2023年9月12日火曜日

『浅い夢』覚書

横書き100首。復職してから現在までに7首~15首単位で画像ファイル一枚にしてTwitterとInstagramに投稿していた短歌から100首選んだ。投稿時はscrapboxでメモしていた短歌を文庫本メーカーで縦書きに変えて完成としていた。

1首編集の過程で重複が出たが、暮田真名『ふりょの星』の例もあるし、と思ってそのまま採用(なんとでも言える口だけはある)。NewJeansをNew Jeansと本文で誤記していたので、同封のK-POPフリペで訂正したが、STAYCをSTYACと誤記している箇所が見つかった。英語だと編集の目が一気に落ちる。

瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.』に横書き中央揃えの、伊舎堂仁『感電しかけた話』にnoteタイプの横書きレイアウトを、青松輝『4』に本人のツイート画像のような横書きデザインを夢見たのだが、いずれも「本」ないし「商業」によって現実化しなかったので自分で作ってみたのが『浅い夢』

なんとでも言える口で文フリ前日につぶやいたが、良い線はついている。縦書き二行歌集は、わたしが短歌をはじめてからでも『翅ある人の音楽』『静電気』『meal』『人魚』『景徳鎮』などがあるが、横書き歌集は一冊も見ていない。

「横書き」だけが前面に出るのではなく、横書き短歌が違和感なく存在するレイアウトは可能だろうか。縦書き二行形式の、縦書き一行が一般的な短歌レイアウトへのちょっとしたずらしのような効果(先にあげた歌集が旧仮名、文語のいずれかもしくは両方を採用しているのは決して偶然ではない。このことは横書き歌集の夢を見た三冊の文体とも関連する話)まで横書きに望めるかというと微妙で、そもそも二行形式との関連で言えばスマートフォンなどのメモアプリやTwitterへの投稿時はほとんどすべての短歌が横書き二行にまたがっているはずなので、それを横書き一行にするのも縦書き一行にするのも大差ない、という考え方もできる。

良い読者ではないが、現代詩、とりわけ余白の少ない散文詩のレイアウトに可能性を感じることがある。これは、わたしが可能性を感じている新聞のレイアウトに一番近い印字形式だから、ではないか。どんなレイアウトやフォントでも同じように短歌が読める人もいるだろうが、わたしは無理で、コピー本をときどき作ってしまうのもコピー本だと「SimSun」というお気に入りのフォントが使えるから(印刷会社では対応してなくて、「オフタイマーをもうすぐ切れる」の時は慣れないフォントを使った)。と言いつつ、「SimSun」は縦書き短歌のほうが映えるんですが。

