2019年10月14日月曜日

『歌壇』11月号を読みました


「読みたいコンテンツがふたつある号の総合誌はとりあえず買っておけ!」とは短歌生活5年目になるわたし自身の言葉だ。自分自身の言葉に従って『歌壇』を数年ぶりに購入した。ちなみに、先月は『短歌研究』『現代短歌』に加えて低迷著しい『短歌』も買ってしまった。そろそろ購入基準をコンテンツふたつからみっつに上げるときが来ているのかもしれない。そんなわけで久しぶりのブログ更新である。昨日(さくじつ)のプロ野球、いだてん、ラグビー、バレーにつづき本日は出雲駅伝があったのだが、泣く泣くブログを更新する。さて、短歌における神的な力と言えば選歌をおいてほかにないだろう。本来ここでは「短歌はフォース(霊力)だ」(吉川宏志)を持ち出して短歌実作者の力を褒め称えるのが賢明なことなのかもしれないが、わたしはあんまりわたしたちの作歌能力に関心がないので自主却下としたい。選歌、というのはなにもあの大物選者群による選だけを指すのではない。わたしたちは短歌をやる限りにおいてつねに選歌をしている。「この連作ではこの歌が一番好きでした」も立派な選歌だ。しかし、一方で、なぜあの歌ではなくこの歌なのか?と真面目に考えだすとなかなかにむずかしい。つまり、選歌とは歌群から歌を選び出すという選別的/絶対的な作業にもかかわらずその作業には必ず比較化/相対化がつきまとう。


ページの端がちょっと折れても元気でね若者や恐竜のようにね/平岡直子


『歌壇』2019年11月号の巻頭作品20首から。たとえば、20首から強制的に好きな短歌を1首決めれるまで帰れませんというゲームがあったとしたらわたしはこの1首を選んで早々に帰宅するだろう。だが、帰宅の際にマイクを向けられて「この1首の魅力は?」と聞かれたらわたしはなにも答えたくない。間違っても若者と恐竜を並置しているところに云々などとは。それでもなにか意味のある言葉を言わなければならないとしたらそのときにこそ使いたい。「短歌はフォース(霊力)だ」と。


歌そのものを直感で掴んでその掴んだ直感を時系列的に評というかたちで開示しそれによって評の読み手と直感と直感でつながるのはあまりいいことではないのでないか、書くということは自身で掴んだ直感をいったん別のかたちに置き換えた上でおこなわれるものなのではないか、という指摘を間接的に耳にしたことがあった。この言葉は掴んだ直感をできるだけ正確にトレースすることでなんとか評の体裁を保っていたわたしの耳にとってもとても痛い言葉であったけれど……


ところで、このブログ全体をわたしは「短歌の空間」と名付けている。短歌とはなにか。あるいは、定型とはなにか、韻律とはなにか、という類の問いは定期的に持ち上がる話題だけれど、たとえばおなじ今月の歌壇に載っている〈位牌より大きく墓石より小さく夜よりほんの少しだけ暗く/藪内亮輔〉をひとつの短歌の空間として把握することは可能だろうか。この歌は短歌のことを歌っているという発言が持つ白々しさには同意した上で「これは短歌だ」と口に出してしまったその手前にあったはずの空間。それを言語や紙の物質性に訴えてしまうとたちまちにどの歌でもそうじゃんとなってしまう、ゆえに、それはやはりそこで訴えられる類のものではない空間。それを、神秘化させないための、選歌。


ページの端がちょっと折れても元気でね若者や恐竜のようにね/平岡直子


位牌より大きく墓石より小さく夜よりほんの少しだけ暗く/藪内亮輔

見開きの本の半分のページの元気さと位牌より大きく墓石より小さい空間があなたにも生まれますように。