2022年6月1日水曜日

平岡直子『Ladies and』について

以下、引用句はすべて平岡直子川柳句集『Ladies and』より。

・タイトル『Ladies and』の視覚も含めた書き言葉としての洗練さと声に出したときのギャップ。集中に〈Ladies and どうして gentleman〉の一句があるため機内アナウンスやショーの始まりのように威勢よく発声することを躊躇ってしまう。と、書いてから一句が「gentlemen」ではなく〈gentleman〉であることに気がついた。そうするとこの句は既存フレーズのずらしに加えて「推し」の構造や天皇制をも射程に入れた句として読める。つまり、「Ladies and gentlemen」という既存フレーズに〈どうして〉と突っ込みを入れているのではなくて「Ladies and gentlemen」というフレーズの場をイメージしたときに浮かぶのが「どうしてか(ひとりの)gentlemanだ」というようなニュアンスが〈gentleman〉だと出る。

・連作「照らしてあげて」が素晴らしい。平岡の川柳の発表媒体のひとつである「ウマとヒマワリ」で「川柳連作」と平岡は表記していたが、「川柳」に「連作」であると明示することの効果とは(少なくとも、暮田真名「OD寿司」のようなタイプとは異なる連作性ではあるだろう)。〈キックボードでかわいがる春キャベツ〉〈照らしてあげて生産農家が通るから〉〈脱・昆布の文字をひからせプラカード〉の〈春キャベツ〉〈生産農家〉〈脱・昆布〉あたりから農地を〈キックボード〉〈プラカード〉〈照らして〉あたりから広々とはしているが電灯の少ない空間をイメージする。具体的にはミレーの「落穂拾い」のような空間を。「落穂拾い」の中のサイズ感ではなくわたしたちがスマートフォンで「落穂拾い」をググって見ている画面上で茶々を入れているようなスケール感がこれらの句にはある。〈Googleはとてもかしこい幼稚園〉。視点は決して〈キックボード〉に載っていて〈春キャベツ〉をこつこつやっているわけではない。〈視界への脅迫として横に川〉。ここでの〈生産農家〉とはスマホサイズで可視化される大きさ/小ささの人間のサイズではないか。

・〈照らしてあげて生産農家が通るから〉句の複雑性。〈生産農家〉にフォーカスをあてるよう懇願しているのではない。あくまでも〈生産農家が通る〉からそこを〈照らしてあげて〉と呼び掛けている=生産農家はまだその地点にやってきてはいないが、遠くないうちにここにやってくることは確実。「照らす」とは光に湿度を与えるような言葉。穴子のタレのように。ex.卓上に塩の壺まろく照りゐたりわが手は憩ふ塩のかたはら/葛原妙子『朱靈』。

・言葉遊びよりも言葉遊びによって展開されたイメージに価値を認めたい=既成の概念や手垢のついた表現をずらすことではなくずらしたことで立ち現れるイメージの方に価値を置く=〈わたし〉でないことが即〈自然〉、即〈言語〉になるのではない。言語によって構築された世界観とはつまるところ〈わたし〉の拡大でしかないという袋小路を突破するヒントがここにはあるのではないか。〈七夕はナナホシテントウムシの略〉〈夕虹を抜けだしてきた沢庵だ〉〈羽子板のようにしてくださいと言う〉など。

・平岡直子が立ち返ってくるような句

〈夜と子どもが暗さを競うお祭りに〉〈夜を捨てるペットボトル集まれ光れ〉〈虫の音と革命のないカードゲーム〉……〈暗さを競う〉〈夜(よ)を捨てる〉〈虫の音(ね)と革命のない〉で一句になっている。