉から〈目の中の西東京はあかるくて駐輪コーナーに吹きだまる紙へ〉へ。〈目の中の〉の〈目の中〉は片目の中と読むが、注目したいのは、〈あかるくて〉という修飾。同じようにあかるさを詠み込んだ歌として「足の踏み場、象の墓場」以降の代表作の一首に〈コーヒーが暗さをバナナがあかるさを代表するいつかの食卓で〉があるが、この〈あかるさ〉は間違ってもわたしたちが我妻に与えたあかるさではない。我妻自身がみずから設定せざるを得なかった光度だ。

「カメラは光ることをやめて触った」パートでわたしが特に惹かれたのも〈好きな〉という一見排除とは相容れない歩み寄りのように思える語彙を使っている歌だ。

好きな色は一番安いスポンジの中から一瞬で見つけたい

好きな電車に飛び乗って黙っていたい大きすぎない鯛焼きを手に

安いスポンジ特有のチープな発色から好きな色を反射的に見つける、大きすぎない鯛焼きを手に電車に飛び乗った上で黙っていたいというささやかだけれどキッチュで贅沢な欲望。そうした欲望は、「足の踏み場、象の墓場」で文字通り繰り返し歌われた〈バッタ〉であることが〈うれしくて〉という一首の発情と同一線上にある。

ぼくのほうが背が低いのがうれしくてバッタをとばせてゆく河川敷

とびはねる表紙のバッタうれしくてくるいそうだよあの子とあの子


勇気なのだ 間違い電話に歯切れよく「五分で着きます!」きみはこたえた

我妻のキャリアから一首選ぶならこの歌をわたしは選ぶ。この歌は一見人間同士のコミュニケーションの本質を語っているように見えるが、「勇気なのだ」の語り手は間違い電話の受け手でも掛け手でもない。「勇気なのだ」という声に偶然ぶつかったようにも自分からぶつかりにいっているようにも思える「五分で着きます!」。勇気なのだ。二物衝撃の衝撃に内側から触れた一首。短歌のライブがここにある。

2023年9月12日火曜日

『浅い夢』覚書

横書き100首。復職してから現在までに7首~15首単位で画像ファイル一枚にしてTwitterとInstagramに投稿していた短歌から100首選んだ。投稿時はscrapboxでメモしていた短歌を文庫本メーカーで縦書きに変えて完成としていた。

1首編集の過程で重複が出たが、暮田真名『ふりょの星』の例もあるし、と思ってそのまま採用(なんとでも言える口だけはある)。NewJeansをNew Jeansと本文で誤記していたので、同封のK-POPフリペで訂正したが、STAYCをSTYACと誤記している箇所が見つかった。英語だと編集の目が一気に落ちる。

瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.』に横書き中央揃えの、伊舎堂仁『感電しかけた話』にnoteタイプの横書きレイアウトを、青松輝『4』に本人のツイート画像のような横書きデザインを夢見たのだが、いずれも「本」ないし「商業」によって現実化しなかったので自分で作ってみたのが『浅い夢』

なんとでも言える口で文フリ前日につぶやいたが、良い線はついている。縦書き二行歌集は、わたしが短歌をはじめてからでも『翅ある人の音楽』『静電気』『meal』『人魚』『景徳鎮』などがあるが、横書き歌集は一冊も見ていない。

「横書き」だけが前面に出るのではなく、横書き短歌が違和感なく存在するレイアウトは可能だろうか。縦書き二行形式の、縦書き一行が一般的な短歌レイアウトへのちょっとしたずらしのような効果(先にあげた歌集が旧仮名、文語のいずれかもしくは両方を採用しているのは決して偶然ではない。このことは横書き歌集の夢を見た三冊の文体とも関連する話)まで横書きに望めるかというと微妙で、そもそも二行形式との関連で言えばスマートフォンなどのメモアプリやTwitterへの投稿時はほとんどすべての短歌が横書き二行にまたがっているはずなので、それを横書き一行にするのも縦書き一行にするのも大差ない、という考え方もできる。

良い読者ではないが、現代詩、とりわけ余白の少ない散文詩のレイアウトに可能性を感じることがある。これは、わたしが可能性を感じている新聞のレイアウトに一番近い印字形式だから、ではないか。どんなレイアウトやフォントでも同じように短歌が読める人もいるだろうが、わたしは無理で、コピー本をときどき作ってしまうのもコピー本だと「SimSun」というお気に入りのフォントが使えるから(印刷会社では対応してなくて、「オフタイマーをもうすぐ切れる」の時は慣れないフォントを使った)。と言いつつ、「SimSun」は縦書き短歌のほうが映えるんですが。

2023年3月4日土曜日

動的な鏡ーー橋場悦子『静電気』について

 橋場悦子『静電気』より20首選

相手からもわたしが見えるのを忘れひとを見つめてしまふときあり

閉めきつた部屋にも深く入(はひ)り込む切り取り線のやうな虫の音

好きな色「透明」と言ひしひとのこと思ひ出したり夕立の中

空つぽの弁当箱を持ち帰るやうだ心臓ことこと揺れて

いくつものルートがあるが乗り換へはいづれも二回必要である

白も黒もますます似合はなくなりて出勤時刻迫りくる朝

迷つても平気地球は丸いから 空の青さの沁みる十月

最後尾の札は立てかけられてゐて誰も並んでゐない店先

奥さんと呼ばるることの少なくて毎朝鍵を外から掛ける

この鍵で開くからわたしの部屋なんだ真つ暗闇に明かりをつける

信号のない交差点つつ切つてもつと遠くへもつとひとりに

ああこれは夢だと気づく夢の中片つ端から蓋開けてゐる

えんえんと西瓜割りしてゐる心地ひとり収まる深夜タクシー

日が暮れる前にどこまで歩けるかときどき桜の咲く帰り道

花冷えが一番寒い化粧したままいつまでも座り込む部屋

街路樹はなべて炎のかたちして空に届かず東京の夏

写真とは常に昔を写すもの鏡ほどにはおそろしくない

彩りにパプリカなども添へて出す これを独占欲といふのか

ぬひぐるみみたいだなんて本物のパンダ見ながら言つては駄目だ

夕暮れのとき長くして次々に知らないひととばかり行き交ふ


古着屋や美容室の鏡で見ている自分はワンルームでハンドミラーを見ている自分より遥かに魅力的だ。マンションのエレベーターや実家の全身鏡で見る自分はその中間ぐらい。鏡ってだいたいは矩形でその形から静的な存在だと思い込んでいたが、決してそうではなく、動的な存在なんだと『静電気』を読んで思った。〈夕暮れのとき長くして次々に知らないひととばかり行き交ふ〉という一首がただの都会のワンシーンには見えないように見えるのが不思議で、それは〈長くして〉に拠るものだろうか。あるいは(いや、同じことか)〈知らないひと〉ひとりひとりにきっちり出会っているからだろうか(その時間が〈長くして〉に拠って確保されているということ)。時間や空間が間延びしているのは〈ときどき桜の咲く帰り道〉を歩いていることからもよくわかるというか、このフレーズだけで満開の桜の季節までもを内包していて、その感覚が〈迷つても平気地球は丸いから〉という断言を可能にする。〈えんえんと西瓜割りしてゐる心地ひとり収まる深夜タクシー〉。おそらく後部座席の運転手と対角の位置に長さのせいで少し緩んだシートベルトをつけて座っているのだと思う(ほろ酔いの酩酊感なら真後ろに座るだろうが、だとするとドライバーの頭は西瓜にならない)のだけどこの一首に〈奥さんと呼ばるることの少なくて毎朝鍵を外から掛ける〉に通底するものを読むことも出来るだろう。余談だが、一首二段組の歌集に、長さに拠って一行になった歌が入り込んでいる歌集をはじめて見て、この点も『静電気』の世界線だな、と思った。

2023年2月12日日曜日

短歌定型の現在ーー山崎聡子の「つつ」「まま」「よ」について

コロナ禍の前のことになるけれど、短歌の「接続と因果」にこだわっていた時期があった。主に否定的な文脈で「つつ」や「まま」や「とき」といった語を作者が恣意的に用いてることを大阪や京都の歌会で執拗に指摘していた。それはいわゆる「つぶやき+実景」の+の崩壊、短歌定型という一点のみで成り立っていた接着剤が表面化してしまうことへの気持ち悪さだった、ろうか。

先日発売されたばかりの「あこがれ」をテーマにした短歌アンソロジー(「アンソロジスト vol.4」)を読んでいてびっくりしたのは、平岡直子と山崎聡子の文体の近さだ。ふたりの文体は、もはやつぶやきと実景のような二項が一首のなかで対立せずに抱えられていく。なかでも山崎聡子の文体はひとつの完成形と言えるだろう(これに対して〈女の子を裏返したら草原で草原がつながっていたらいいのに〉と歌った平岡の近作(「録画」「黒百合」)の文体は山崎的な文体をさらに極限へ押し進めたかたちだが、現在のわたしには評価は不能である)。

