2019年7月27日土曜日

花を愛でたらーー仲田有里について



いろいろと厳しいことが続いたので久しぶりに花を買った。花屋で買う元気まではなかったのでスーパーの仏花とか置いてあるコーナーでスカシユリを買った。直前に花を買っていたおばあさんもおなじ花を買っていたことをレジで知ってちょっと嬉しかった。青系統の細い花がついていればなんでもよかったので薄紫の花がついているものを買ったが、スカシユリで検索してみるもまったくおなじ色合いの花が出てこなくて不安になる。薄紫の小ぶりな花はあくまでも脇役のような状態で中央にでかでかと開花前っぽいものが五つほどあるのだが、もしかしたらこれがスカシユリなのかもしれない。


見たことのあるおじさんが自転車で 花を愛でたらおしまいと思う/仲田有里


花を買うときに必ずといっていいほど頭をよぎる一首なのだけど、それでも変な説教臭さがないのは歌が決して皮肉の体をなしていないからだろう。いや、この一首だけがもし歌会で出されたりしたらそういった読みが出て花好きな方のなかにはむっとしてしまう人も出てしまうかもしれない。けれども、少なくとも半分身に沁みつつわたしがそうはならないのは『マヨネーズ』という歌集一冊を読み進める中でこの歌に出会ったからだ。〈目の前の人を力の限り振り回してみたい 自分のために〉を自分勝手な歌だと読まないのは文字通り〈自分のために〉歌われているからだろう。ただし、言い方がむずかしいのだが、これは作者が作者のために、ということではない。歌が〈わたし〉に徹することで読み手も共感や代入とは違った仕方で〈わたし〉のスペースを確保することが可能になる。自分の部屋を持ちましょう!と呼びかけることと具体的に自分の部屋の持ち方を示すことで各々の自分の部屋の持ち方に思考を誘うことの違い。

2019年7月22日月曜日

定型と力みーー大森静佳の近作について


せっかくリアルタイムで追えているのに批評されたり広く読まれたりするのは歌集としてまとまったときというのはあまりにも惜しいことだと思う。もちろん反対にたとえば花山周子『林立』のように歌集としてまとまったことで自分がまだ短歌を始めてさえいなかった頃の歌群を読むことが可能になることもある。要は、どちらもタイミングなのだけど、せっかくなのでいま熱心に追っている歌人のひとりである大森さんの『カミーユ』以降の歌をすこし読んでみたい。

と、書き出しておいてあれなのだが、まずは良くない歌について見てみたい。


おもいつめ深く張り裂けたる柘榴あなたの怯えがずしりとわかる

しんとした部屋でお米を磨いでいる 愛が反転したら吹雪だ

/大森静佳「ミイラ」『京大短歌』25号(2019年5月)


下句の〈あなたの怯えがずしりとわかる〉〈愛が反転したら吹雪だ〉に注目されたい。もちろん〈ずしりと〉や〈反転したら〉を文字通り受け取ることもできるだろう。そうすれば、〈ずしりと〉という表現によってずっしりとした感じが伝わってくる(〈わかる〉は読み手が〈わかる〉ことを手助けする単語でもある)。あるいは、〈反転したら〉を文字通り〈反転〉として読み〈愛〉と〈吹雪〉との反転を楽しむ。そうした読みはひとつの読みとしては決して否定されるものではない。しかし、ここには力みが発生しているように思う。誰の力みか?といえばもちろん作者の力みなのだけれどそもそも定型自体がひとつの力みだと考えることもできるだろう(短歌に慣れていない人の読み上げるぎこちない5・7・5・7・7の発声を思い出されたい)。力みにさらに力みが重なる。一方、こんな歌はどうか。


いつだって悔しさは勇み足で来る青すぎるカーディガンを干して

/大森静佳「アナスタシア」『文學界』2018年12月号


〈悔しさ〉を感情の力能と捉えた上での話になるが、この歌では文字通り〈悔しさ〉という感情の力能が〈勇み足〉で来てしまったがために文字面では突き抜けてしまった力みが定型の上では適度に脱力化され歌に奥行きを作っている。〈青すぎるカーディガンを干して〉という〈バスタオル2枚重ねて干している自分を責める星空の下/仲田有里〉と比べればあまりにも清々しいフレーズが後に続くのがなによりの証拠だろう(〈青すぎるカーディガン〉に清々しさを感じたのはこの連作に添えられている山元彩香の写真に拠る部分も大きいことは断っておきたい)。


ところで、『カミーユ』をリアルタイムからすこし遅れて読んだわたしが大森さんの歌で最初に感動した一首は『現代短歌』2018年10月号の〈両腕はロゴスを超えている太さふかぶかと波を掻ききらめきぬ〉だった。


両腕はロゴスを超えている太さふかぶかと波を掻ききらめきぬ

/大森静佳「熱砂」『現代短歌』2018年10月号


初読のときはそこまで読めていなかったのだが、この歌は「身体」と「言葉」(ロゴス)との二項対立的な歌ではない。むしろ最終的には〈ロゴス〉という一語にきらめきを与える一首だ。〈ロゴスを超え〉たところで〈ロゴス〉がお役御免とはならず両腕が波を掻いているまさにその場こそが〈ロゴス〉になっているのがこの歌のすごいところだ。