お砂糖がちょっと焦げたらカラメルで、夜で、絶望的で、弱火で、

ビル街にゆっくりと夕暮れがきて大量のフラミンゴの気配だ

/平岡直子「録画」「短歌研究」2023年1月号

つきあかりのしたの警察署のようにとてもしずかな身体だったわ

音漏れのようにじぐざぐ歩いてた 夜の港を、誰かが、誰かが、

/平岡直子「黒百合」「アンソロジスト vol.4」


手芸店に紫の石を持ったまま見えなくなっていたの夕暮れ

/山崎聡子「宝石」「アンソロジスト vol.4」

公園のトイレにくらぐら産まれつつ記憶のなかに蝉声はある

/山崎聡子「Birth」「短歌研究」2022年11月号

ここまでくるともはや「まま」や「つつ」の恣意性を指摘したいとは思わない。見事な歌だと思う。手芸店の一首は、子ども時代の回想を短歌一首に仕立て上げたとも読めるが、一方で、回想をいったん経由した上で短歌的な「現在」にも手が届いている。公園の一首は、わたしが産まれた「現在」(!)を記憶のなかの蝉声を媒介とすることで浮かび上がらせる。あの、蝉声の、もう鳴り止まないんじゃないか、という時間感覚が「つつ」そのものでもある。「蝉声はある」の「は」がとんでもなく凄く、この「は」によって記憶とわたしとの地位が反転しつつ接続する。


琥珀のなか火は燻って裸のまま生まれて死ぬという甘言よ

/山崎聡子「宝石」

トンネルに入って薄くなった影を垂らして八月のおわりの帰路よ

/山崎聡子「Birth」

余談として、山崎-平岡的な回想を経由した上で短歌定型という現在に回帰する文体が採用する間投詞が「よ」であることに長らく興味がある。この選択について、実作レベルでの必然性はほとんどつかめた(みたいです)のだけど、「まま」や「つつ」や「とき」を束ねるときに用いられる間投詞が「よ」であることに疑問を持つ読者や評者もいるだろう。これに対してはそれなりの時間を掛けて作ってみるとわかってくる、としかいまは言えないが、とにかくこの文体だと一首の判子(直近の現代短歌社賞選考会を参照)が「よ」になる。

さらなる余談として、山崎の第二歌集『青い舌』は「動詞と名詞を行き来するような歌集」だと以前わたしはつぶやいていたようだが、いま読むとかなり難しいことを書いている。重要なのは、「動詞」と「名詞」の「動」と「名」で、短歌一首は往々にして「A(接続詞)B」構文を取るのだけど、山崎-平岡文体はこの構文の安定状態が崩れている、ということだろうか。こちらも手掛かりになれば。

風がたき火に混じるその日を冬と呼び風に十字を切って遊んだ

水たまりを渡してきみと手をつなぐ死が怖いっていつかは泣くの

遮断機の向こうに立って生きてない人の顔して笑ってみせて

/山崎聡子『青い舌』


参考音源

The 1975 「I'm In love With You」

宇多田ヒカル 「BLUE」

NewJeans 「ditto」

Se So Neon 「NAN CHUN」

adieu 「旅立ち」

IVE 「LOVE DIVE」

ずっと真夜中でいいのに。 「消えてしまいそうです」

Clairo 「Sling」アルバム

Remi Wolf「Juno」アルバム

2023年1月9日月曜日

「角川短歌」1月号から10首選すれば抱負が自ずから出た

「新春一三三歌人大競詠」を拾い読みした感想をつらつらと。角川の新年大競詠を読んで毎年のように思うのは作り手としての自分とはまったく無縁の文体の歌人がほとんどを占めるということで、柔道なんかの「階級が違う」に感覚としては近い。わたしは「見かけは平易な口語文体」で「ねじれやメタが高度」(瀬戸夏子)な歌風(わからない、という方は勉強してください)なのだが、角川的な文体までくるとシンプルに歌を読む楽しみがある。7首というのは、基本的に、見切りがつけられない=次作へ期待が持ち越されれば、成功だと思う(流石に5回続けてつまらない作品を読んだ作者は追わなくなるので)。


目を上げて川をみるなりわが電車利根川鉄橋にさしかかりたれば/小池光

と言いつつ、10首連作枠から。「わが」で「わたしが乗っている」を担わせているのがうまい。加えて、「わが電車」と限定されることで無防備な(場所の限定がなかった)川を見る目が一気に座席へ収束する。縦二座席ではなく横に長いタイプのがらがらの電車の真ん中あたりに座っているような気がするのは両眼を使って見ているように感じるから。


ファン・ゴッホくるへるごとくまつきつき菜の花ばたけは菜の花を着て/渡辺松男

去年の終わりぐらいから渡辺松男こそライバルに相応しいという気持ちがむくむくと湧き上がっている。渡辺の歌を読むたびにどうしてここまで好感度が高いのかと首を傾げたくなるほどの嫌悪感を抱く。これでは鮭の産卵じゃんと思うが、みんないくらは好きなんだった。〈ひとが手を振れるに光る腋の下たいさんぼくの咲きたるごとし〉なんて実質松男型の〈ノースリーブの腕のひかりの苦しくて好きになつたらあかんと思ひき/大辻隆弘『景徳鎮』〉じゃんと思うが、実質をいかに魅せるかが個性なんですかねえ。


重なり合う星座はあらず親になることなく見上げる冬の夜空に/鍋島恵子

ぽつぽつと見かけるたびにこの作者の歌の立ち姿が良いなと思ってしまう。なぜだろう。


返ってきたメールとすごす冬の午後 いろんな色にライターがある/永井祐

〈メールしてメールしている君のこと夕方のなかに置きたいと思う〉然り、永井さんはメールを味わうのが相当お好き。LINEなんかも既読を付けずに受信したメッセージをしばらく馴染ませるようなタイプなのかな。もう少し踏み込むと山階基作品の優しさとの違いを考えるとおもしろいと思う。〈自転車のサドルをかなり上げたまま返したことを伝えそびれる/山階基「忘れながら数えながら」『短歌研究』2023年1月号〉


詞書:福岡では時々空飛ぶ桃を見ることがある どこもこんなものだろうか

空飛ぶ桃を眺める朝よ 染野さんの島田修三のうた何度も唱える/竹中優子

わたしも一年休職していたこともあり〈今休めば太宰治賞に間に合うと思わなかったと言えば嘘になる〉も含めて細かいニュアンスまであうあうとなる。〈チキンラーメン慌てて食べてひとしきり『あの日の海』と『人魚』を読んだ〉という一首をわたしは作った。


美しく重たくひどい着心地のコートに消えてしまいたいのよ/平岡直子

〈からっぽの頭で乗っている電車シュークリームの空気は甘い〉と迷ったが、この永井祐感を先に読んでからの一首を選ぶ。〈美しく重たく〉〈ひどい着心地の〉〈コートに消えてしまいたいのよ〉と三段階のギアチェンジがあるが、一首の読み下しとは反対に初二句の〈美しく重たく〉の脚韻(で合ってます?)が現在の心情として重たくのしかかってくる。


毛布からはみだす肩が冷たいと自律神経に雪が積もると/小島なお

「短歌テトラスロン」の30首もそうだったが、得体のしれない、スケールの異様に大きな相手を扱いそこね続けている。こういうときにわたしは「歌集で読みたい」と思うようだ。〈読むように抱き、それからはありふれた手順であかい月をみあげた〉〈浴室の磨りガラスにまで貼りついた私の声を剥がしておいて/小島なお「魚は馬鹿」『短歌研究』2023年1月号〉


風の誕生日それからわたくしの頭皮くるしむごとく波打つ/大森静佳

『シンジケート』にこんな歌なかったっけ、と思ったが、〈風の交差点すれ違うとき心臓に全治二秒の手傷を負えり/穂村弘『ドライ ドライ アイス』〉だった。『ヘクタール』の出版それから、みたいな歌でしょうか。


もう二度と起きないけれど僕たちは微粒子レベルでまた手をつなぐ/藪内亮輔

藪内さんの歌は着眼点は微粒子レベルなのに歌の骨格が太いという矛盾がずっとあり、もはやそれしかないが、それを作家性と呼ぶのだろうか。


私ばかりが愛情に飢ゑてゐて恥づかしい銀杏並木のコインランドリー/睦月都

研究も含めた競詠企画で読むと毎回フレッシュさを覚え、先の小島さんとは違った意味で「歌集で読みたい」と思う作者。わたしの中で歌集とはとにかく飽きずに最後までページを捲りたい本でしかない(ので、理想の歌集とはすべての歌をはじめて読むように読める歌集、になる。平岡直子の「まだ読み終わらない」という『シンジケート』評を思い出されたい)。スケールの大きさとフレッシュさ。いい歌集作るぞ。

2022年11月13日日曜日

永井祐一首評①②

来年は3回告(こく)ると君は言うコーデュロイのきれいなシャツを着て

/永井祐『広い世界と2や8や7』

わたしはこの歌に色気を感じるけれど、何に由来した色気なのだろう? 告(こく)る、とは、意中の人間に向かって自分の好意を伝えること。それを来年は3回やるらしい。同じ人に? まったく別の人に? というのは、おそらくどちらでも良くて、とにかく来年は3回告るぞ、という宣言、その清々しさ。の、空気は同じ連作の〈来年の抱負を0時のカラオケで言い合うクリスマスイブがいい〉の一首でだいたい補完出来てしまうのだけど、それだとただの良い空気感の歌になってしまう。おそらく、告られる相手がわたしたちの完全に外側にいて、もしかしたらこの発言を聞いている周りの人間ですら、いや、言っている当人ですら君(自分)が誰に告るのかわかっていないのだろう。クリスマスイブにコーデュロイのシャツなのも、いくらコーデュロイのシャツの厚さをもってしたとしても薄着に違いないが、高級なジャケットやマッチョなジャケットを羽織っているよりも身の丈に合っているというか、パリッとした生地感とすっぽりと出た(顔というより)頭の清々しさを際立たせている。わたしは以前から永井祐と瑛人の近接性を感じているけれど、一首に感じた色気とはそうした類いの香りのことだったのかもしれない。

✤✤✤✤✤ ✤✤✤✤✤✤✤

あらためてまじまじとながめてみれば人は誰でもドMにみえる

/永井祐『広い世界と2や8や7』

言うまでもなく〈人は誰でもドMにみえる〉のは〈あらためてまじまじとながめてみ〉ているからである。リワークセンターという復職の学校的な場所に通っていたときに認知行動療法という考え方を知った。かんたんに言うと、出来事そのもの(一次)ではなく出来事の受け止め方(二次)を見直すことで(不調のときには分かちがたく結びついている)出来事そのものと出来事の受け止め方とを分離し、そのあいだに柔軟な思考回路を構築する考え方のことで、この関係性は千葉雅也『動きすぎていけない』第8章で整理されているドゥルーズ『マゾッホとサド』のサディズム(イロニー)とマゾヒズム(ユーモア)に対応している。永井祐はアイロニーの人かユーモアの人かと言われたら、ユーモアの人(そもそも短歌定型の枠組みで歌を作っていることが既にM的なん)だけど、出来事そのものにアタックしないというのは、見ようによれば、本質を突き詰めない、根本に向きわない態度としてヌルい、と感じる大学生がいるかもしれない。他ならぬわたし自身三十一歳になった現在でも、そう思うことがないことはないが、一方で、広い世界とは、あらためてまじまじとながめた先にあるものなのだろう。

2022年11月7日月曜日

ラッピングーー平岡直子について

2010年代後半にわたしは自分宛にふたつの短歌を受け取った。ひとつは〈再演よあなたにこの世は遠いから間違えて生まれた男の子に祝福を/瀬戸夏子〉。ひとつは〈灯台が転がっているそこここにおやすみアジアの男の子たち/平岡直子〉。

リアルタイムでわたしに強烈なメッセージとして訴えてきたのは瀬戸の〈間違えて生まれた男の子に祝福を〉だったが、この男の子が祝福されるのは(あなた=男の子と読むなら)あくまで〈あなたにこの世は遠いから〉であり、わたしがわたしとしてここに在るからではない。そのズレは当時のわたしにはむしろ救いであったが、2022年の現在はその限りでない。

平岡の一首はどうだろう。そもそもそうした枠組みでいままで自分のことを考えたことがなかったが、立派な日本男児であるわたしも他ならぬ〈アジアの男の子たち〉のひとりなのだ。ハロー・アイ・アム・アジアン・ボーイ。アジアはアジアでも東南アジア上空を飛行中のような気分になるのは、〈灯台〉という語彙(〈そこここに転がっている〉!)がラッタウット・ラープチャルーンサップ『観光』の記憶と重なり合うからだが、加えて、〈アジアの〉と限定されたことでかえって自由にアジア各地を転々と移動することができる。今日は韓国、明日はフィリピン。来年は神戸にも行きたい。

そんなアジアの男の子であるわたしの内部でいま猛烈な勢いで軋んでいるのが〈君に会いたい君に会いたい 雪の道 聖書はいくらぐらいだろうか/永井祐〉。君に会いたい君に会いたい、という軋みは〈秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは/堂園昌彦〉の普遍/不変的問いを悠々と超えていく。


平岡直子20首選

『みじかい髪も長い髪も炎』(2021.4)

腹ばいで読むとき歌はくるくると全方角に散っていく花

食べかけのベーグルパンと少年と置き去りの壊れた自転車

まつ毛というまつ毛が電波狂わせて終夜よい子でいるキャンペーン

じゃあずっとここに立ってる廃線の線路がポケットに流れこむ

灯台が転がっているそこここにおやすみアジアの男の子たち

なんとなくピンとこなくて sympathy って言い直す 言い直す風のなか

東西も南北もない地図のうえ線路はこの世の刃として伸びよ

記憶が風に混ざってだんだんわからなくなるけれど、蜘蛛と雷

喪服を脱いだ夜は裸でねむりたいあるいはそれが夢の痣でも

「歌壇」巻頭作品(2019.11)

ページの端がちょっと折れても元気でね若者や恐竜のようにね

トイレから戻ってきてもそこにいて、グループ展の小さなチラシ

短歌同人誌「外出」(2019.5-)

今日はとても長生きをした行きずりの会話たくさん耳に注いで

タクシーのなかはちらちらしてたけど、目次に目を通すだけで一生?

雨ざらしの家具にみえても構わないから身長を書き込まないで

垂直に口開く鯉ベルトごと脱ぎ捨てられたズボンのように

深呼吸しろと言われてするときに散る画数がばらばらの文字

うた新聞(2021.7)

穴をふさげる穴なんてない プリクラの顔に変わっていくつもりなの

リハーサルは終わりよ、整形モンスター、星のかたちの心を持って

版画にて刷られたる鮒 好感を持たれることに命を賭けて

わたしたちはぜんぶ帳消しにしよう蛍光ペンでお化粧しよう

平岡直子は直接性の歌人だ。直子だから? 直子だからってのもある。余談だが、〈垂直に口開く鯉ベルトごと脱ぎ捨てられたズボンのように〉という平岡の一首は〈平岡直子〉という四字についての一首だ。

直接性というキーワードから平岡直子は一元論者であると思われるかもしれないが、ここは慎重に判断するべきだろう。というか、おそらくそうであるからこそ、平岡は断言のあとに必ず断言を覆す。

「短歌は汎用性のある着ぐるみだ。短歌は汎用性のある着ぐるみではない。一人として同じ内面を持つ人間はいないとみなすのも、全員が同じ内面を持っているとみなすのも、ほとんど同じことなのではないか。」平岡直子「パーソナルスペース」短歌総合誌「歌壇」2022年1月号

直接性とは、「ほとんど同じ」であることの歓喜と悲劇にのたうち回ることだ。

「短歌って、極論を言うとぜんぶが幻想的なんですよね。韻文という性質上、散文のモードではちょっと考えられないくらい非現実的な表現にまみれているものなので。(……)でも、ぜんぶが幻想的だということは、ぜんぶが幻想的ではないとも言えてしまうので、そこから何か取り出して喋るのは難しい。」「座談会 幻想はあらがう 大森静佳×川野芽生×平岡直子」文芸誌「文學界」2022年5月号

どちらかというと裏返されながら見せているむきだしの映画館 『みじかい髪も長い髪も炎』

女の子を裏返したら草原で草原がつながっていればいいのに 「外出」創刊号

以前にも書いたが、わたしが平岡の近作でもっとも良いと思うものは「ラッピング」12首(「うた新聞」2021年7月号)だ。平岡の短歌を読んでいくなかで焦点をそこに合わせすぎることには賛成できない〈穴〉という(キー)ワードを自己言及的に用いた〈穴をふさげる穴なんてない〉というテーゼから出発し、途中、一首の構造上、作者の吐露と読む必要性はないが、わたしはそう読んだ〈好感を持たれることに命を賭けて〉というショッキングなフレーズが挟まる一連は〈わたしたちはぜんぶ帳消しにしよう蛍光ペンでお化粧しよう〉という一首で締められる。内容面としては「ラッピング」というより「トッピング」のような連作だが(一方で、短歌定型や連作という型、枠組みに力点をおけば、この連作は「トッピング」ではなく「ラッピング」なのだろう)この連作の理論的バックボーンとして読めるのが、平岡が「外出」創刊号に書いた「短歌には足し算しかない」という文章(名文!)だ。