最後に『現代短歌』の作品連載から定型と力みの配合がうまくいっている歌をいくつか引用して終わりにしたい。




真夜中に観る映画には独特のすずしさがあって巻き戻さない

力を抜けば風の重さもわかるからしばらく肩に風をあつめて

傷つけてしまったことに動悸して秋だろう歯を何度も磨く

父母よ猫の木乃伊をつくりにゆこう水匂うソルトレイクシティへ

繭ごもる怒りのことを教えてよエスカレーターで手に触れるとき

表情のきりぎしにあなたはいてほしい夜風にしろく裂ける姥百合

2019年7月18日木曜日

生活の基本単位は月ベース

毎年恒例なのだが今年は収入が過去最高だとかで絶好調のためまさかの来ない可能性もあるのかと思っていた某某Kの更新手続きが先ほどやってきた。我が家と某某Kとの関係は少々変則的だ。最初の来訪でころっと契約させられてしまったためいわゆる契約する/しないでぐちぐちとやりあう段階は存在しなかった。その代り一年に一回お金を払う意志があるという契約をしなければならない。とはいえ、現在のところわたしは一円も払わずに済んでいる。おまけに、契約はしているもんだから定期的に払いなさいの書類は来るけれど一年に一回以外は契約の勧誘に夜な夜な来ることもない。なので、もしも定期的に勧誘に来られるのが嫌という方は一度契約して払わないのもひとつの手かと思います。と、ここまで書くとあたかもわたしは払わないのが当たり前だ、みたいに思われるかも知れないが、正直なところ、別に払ってもいいぐらいのスタンス。実際、まあまあ某某Kは観ているし。ただ、最初の(今から8年前か)契約手続きの後に母親に電話したら「そんなものは払わなくていい」と言われそのまま従っているうちにどんどん蓄積されてまとめて払うのは不可能な額になってしまって今にいたるというわけ。先週、奨学金のことを書いたけれど、わたしは総額よりも月額を気にするタイプの人間なので変な話月額でなんとか払える金額であれば延々払い続けてもべつに構わない。とはいえ、ようやく去年から労働時間が増えたことで引かれる税金諸々の多さを知ることになったのでやっぱりそういう諸々は少ないに越したことはないなとも思うのだけど、それでも生活の基本単位が月ベースなのは変わらない。生活の基本単位は月ベース。だから月詠というシステムには向いていると思う。今月しけてるとかいう理由で今日の午後今月2回目のネプリを配信し始めてしまったのでなーにが生活の基本単位が月ベースだとも言えるんだけどそこは大目に見てほしい。契約の手続きを終えてそのまま書き出したから言葉がまったく落ち着かなかった。大阪は雨です。最近は留学生かなにかで一年に十日ぐらいしか帰って来ない隣人が毎日のように帰って来るのでまた少し落ち着かない日々を過ごしている。この部屋に住み始めて8年…ではなかった!10年目になる。隣の住人は5回は変わった。いい加減環境を変えたいがまだまだ他力本願の日々は続きそうだ。

2019年7月11日木曜日

出島みたいに

書かなければならない形式的な書類がひとつある。集中して書けばおそらく一時間程度で終わる類のものなのだが、その一時間の集中が作れない。毎年書いている形式的な書類といえば、奨学金の返還猶予希望の書類だ。書き始めた頃は、返還猶予期間が最大十年だったのだが、うだうだ引き延ばしている間に最大十五年になった。夏頃に書類が届くので今年もそろそろである。今年こそ一人で生計を立てられるよう自立し一刻も早く返還できるよう努力します、と毎年のように書いている。社会的に見れば小さな、けれど個人的にはそれだけで数ヶ月あれこれと期待が持続するようなことがここ数年ようやく起こり始めた。しかしながら、それらはわずか一週間のネプリ配信期間中に感想がないかないかとエゴサを繰り返してしまうようなレベルのものだと考えることもでき、根本的な変化にはいたっていない。今年の冬に母親が精神病院に入院してしまったときもちろんそれは自分自身にとってもつらいことではあったけれど、根本的な変化が起こるかもしれない、という淡い期待を持ってもいた。要は、お金は使えば廻るのとおなじことで個人的に〈絶対値理論〉と呼んでいるものでもあるのだが、とにかく絶対値の値を大きくすることで環境に負荷を与えてやる。結果的に、根本的な変化は起こらなかった。引き延ばす、ということもそれはそれでひとつの生きる技法である。まだ、や、もしかしたら、を永遠に手放さないこと。そんなふうにして大阪でずるずる暮らしているわけだが、ただひとつの場所に消極的な理由でとどまり続けているにもかかわらず、周囲の環境はどんどん変化してもいく。信じられない人が大阪に越してきて隣駅のマクドでお茶をしたり職場内転職のようなかたちで大阪を離れた人もいた。秋にはまた新たな人々が大阪にやってくる。以前、東京に住んでいる人に「水沼さんが東京に来たらおもしろそうだけど、大阪に出島みたいにいるのもおもしろい」と言われたことがあった。出島みたいに、という比喩が気に入ったのでときどき自分が出島になっている姿をイメージする。そのときわたしがイメージする出島の位置は文字通り長崎にある出島なのだが、東京・大阪と大阪・出島は右から左にベクトルが向かうという点ではおなじなのでよしとする。きのう思いついた海老ペルーという言葉につぼっている。東京をあるいてメリークリスマス/今井杏太郎