かんたんに時系列をおさらいしておくと、「外出」創刊号は2019年5月に刊行されている。その前年の2018年に平岡は「外出」の同人である染野太朗とともに「日々のクオリア」を完走していて、くだんの「短歌には足し算しかない」はその続編のようなスタイルで書かれた文章だ(表面的には、永井祐と宝川踊の一首評二日分だが、一方で、この文章は一首評一本が見開き二頁×二の四頁全体で「短歌には足し算しかない」と題されていることにも注意が必要で、これは上記の「ラッピング」と「トッピング」の関係性ともパラレルだろう)。

それぞれの結論部(最終段落)を引用する。

「かけ算やわり算によって都合よく情報のサイズを変更したり、正確に復元したりできるかもしれないというのは幻想だと思う。短歌には足し算しかない。作者にできるのは書き加えることだけで、読者にできるのは歌にさらになにかを書き加えることだけである。」(永井)

「欠損した言葉は歌の背後にある身体性を回復させない。だから、この歌はたしかに透明なのである。」(宝川)

短歌実作と短歌の批評をおこなっているわたしたちには「短歌には足し算しかない。作者にできるのは書き加えることだけで、読者にできるのは歌にさらになにかを書き加えることだけである。」というシンプル極まりない主張がどれだけ困難で勇気を必要とするものか身をもって理解できるはずだ。

2022年10月30日日曜日

〈文学〉が遠いわたしへーー2022年の短歌について

「過去や歴史はいわば時間的に手の届かないものであり、光や闇、心は空間的に手の届かないものである。著者(水沼注:大辻隆弘)の関心は、そのような今ここに形を持っていない物事に対して、ことばの世界でしかなしえない操作を施すことにあるのではないのだろうか。その動機には、届かないものへの憧憬があり、それらにことばの上で形を与えたり、あるいは形あるものと形なきものの境界を崩したりといった操作は、現実世界において届かないもの、届きようないものを、ことばの世界において手元に引き寄せようとする意志の表れではないだろうか。」山川築「ことばへの信頼」(大辻隆弘『水廊』歌集評)短歌同人誌「波長」創刊号

山川がここで述べている営みを端的に一言で〈文学〉と呼ぶならば、わたしは〈文学〉に批判的である。いや、わたしにはその〈文学〉こそが「現実世界において届かないもの、届きようのないもの」に他ならない。〈文学〉が「届きようのないもの」であるわたしには「ことばの世界でしかなしえない操作を施す」とは、実際にどういうことなのかが皆目わからない。ところで、あなたは渡辺松男が好きだろうか? そうであるならばあなたは〈文学〉に肯定的ということになる。わたしは〈文学〉に批判的なので渡辺松男を好まない。渡辺松男を好まないので〈文学〉に批判的である。

「そもそも短歌は「文学」である必要はあるのだろうか? わたしは、短歌は、(自己を表現してこそ、という)「文学」である必要はとくにないと思っている(そしてまったくおなじくらい、同時に、短歌は「文学」であってもいい、とも思っている)。」(瀬戸夏子「人がたくさんいるということ」「文學界」2022年5月号)

どのような実感から出発するにせよ短歌を読み書きする人間がここ数年で増えたことは否定のしようがないが、「文學界」という文芸誌で短歌特集が組まれたことが象徴するように、ここ数年で増えたのは「文芸」としての「短歌」を好む人間の数なのだと思う。あなたは文芸が好きだろうか? 文芸とは、「言語によって表現される芸術の総称。詩歌・小説・戯曲などの作品。文学。」(goo辞書)のことである。あなたは「言語によって表現される芸術」としての「文学」である「短歌」が好きですね?

現在の短歌シーンにおける雑な二項対立構造として「言葉派」VS「人生派」(藪内売輔)「夢」VS「生活」(青松輝)のふたつが名高いが、わたしはここに瀬戸夏子のふたつの発言「「文学」であってもいい」短歌」 VS「「文学」である必要はとくにない」短歌」、「大森静佳」(スクール)VS「永井祐」(スクール)(第八回現代短歌社賞選考座談会 「現代短歌」2022年1月号)も加えたい。

ところで、この議論で現状得をするのは「言葉派」「夢」側の短歌実作者である、とわたしは考えるが、これらの二項対立が、短歌の歴史上、圧倒的マジョリティだった「人生派」とその延長線上にある「生活」「体感リアリズム」(特集「Anthropology of 60 Tanka Poets born after 1990」対談 大森静佳×藪内亮輔「現代短歌」2021年9月号。なお、対談内において、藪内は「体感リアリズム」の裏表になる概念として「祈り」「ヒロイズム」という言葉を使用している)が先行した上での言説であることには注意する必要があるし、冒頭で〈文学〉に批判的だとは述べたが、なにもわたしは〈文学〉との二項対立上で議論をしたいわけではない。わたしがしたいのは短歌一首上での議論である。

「認識をことばに移し替えるとき、なにを認識したかだけでなく、どのように認識したのかもおのずと表現される。先に引用した歌(水沼注:のつちえこ、池田輔、水沼朔太郎の三首)は、それぞれに題材も詠まれ方も異なるけれど、認識の仕方、過程を表現している点で、指向が似ている。

歌を読み解くことで、世界がどのように認識されているのかが明らかになっていく。それは、歌を読むという行為の刺激的な部分のひとつであり、他者の存在と世界の豊かさを濃密に感じる体験でもある。筆者はそんな体験をさせてくれる歌が好きだ。」山川築「認識の歌」「未来」2022年9月号

短歌は一首が読まれる際に「既存の社会的・文化的通念」が前提とされ、往々にして「マジョリティの了解の範疇へと回収され」てしまうことは既に小原奈実が指摘している(「沈黙と権力と」「短歌」2019年10月号)が、小原の文章で引用されているのが〈ゆふぐれに櫛をひろへりゆふぐれの櫛はわたしにひろはれしのみ/永井陽子〉であるように(と、書いてしまうのはあまりに意地悪だろうか)小原の議論もわたしには〈文学〉である「短歌」の話であるように思える(念の為、付け加えると、そのことの価値を否定するつもりは毛頭ない)。それに対して、上記の山川の文章は〈永井祐の模写をしている〉わたしのような実作者にも勇気を与えてくれたし、わたしが口にする「永井祐」とはつねにこのレベルでの話だ。

モデルケースに「永井祐」を立てることで生まれる問題点については、瀬戸夏子が批判的に指摘し(「死ね、オフィーリア、死ね(中)」「短歌」2017年4月号)、平岡直子がユーモアとして表現している(「パーソナルスペース」「歌壇」2022年1月号)。また、実作面においては、仲田有里『マヨネーズ』との読み比べや、永井祐だけでなく斉藤斎藤的袋小路のアップデートとして、乾遥香の歌群を読むことが有効だろう。補足として。今回は、個人的な優先順位が低かったので言及しなかったが、「短歌ブーム」的な文脈では、宇都宮敦『ピクニック』が重要な一冊だと考える。

2022年6月1日水曜日

平岡直子『Ladies and』について

以下、引用句はすべて平岡直子川柳句集『Ladies and』より。

・タイトル『Ladies and』の視覚も含めた書き言葉としての洗練さと声に出したときのギャップ。集中に〈Ladies and どうして gentleman〉の一句があるため機内アナウンスやショーの始まりのように威勢よく発声することを躊躇ってしまう。と、書いてから一句が「gentlemen」ではなく〈gentleman〉であることに気がついた。そうするとこの句は既存フレーズのずらしに加えて「推し」の構造や天皇制をも射程に入れた句として読める。つまり、「Ladies and gentlemen」という既存フレーズに〈どうして〉と突っ込みを入れているのではなくて「Ladies and gentlemen」というフレーズの場をイメージしたときに浮かぶのが「どうしてか(ひとりの)gentlemanだ」というようなニュアンスが〈gentleman〉だと出る。

・連作「照らしてあげて」が素晴らしい。平岡の川柳の発表媒体のひとつである「ウマとヒマワリ」で「川柳連作」と平岡は表記していたが、「川柳」に「連作」であると明示することの効果とは(少なくとも、暮田真名「OD寿司」のようなタイプとは異なる連作性ではあるだろう)。〈キックボードでかわいがる春キャベツ〉〈照らしてあげて生産農家が通るから〉〈脱・昆布の文字をひからせプラカード〉の〈春キャベツ〉〈生産農家〉〈脱・昆布〉あたりから農地を〈キックボード〉〈プラカード〉〈照らして〉あたりから広々とはしているが電灯の少ない空間をイメージする。具体的にはミレーの「落穂拾い」のような空間を。「落穂拾い」の中のサイズ感ではなくわたしたちがスマートフォンで「落穂拾い」をググって見ている画面上で茶々を入れているようなスケール感がこれらの句にはある。〈Googleはとてもかしこい幼稚園〉。視点は決して〈キックボード〉に載っていて〈春キャベツ〉をこつこつやっているわけではない。〈視界への脅迫として横に川〉。ここでの〈生産農家〉とはスマホサイズで可視化される大きさ/小ささの人間のサイズではないか。

・〈照らしてあげて生産農家が通るから〉句の複雑性。〈生産農家〉にフォーカスをあてるよう懇願しているのではない。あくまでも〈生産農家が通る〉からそこを〈照らしてあげて〉と呼び掛けている=生産農家はまだその地点にやってきてはいないが、遠くないうちにここにやってくることは確実。「照らす」とは光に湿度を与えるような言葉。穴子のタレのように。ex.卓上に塩の壺まろく照りゐたりわが手は憩ふ塩のかたはら/葛原妙子『朱靈』。

・言葉遊びよりも言葉遊びによって展開されたイメージに価値を認めたい=既成の概念や手垢のついた表現をずらすことではなくずらしたことで立ち現れるイメージの方に価値を置く=〈わたし〉でないことが即〈自然〉、即〈言語〉になるのではない。言語によって構築された世界観とはつまるところ〈わたし〉の拡大でしかないという袋小路を突破するヒントがここにはあるのではないか。〈七夕はナナホシテントウムシの略〉〈夕虹を抜けだしてきた沢庵だ〉〈羽子板のようにしてくださいと言う〉など。

・平岡直子が立ち返ってくるような句

〈夜と子どもが暗さを競うお祭りに〉〈夜を捨てるペットボトル集まれ光れ〉〈虫の音と革命のないカードゲーム〉……〈暗さを競う〉〈夜(よ)を捨てる〉〈虫の音(ね)と革命のない〉で一句になっている。

2022年5月11日水曜日

暮田真名『ふりょの星』について

アサガオに寿司を見せびらかしていい?

モナリザの肩の隣に寿司がある

/暮田真名『ふりょの星』

以下、『ふりょの星』からの引用は〈〉で示す。

川柳というと言葉で言葉の意味をずらすようなイメージがあるが、これらの句はそうしたものとは微妙に違うと思う。もちろん〈寿司を見せびらか〉す相手に〈アサガオ〉を選んだり〈モナリザの肩の隣に寿司〉を存在させたのは他ならぬ言葉なのだけど、これらは一方で映像としてイメージすることが可能でもある。一句目なんかは実際にやろうとする意志があればできる。二句目は本場のルーブル美術館では出来ないだろうが、モナリザの絵をスマホでダウンロードなりスクショするかしてその上から寿司のスタンプを押せばそれらしくはなる。これらの句を面白く読んだのはこのような想像可能性も込みでのことだった。

〈ウェットティッシュの重さで沈む屋形船〉という句でも屋形船を沈めてしまう大量のウェットティッシュを想像するよりもウェットティッシュはウェットティッシュのままその重さで沈んでしまうミニチュアの屋形船を想像してみる方をわたしは好む。ウェットティッシュの容れ物自体が言われてみれば屋形船みたいだし、表紙絵のミニチュア感を連想しても良い。〈旅客機を乾かしながら膝枕〉〈扁桃腺がジャングルジムだったら〉〈どうしてもエレベーターが顔に出る〉〈コップの水にひそむ交番〉こうした句においてもミニチュア化しているのは「旅客機」「ジャングルジム」「エレベーター」「交番」の方だ。

諦念のように集中で繰り返される〈やがて元通り嘘になるだろう〉とは、言葉の次元のことではないと思う。句そのものは元通りにも嘘にもならない。特に川柳は書かれてあることを書かれてあるままに読む文芸だと思うから。〈やがて元通りに嘘になる〉ものとはわたしたちの世界におけるスケールの序列(スケールカースト)の方だ。

他には流石に代表句として小池さんに引用されすぎの感があった〈いけにえにフリルがあって恥ずかしい〉を表題で「いけフリ」と呼んだりする精神や〈涕泣の似合う木馬にしたい〉〈緞帳よりも重たい砂金〉の漢字を「さんずいに弟」「いとへんに段」で検索する動作に川柳を感じた(〈弟的な寿司なのかなあ〉)。単なる偶然かもしれないが、数冊しか読んだことのない俳句の句集で読めない漢字を検索するときは先の「さんずいに弟」「いとへんに段」のようにピンポイントで当てにいくことは難しくなんとなく似てる形の漢字で代替して検索して絞っていく漸進的な検索方法を取った記憶がある(〈桜を湯がく できないなんて〉)。

静電気でまかなう旅の交通費

/暮田真名『ふりょの星』

2022年4月15日金曜日

対立はどこにあるのかーー高橋たか子『誘惑者』、松浦理英子『ナチュラル・ウーマン』読書メモから

〈まわすたび軋むキューピー人形の首はつぶせばつぶれる軽さ/平井俊『現代短歌』2018年10月号〉……するすると読め進められるのは『ナチュラル・ウーマン』。所収の三篇ともに「腹這い」の描写があった。「マットレス」も印象的。『誘惑者』で印象的だったパイプの熱(松澤龍介から鳥居哲代へ)が『ナチュラル・ウーマン』でも折々に(火、煙、根性焼き、キスマーク)。「「火口の中はぱあっと明るい」(『誘惑者』)」。言葉を投げることの大切さ。言葉が次の反応なり行動を生む(『ナチュラル・ウーマン』)。見掛け上の結果に反して『誘惑者』は行動の原因を言葉で問い続けた(最後の最後で織田薫の数え上げが鳥居哲代に反応を引き起こす)。鳥居哲代の頭から離れなかったのは砂川宮子の言葉だった。『誘惑者』で『ナチュラル・ウーマン』の容子に一番近い登場人物は砂川宮子だろう。織田薫回に鳥居哲代が感じた反復の滑稽さ。「「芝浦桟橋はまだでしょうか」と、鳥居哲代は言った。軀じゅうに笑いのようなものが突っ走った。」。『ナチュラル・ウーマン』のラストのコントラスト。「一段階段を下りた花世に背を向けて屋上へ駆け上り出した時に、下から声が追いかけた。「最後まで私たちらしいわね。あなたは高みへと上り、私は下降しーー」(『ナチュラル・ウーマン』)」。『ナチュラル・ウーマン』で一番好きな登場人物は容子、『誘惑者』では砂川宮子(アイスクリーム!)。瀬戸夏子「と」平岡直子問題。瀬戸夏子と平岡直子は同時には愛せない問題(瀬戸夏子、平岡直子に服部真里子、大森静佳も加えて「作品」というフィクショナルな領域で愛してみせたのが笹川諒『水の聖歌隊』だろう……〈月曜には月曜の姉がいることを昼、そして夜の日記に記す/笹川諒「テレーゼ」『短歌』2021年9月号〉。『誘惑者』を読みながら終盤で思い出したのが〈熱砂のなかにボタンを拾う アンコールがあればあなたは二度生きられる/平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』〉だった。しかし、大枠で言うなら『誘惑者』が瀬戸夏子的で『ナチュラル・ウーマン』が平岡直子的。穂村弘は『シンジケート』派か『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』派か。穂村単独でも問題になりうるが、この選択が雪舟えま『たんぽるぽる』の評価にも連動する(瀬戸夏子『はつなつみずうみ分光器』)ことの方に関心がある。『手紙魔まみ』「も」『たんぽるぽる』「も」は不可能なのか。わたしは残念ながら穂村弘自体にあまり関心がなく『たんぽるぽる』は批評者としては惹かれるが作者として、読者としては惹かれない(「現代短歌の無意識」参照)。かつて、瀬戸夏子は歌人・穂村弘と批評家・穂村弘の分裂を指摘したが、二次創作短歌の興隆により、現在は多くの歌人が、歌人・批評家・読者の三幅対になっているように思える。わたしの話をする。わたしは近頃は永井祐の歌にある官能性をもう少し前景化できないかと考えている。意外にも永井祐解釈において官能的なのは平岡直子よりも瀬戸夏子。『現実のクリストファー・ロビン』の永井祐評(!)。「成功した永井の歌には局部的な快楽ではなく、けだるい、しかしたしかに全身的な快楽がながれている。全身的であるがゆえに、永井の歌のうち、成功しているものほど極端に凹凸がすくなく、寸胴であり、顔もない。それこそが最上のバランスになる。」。「永井祐の歌のうち、あまりに直線が勝ちすぎるものについては、私はその恩寵を感知することができない。しかしその平板なフォルムが反射=光のゆがみによってーーたとえば、名詞の出現を呼びこむときーーその美しい名詞の出現は、凹凸をもたない器の不可視の凹凸のなかに浮かびあがってくるように思える。私はその様子を、もう、何度もみたことがある。」(瀬戸夏子「私は見えない私はいない/美しい日本の(助詞の)ゆがみ(をこえて)」『現実のクリストファー・ロビン』)。〈二種類(ふたしゅるい)色があるのでお好みを的にさびしい・さみしい選ぶ/永井祐『広い世界と2や8や7』〉。「葛原妙子と森岡貞香が「斎藤茂吉をこっちにとっちゃおう」と談合していたというエピソードが好きで、わたしはこのごろ「永井さんをこっちにとっちゃおう」とだれもいない家のなかで虚空に向かって話している。」(平岡直子「パーソナルスペース」『歌壇』2022年1月号)。「指を休ませないで花世は話しかける。/「お金が入ったら一緒に住もうか。」/「うん。」/「でも、きっと無理よね。」/「無理かしら?」/「無理よ。」/「無理なの?」/「どちらかが死ぬわ。」/「私が死ぬことはないだろうけど。」/花世は口を閉した。私は再び陶酔境に入った。」(『ナチュラル・ウーマン』)。

2022年4月14日木曜日

現代短歌の無意識(再掲)

初出はnote(2021年5月8日)

雪舟えま『たんぽるぽる』歌集一冊の面白さはわかるのだけれど、それに触発されて歌ができるということがわからない。自分の場合に置き換えてみると、かつて永井祐を読んで面白いくらいに歌ができる時期があった。原理的にはそれとおなじ仕組みなのだろうが、それは信仰と反発を同時に生む。『はつなつみずうみ分光器』でいうところの藤本玲未、山崎聡子、初谷むい。遡って、今橋愛、盛田志保子、飯田有子。柴田葵は笹井宏之賞時代の兵庫ユカだろうか。収録のタイミングに間に合わせてほしかったが、橋爪志保、平岡直子。『みじかい髪も長い髪も炎』のあとがきにあったように「短歌はふたたびの夢の時代に入った」のだと思う。しかし、この一文で何度も反芻したくなるのは不思議なことに「ふたたびの」の「の」だ。〈食べかけのベーグルパンと少年と置き去りの壊れた自転車/平岡直子〉。平岡直子を筆頭に瀬口真司、青松輝。穂村弘も夢の時代のキーパーソンになるのだろう。『シンジケート』の新装版はもう間もなく。わたしが見る夢は現在のツイッター短歌界隈のように混乱かつ退屈を極めるものであってはならない。少なくともその混乱の抜け道になっていくべきだ。辛うじて現在はその抜け道を寄り道的に享受する余裕がわたしにはあるが、皆がふたたび夢を食い合うようになればあっという間にワンルームに引き返すことになるだろう。雪舟えま『たんぽるぽる』(5刷)の帯を東直子が書いている。藤本玲未『オーロラのお針子』の帯を東直子が書いていることは東直子が監修者だから理解できるが、『たんぽるぽる』の帯を東直子が書いていることに何度も驚く。東直子も穂村弘も雪舟えまもリアルタイムでないからこそ驚く。初谷むいが『地上絵』の帯を書いているぐらいの感覚。その初谷むい、藤本玲未、前田康子の章を『はつなつみずうみ分光器』では面白く読んだ。とりわけ前田康子は『現代短歌』との付き合いなんかも薄っすら感じつつ椛沢知世の歌のクリティカルポイントが掴めた。それから吉野裕之。冒頭の引用を読んでわたしは爆笑したが、阿波野巧也はブチ切れてもいいと思った。それにしても東直子の再評価。再評価?『春原さんのリコーダー』『青卵』文庫化の反響ではなく文庫化と同時に再評価が済んだ印象がある。『みじかい髪も長い髪も炎』に東直子、北川草子の影を一切感じなかったのが奇跡のように思える。『はつなつみずうみ分光器』『みじかい髪も長い髪も炎』二冊の裏ボスは日々のクオリアの花山周子だ。〈無造作に床に置かれたダンベルが狛犬のよう夜を守るの/平岡直子〉

2022年4月2日土曜日

対立はどこにあるのかーー2022年の短歌総合誌から

はじめにわたしのスタンスを明確にしておくと『短歌研究』2022年4月号の対談「短歌は「持続可能」か。」(坂井修一VS.斉藤斎藤)における斉藤斎藤の主張(「私は短歌がほかのジャンルと違うのはその一人称性だと思っていて、三人称的に神の視点で描くものに短歌がなってしまったら、コンテンツ力でほかのジャンルに勝てない。」はまったくその通りだと思うし、坂井に「それは本当の文学じゃないと思うよ。」と言われる立場から少なくとも現在までわたしは短歌を作ってきた。


『短歌研究』2022年2月号に掲載された斉藤斎藤の連作「群れをあきらめないで(5)」に〈見る私・透明な魂・アララギズム・一人称性・写生・男性〉〈見られる私・身体・ぽうずのようなもの・三人称性・幻想・女性〉という二首が並べられている。この図式を目にして以来、対立させられてはいるが、どこか不自然さを持って対立させられているように思える〈アララギズム〉と〈ぽうずのようなもの〉の対について考えている。考えていたのだが、意外な所にヒントがあった。この二首に続いて記される詞書の部分。〈(……)A 正直ついでに小声で言うと、ぼくはさいきんの女性の歌を、正直読めてないと思う。さいきんの女性の歌の多くは、「自分のためのおしゃれ」に見えるんだ。/B どういうことだい? /A 「おしゃれ」とは、社会から見られる視線を引き受けることだとすれば、「自分のためのおしゃれ」とは、自分で自分に見られること、「見られる側」でありながら、その視線を社会から自分に取りもどすことだろう。/B 「見られる側」から「見る側」に回るのではなく、ね。/A で、ぼくは見ての通り、「おしゃれ」が全くわからないから、「自分のためのおしゃれ」が「おしゃれ」とどう戦っているのか、複雑すぎてわからないんだ。わからないものを適当に褒めるわけにもいかないからなあ……。〉。


「おしゃれ」という語彙からわたしが連想したのが水原紫苑・責任編集『短歌研究』2021年8月号の石川美南「侵される身体と抗うわたしについて」。平岡直子、北山あさひ、谷川由里子、川野芽生の歌を挙げて制度と身体について考える大変おもしろい文章だが、紙幅の半分は平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』に割かれており、実質的には平岡直子論である。「平岡の歌を読んでいると、意味内容に関係なく唐突にムッとする瞬間がある。理解しがたい服装の人を見て、自分のファッションに対する感度の低さを意識させられたときの鈍い痛みのような。そんな連想をしてしまうのは、私が平岡作品の良き読者ではないからだろうか。いや、そうではなく、このムッとする感じは作品自体によって誘発されているものであり、むしろ作品の魅力なのだと思う。」。この「ムッとする感じによって誘発」される「魅力」は鷲田清一『ちぐはぐな身体ーーファッションって何?』の引用文中の語彙から「平岡の場合は「どこまでやれば他人が注目してくれるか」というアピール感は薄いが、「のっぴきならなさ」は紛れもない。」と言い換えられる(「どこまでやれば他人が注目してくれるか」「のっぴきならなさ」は鷲田清一『ちぐはぐな身体』からの引用)(「短歌」と「ファッション」については『文學界』2021年8月号の特集「ファッションと文学」に掲載されている川野芽生と山階基の文章も必読。両者が「試着室」という空間に言及している点を興味深く読んだ。わたしにとっては「試着室」という空間も汗をかいてしまったり何か急かされているような感覚になったりでそれはそれで息苦しさの残る空間ではあるのだけど)。


現在発売中の『短歌研究』2022年4月号に先の斉藤の連作の続き(「群れをあきらめないで(6)」)が掲載されているが、ここで斉藤は虚実の問題を取り上げる。具体的には、第66回角川短歌賞受賞作田中翠香「光射す海」(道券はな「嵌めてください」と同時受賞)の作品世界についての分析なのだが、ここでの議論のポイントはこれまた詞書で書かれる〈(……)筆者が指摘しているのは、ほんとうの対立は、虚/実の手前にあるということだ。〉〈或る種の読者は、こいつ何を当たり前のことを念入りに述べているのか訝しく思うだろうし、もう或る種の読者は、こいつが何にこだわっているのか一切ぴんと来てないだろう。つまりこれは、虚/実の対立ではなく、疼く身体/疼かない身体の対立であり、〉にある。ここから〈だから前者の(水沼注:〈すなわち、身体の奥に疼きの回路を持ち合わせている読/作者は、〉)身体の奥が疼きさえすれば、犯していない罪について、うっかり虚構を立ち上げることもあるだろう。〉として作品内で〈タンク山にのぼった、わたし、明け方の夢にあなたの顔をしていた?〉という山崎聡子の一首が引用される。〈うっかり虚構を立ち上げる〉がポイントだと思う。「群れをあきらめないで(6)」の論理では身体が疼くことは虚構を立ち上げる起点になるのではない。虚構を立ち上げることのブレーキになる(山崎聡子作品についての斉藤の基本的なスタンスは短歌ムック『ねむらない樹』vol.5の座談会「短歌における「わたし」とは何か?」(宇都宮敦✕斉藤斎藤✕花山周子)に詳しい)。


『短歌研究』誌上において柳澤美晴は3月号で奥田亡羊の、4月号で斉藤斎藤の、それぞれ『歌壇』2022年1月号の特集「気鋭歌人に問う、短歌の活路」の文章を援用しつつ時評を書いているが、柳澤が援用するこの特集で最もラディカルな問いを提示しているのは平岡直子の「パーソナルスペース」だと思う。「パーソナルスペース」は永井祐論でありながら同時に「葛原妙子と森岡貞香が「斎藤茂吉をこっちにとっちゃおう」と談合していたというエピソードが好きで、わたしはこのごろ「永井さんをこっちにとっちゃおう」とだれもいない家のなかで虚空に向かって話している。」とまで言ってのける文章だ。4月号の時評の末尾で柳澤は先の北京オリンピックにおける羽生結弦の四回転アクセルへの挑戦を例に「我々は他人の眼にどう映るかを気にして「じぶんの観せ方」を決めることはやめ、もっと大胆に詠い、放胆に論じるべきだ。語り口で魅せてやるくらいの好戦的な気持ちで。」と述べるが、平岡の文章がそうでなくて一体。


ところで、『短歌ヴァーサス』vol.11(2007年)の座談会「境界線上の現代短歌ーー次世代からの反撃」(荻原裕幸✕穂村弘✕ひぐらしひなつ✕佐藤りえ)でもフィギュアスケートの例えが使われていた。長くなるが最後に引用したい(この号には斉藤斎藤「生きるは人生とは違う」も掲載されている)。


〈穂村 (……)ジャンルによってその二重性(水沼注:一次的な表現そのものが評価されると同時に表現ジャンル観が評価されること)の強さは違うと思うんだけど、短歌みたいなものはきわめて二重性が強いわけ。で、斉藤斎藤の場合、実際の一次的な表現ですごくいいって言った人の率よりも、なぜ自分は肉体練習をしないのか、っていう定型観の強度みたいな方に行ってるよね(水沼注:『渡辺のわたし』刊行後の話であることに注意されたい。わたしが斉藤の作品で最も評価するのは第二歌集『人の道、死ぬと町』所収の連作「棺、『棺』」だ)。だから彼の歌を見るというのは、その「観」を見るっていうようなところがある。その直前までは「観」じゃなくて、盛田志保子や今橋愛や、東直子、早坂類あたりの、その種の女性の一次的な言語感覚のすごさみたいなものが圧倒的に僕なんかの目には強く映っていたんだけど、それはとうとう飽和状態になって「もういい!」って(笑)。どんなに素晴らしい演技をしても、要するにお前は生まれつき身体が柔らかいだけじゃないか、って、そういう話になる。もちろんそれでいいんだよ。それでたとえばフィギュアスケートだったら、スケート観よりも実際に五回転できるってことがすごいわけだけど、短歌においては東直子とかが五回転できて、斉藤斎藤が「いや、俺は跳びませんから」みたいな(笑)、「俺のスケートは跳ばないスケートですから」みたいなさ。〉

2022年3月23日水曜日

瀬戸夏子と横書き中央揃え

わたしが現代短歌に本格的に目覚めたのは葉ね文庫のフリーペーパーコーナーに置いてあった「瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.(仮)』抄出三十首」という一枚の紙との出会いだった。一枚の紙といってもコピー用紙ではなく硬質な紙質の白というよりは銀に近い色味の紙だ(同内容で背景が黄緑のペーパーも存在する)。言うまでもなく、書肆侃侃房から2016年の2月に出た瀬戸夏子第二歌集『かわいい海とかわいくない海 end.』の近刊を告げるフリーペーパーなのだが、この段階(2015年の秋頃)ではまだタイトルに「(仮)」がついている。この抄出三十首を見て惹かれた歌をいくつか挙げてみる。〈かなわない頬っぺたのように夜の空 クリスマスと浮気は何度でもしよう〉〈強盗と消防士がかなしく分かつポカリスエットに頬を打たれた〉〈わたしを信じていて ゆめをみて 絶望を斡旋するのがわたしのよろこび〉〈北極の極ならそんなの埼玉の天使と東京の天使で話しあいなよ〉〈それはそれはチューリップの輪姦でした〉……。さて、表題にもしたが、これらの歌はいわゆるWordの設定でいうところの横書き中央揃えで印字されていて、わたしはこの事実にこだわりがある。というか、これらの歌が横書き中央揃えで印字されていなかったらわたしはこのタイミングでこれらの歌に打たれることはなかっただろうと思う。事実、このあとしばらくの間、わたしは横書き中央揃えで短歌を印字して発表していたし、同じように打たれた(?)石井僚一も2015年の大晦日に「ラヴレターは瀬戸夏子の彼方に」というネットプリントを横書き中央揃えに白黒反転までして出した。〈骨に骨 引き寄せるとき身を捩るあなたはあなたの抒情の墓石〉〈須くシモーヌ・ヴェイユ、檻の降る丘で脚本通りに君を〉。『かわいい海とかわいくない海 end.』刊行直前のこうした流れの中でわたしはこの歌集が横書き中央揃えで刊行されることを信じて疑わなかった。周知のように、この歌集は縦書き一頁三行を基本レイアウトとしている。横書き中央揃えではなかったのだ。ただし、その残り香のように本文中の章題の表記と Special Thanks は横書き中央揃えになっている。〈スイーツその可能性の中心〉〈わたしは無罪で死刑になりたい〉〈生まれかわったら昭和になりたい〉(章題)「過去、現在、未来を問わず短歌を愛し短歌を憎むすべての人々」(Special Thanks)……横書き歌集のことを思い出したのは伊舎堂仁の第二歌集『感電しかけた話』に、表紙、横書きに倒された自選5首の宣伝ツイート、ベースになっていると思われるnote記事などからその可能性を覚えたからだった。とはいえ、リーダビリティ(散文性、非屹立性)から要請される横書きや向井ちはる『OVER DRIVE』のようなデザイン的な横書き(余談になるが、瀬戸の運営していたツイッターの<短歌bot>で名前と歌を知った向井ちはるの歌は縦書きのシンプルなレイアウトで読みたいと思った)とも瀬戸の中央揃えは異なる何かを表象しているように思う。屹立は屹立なのだが、打ち抜き方の形が違う。それが横書き中央揃えという形で具現化された、とまで主張するのはあまりに順接すぎる嫌いもあるけれど。横書き中央揃えという詩の中心点。それは脳内でイメージされる詩的消失点の対極にある。〈青空は左利きだとクイズにあった桜という字はわたしが消した〉(瀬戸夏子「どんな死体なのかな」第二歌集刊行記念特典ペーパー葉ね文庫ver. 横書き中央揃えで印字)

2022年3月7日月曜日

小島なお『展開図』再読

歌集が出てすぐの頃(2020年5月あたり)「心の領地」を境に分断された(当時のわたしはあとがきで「選歌をお願い」されておこなった「高野公彦様」による選歌を選歌が本質的にはらむ暴力性以上の強い力として受け止めてしまった)文体についていけなかったこともあり改めて「心の領地」から読んでいく。


悪いことじゃないよ時間をこなすのは杭の頭に順に触れゆく

花の日は花に甘えてなにか言うための言葉を探さずにおり

また空を浪費しながら私あり覚えておこう使いきるまで

いつまでを友だったのかセロテープ透ける向こうが学生時代

陽だまりを啄む鳩の分身が瞬くたびに増えてゆく午後

セーターについたチョークの粉 いまは抽象的な過渡期と思う

一花ごとにある時間軸 木槿から木槿の時差を渡ってあるく


自分の、心のために使う時間。しかし、内省的ではない。浪費とは一般的な消費感覚に対する批評でもある。セロテープがこちら側とあちら側とのフィルターになる。窓ではなくセロテープ。直線的、縦幅と横幅にかなりの開きがある。任意の点で切ることができる。一回性ではなく残像のように重なりつつ振れる。〈体内に三十二個の夏があり十七個目がときおり光る〉の〈十七〉を特権的に読むこともできるだろうが、それでも固定された点としてクリアに呼び出されるわけではない(セロテープ)〈プレパラートにむかし覗いたものは何 月の産毛も見えそうな夜〉(プレパラート)〈ソフトクリーム舐めてあかるむ喉をいま古い涙のようなもの落つ〉現在形で舐めてあかるむものがソフトクリームであること。単なるノスタルジーではない。差異と反復。「失恋」もまたそのひとつのかたちだろう。ところで、後半の大森静佳『カミーユ』的文体はこうした個的存在者の差異と反復をむしろ抹消してしまう嫌いがあった(〈私だけの夏なわけでもないだろう季節は誰の手紙でもない/小島なお〉〈来てくれて待っててくれて夏の川やさしさはやさしすぎて苦手/同〉翻って『カミーユ』的文体とは歴史的な差異と反復に有効な文体なのだと思う〈明け渡してほしいあなたのどの夏も蜂蜜色に凪ぐねこじゃらし/大森静佳〉〈ダナイード、とわたしは世界に呼びかけて八月きみの汗に触れたり/同〉)。


【「心の領地」以前】

他人の恋は豆電球のあかるさで薄い硝子に触りたくなる

テーブルにLOFTの袋置かれあり黄色はこの世を生きる者の色

雪を踏むローファーの脚後ろから見ている自分を椿と気づく

妹のほそく毛深い後ろ首 躑躅は妊婦のためにある花

灯台はこわい むくんだ産月の妹の脚思い出すから

泣くためにきた用水路さくら浮く水面にほそい蛇泳ぎゆく

2022年2月28日月曜日

偏愛歌60首

あいたいというひまもなくあっているまきじゃくあっちとこっちをもって/おさやことり

同名誌『太朗?』(2015)

会ひたさは心の狭さ だとしてもあなたに傘を届けてみたい/神野優菜

機関誌『九大短歌』第九号(2019)

秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは/堂園昌彦

歌集『やがて秋茄子へと到る』(2013)

あめつちのかひなに抱かれしんしんとたれをかなしむ野のゆきうさぎ/永井陽子

歌集『なよたけ拾遺』(1978)

あれはたぶん壊れた針をふたつとも外した梟の掛け時計だ/谷川由里子

歌集『サワーマッシュ』(2021)

インナーワールド・オブ・ザ・フューチャー 背泳を小学校のプールで一人/五島愉

歌集『緑の祠』(2013)

黄金休暇中日 眠れば眠るほど手首しびれてわれも涙目/棚木恒寿

歌集『天の腕』(2006)

おしぼりの袋がひじに貼りついて5年分の浮かれっつらしている/阿波野巧也

歌集『ビギナーズラック』(2020)

おそろしき隣家寒夜に移り来てすぐ花鳥図(くわてうづ)のバス・タオル乾す/塚本邦雄

歌集『歌人』(1982)

お名前何とおっしゃいましたっけと言われ斉藤としては斉藤とする/斉藤斎藤

歌集『渡辺のわたし』新装版(2016)

お前といるとばかになる……男の子ありがと、わたしを抱いて浮上する/初谷むい

歌集『花は泡、そこにいたって会いたいよ』(2018)

火炎吐くごとくに僕は息をする仲裁という慣れぬ役目に/廣野翔一

同人誌『穀物』創刊号(2014)

雷を窓ガラスごと見てしまう四角く腕をかためた私/椛沢知世

同人誌『半券』vol.1(2019)

からだごと織られるような祈りして火は森をどこまで焼けたかな/安田直彦

個人誌『ザオリク』vol.3(2017)

彼氏の次も彼氏をつくった女の子 入れてもらったことのない部屋/乾遥香

同人誌『Sister On a Water』vol.3(2020)

昨日より可愛くなったはずなのにわたしと気付かれて驚いた/石井松葉

同人誌『かんざし』第二号(2016)

きよちやんと歩きたかつた天神を天六を手をそつとつないで/染野太朗

同人誌『外出』第二号(2019)

鍵盤のようだと思う 無花果のタルトに刺さっていくあなたの歯/道券はな

同人誌『too late 』vol.1(2019)

再演よあなたにこの世は遠いから間違えて生まれた男の子に祝福を/瀬戸夏子

歌集『かわいい海とかわいくない海 end.』(2016)

鎖骨より真珠をはづすさやうならおとうと婚のはつなつゆふべ/上村典子

歌集『開放弦』(2001)『上村典子歌集』(2011)

死螢を拾ひ「ひかり」と断ずれば「ほのほ」と応ふ君ふるへつつ/藪内亮輔

総合誌『短歌研究』2019年2月号

遮断機があがりきるまで動かないぼくは断然菜の花だから/大橋弘

歌集『からまり』(2003)

すこし瀬戸すこし夏子のラヴを差し引いても接吻は遺書であること/石井僚一

ネットプリント「ラヴレターは瀬戸夏子の彼方に」(2015)

砂浜を歩き互いの頭から届く光におじぎを交わす/頭上葛良

同名誌『太朗』(2015)

ソフトクリーム舐めてあかるむ喉をいま古い涙のようなもの落つ/小島なお

歌集『展開図』(2020)

それにしても大塚愛はどんな日を「泣き泣きの一日」と思ったのだろう/鈴木ちはね

ムック『ねむらない樹』vol.5(2020)

たまかぎる茜の雲に歩むときうつせみのままわが声は杖/山中智恵子

歌集『玉菨鎮石』(1999)

だるい散歩の途中であったギャルたちにとても似合っている秋だった/永井祐

歌集『日本の中でたのしく暮らす』(2012)

だれのものでもなくなったマイメロディのキーホルダーが小枝に揺れる/寺井奈緒美

歌集『アーのようなカー』(2019)

地下鉄の風にビニール袋鳴るなんにもおもわないってかんじ/今井心

歌集『目を閉じて砂浜に頭から刺さりたい』(2018)

ちゃん付けで呼んでみたきが妻の前で呼び捨てにする池田エライザ/田村元

歌集『昼の月』(2021)

常臥せる窓の桧の木にこの夜頃天道虫の匂ひ満ちをり/相良宏

『現代短歌大系』第十一巻(1973)

とうめいなみどりかざしてアスパラガスこの夏がもう始まっている/福島遥

歌集『空中で平泳ぎ』新装版(2013)

どの光とどの雷鳴が対だろう手をつなぐってすごいことでは/佐伯紺

同人誌『遠泳』創刊号(2019)

どんなにか疲れただろうたましいを支えつづけてその観覧車/井上法子

歌集『永遠でないほうの火』(2016)

なすすべなく現在形でつけているはるまき巻いている夢日記/橋爪志保

歌集『地上絵』(2021)

庭の上(へ)のうす雪ふみて雉鳩のつがひ来あそぶこゑなくあそぶ/小中英之

歌集『翼鏡』(1981)『小中英之歌集』(2004)

眠気にはあらためて負け越していて湯船でノーモーションで来るかも/森口ぽるぽ

歌集『インロック』(2022)

ノースリーブの腕のひかりの苦しくて好きになつたらあかんと思ひき/大辻隆弘

歌集『景徳鎮』(2017)

博多駅の屋上に来て風のなかをひろく重なるふたつの視野が/山下翔

歌集『meal』(2021)

八月十五日 お家三軒分ぐらいの夕焼け雲 なんなんだ/北山あさひ

歌集『崖にて』(2020)

はやく明日にならないかなって、何もないけど。うー、目が おやすみ/樟鹿織

機関誌『京大短歌』22号(2016)

harass とは猟犬をけしかける声 その鹿がつかれはてて死ぬまで/川野芽生

歌集『Lilith』(2020)

春の原っぱのさようならへその緒を切られたみたいにくすぐったい/土岐友浩

『短歌ヴァーサス』vol.7(2005)

ひとひらが大きい雪だ何度でもはじめにもどる電光掲示板/斉藤志歩

ネットプリント「砕氷船」第二号(2020)

暇人に時代あり 花散らし 鼻血出し 裏声でプリーズだよ/平英之

同人誌『はならび』第5号(2014)

ひまわりを葬るために来た丘でひまわりは振りまわしても黄色/服部真里子

歌集『遠くの敵や硝子を』(2018)

㊵(ひょうしき)がくす玉のよう 言いかけたことは言おうよわたしたちなら/笠木拓

同人誌『遠泳』第二号(2020)

星きれい あなたは知らないだろうけどあれなら神々の自爆テロ/笹川諒

ネットプリント「トライアングル」(2018)

真夜中のバドミントンが 月が暗いせいではないね つづかないのは/宇都宮敦

歌集『ピクニック』(2018)

まわすたび軋むキューピー人形の首はつぶせばつぶれる軽さ/平井俊

総合誌『現代短歌』2018年10月号

水たまり回避している夏の朝 わたしのラッキーナンバーは0/原田彩加

ムック『ねむらない樹』vol.1(2018)

耳鳴りは早く治したい一月のローソンの棚においしい苺/仲田有里

歌集『マヨネーズ』(2017)

ラーメンがきたとき指はしていないネクタイをゆるめようとしたね/山階基

歌集『風にあたる』(2019)

リズム・アンド・ブルース・いいからくわえてみ・ツイスト・アンド・シャウト・いらない/平岡直子

総合誌『歌壇』2017年7月号

両腕はロゴスを超えている太さふかぶかと波を掻ききらめきぬ/大森静佳

総合誌『現代短歌』2018年10月号

リラックスしないなら死ね 自分たちが空からずっと見え続けてる/瀬口真司

ムック『ねむらない樹』vol.6(2021)

わが内臓(わた)のうらがはまでを照らさむと電球涯なく呑みくだす夢/辰巳泰子

歌集『紅い花』(1989)『辰巳泰子集』(2008)

われのところへ届くことなき子のサーブ待つというより立ち尽くすなり/花山周子

総合誌『短歌』2017年2月号

勇気なのだ 間違い電話に歯切れよく「五分で着きます!」きみはこたえた/我妻俊樹

同人誌(誌上歌集)『率』第10号(2016)