2023年3月4日土曜日

動的な鏡ーー橋場悦子『静電気』について

 橋場悦子『静電気』より20首選

相手からもわたしが見えるのを忘れひとを見つめてしまふときあり

閉めきつた部屋にも深く入(はひ)り込む切り取り線のやうな虫の音

好きな色「透明」と言ひしひとのこと思ひ出したり夕立の中

空つぽの弁当箱を持ち帰るやうだ心臓ことこと揺れて

いくつものルートがあるが乗り換へはいづれも二回必要である

白も黒もますます似合はなくなりて出勤時刻迫りくる朝

迷つても平気地球は丸いから 空の青さの沁みる十月

最後尾の札は立てかけられてゐて誰も並んでゐない店先

奥さんと呼ばるることの少なくて毎朝鍵を外から掛ける

この鍵で開くからわたしの部屋なんだ真つ暗闇に明かりをつける

信号のない交差点つつ切つてもつと遠くへもつとひとりに

ああこれは夢だと気づく夢の中片つ端から蓋開けてゐる

えんえんと西瓜割りしてゐる心地ひとり収まる深夜タクシー

日が暮れる前にどこまで歩けるかときどき桜の咲く帰り道

花冷えが一番寒い化粧したままいつまでも座り込む部屋

街路樹はなべて炎のかたちして空に届かず東京の夏

写真とは常に昔を写すもの鏡ほどにはおそろしくない

彩りにパプリカなども添へて出す これを独占欲といふのか

ぬひぐるみみたいだなんて本物のパンダ見ながら言つては駄目だ

夕暮れのとき長くして次々に知らないひととばかり行き交ふ


古着屋や美容室の鏡で見ている自分はワンルームでハンドミラーを見ている自分より遥かに魅力的だ。マンションのエレベーターや実家の全身鏡で見る自分はその中間ぐらい。鏡ってだいたいは矩形でその形から静的な存在だと思い込んでいたが、決してそうではなく、動的な存在なんだと『静電気』を読んで思った。〈夕暮れのとき長くして次々に知らないひととばかり行き交ふ〉という一首がただの都会のワンシーンには見えないように見えるのが不思議で、それは〈長くして〉に拠るものだろうか。あるいは(いや、同じことか)〈知らないひと〉ひとりひとりにきっちり出会っているからだろうか(その時間が〈長くして〉に拠って確保されているということ)。時間や空間が間延びしているのは〈ときどき桜の咲く帰り道〉を歩いていることからもよくわかるというか、このフレーズだけで満開の桜の季節までもを内包していて、その感覚が〈迷つても平気地球は丸いから〉という断言を可能にする。〈えんえんと西瓜割りしてゐる心地ひとり収まる深夜タクシー〉。おそらく後部座席の運転手と対角の位置に長さのせいで少し緩んだシートベルトをつけて座っているのだと思う(ほろ酔いの酩酊感なら真後ろに座るだろうが、だとするとドライバーの頭は西瓜にならない)のだけどこの一首に〈奥さんと呼ばるることの少なくて毎朝鍵を外から掛ける〉に通底するものを読むことも出来るだろう。余談だが、一首二段組の歌集に、長さに拠って一行になった歌が入り込んでいる歌集をはじめて見て、この点も『静電気』の世界線だな、と思った。

2023年2月12日日曜日

短歌定型の現在ーー山崎聡子の「つつ」「まま」「よ」について

コロナ禍の前のことになるけれど、短歌の「接続と因果」にこだわっていた時期があった。主に否定的な文脈で「つつ」や「まま」や「とき」といった語を作者が恣意的に用いてることを大阪や京都の歌会で執拗に指摘していた。それはいわゆる「つぶやき+実景」の+の崩壊、短歌定型という一点のみで成り立っていた接着剤が表面化してしまうことへの気持ち悪さだった、ろうか。

先日発売されたばかりの「あこがれ」をテーマにした短歌アンソロジー(「アンソロジスト vol.4」)を読んでいてびっくりしたのは、平岡直子と山崎聡子の文体の近さだ。ふたりの文体は、もはやつぶやきと実景のような二項が一首のなかで対立せずに抱えられていく。なかでも山崎聡子の文体はひとつの完成形と言えるだろう(これに対して〈女の子を裏返したら草原で草原がつながっていたらいいのに〉と歌った平岡の近作(「録画」「黒百合」)の文体は山崎的な文体をさらに極限へ押し進めたかたちだが、現在のわたしには評価は不能である)。

お砂糖がちょっと焦げたらカラメルで、夜で、絶望的で、弱火で、

ビル街にゆっくりと夕暮れがきて大量のフラミンゴの気配だ

/平岡直子「録画」「短歌研究」2023年1月号

つきあかりのしたの警察署のようにとてもしずかな身体だったわ

音漏れのようにじぐざぐ歩いてた 夜の港を、誰かが、誰かが、

/平岡直子「黒百合」「アンソロジスト vol.4」


手芸店に紫の石を持ったまま見えなくなっていたの夕暮れ

/山崎聡子「宝石」「アンソロジスト vol.4」

公園のトイレにくらぐら産まれつつ記憶のなかに蝉声はある

/山崎聡子「Birth」「短歌研究」2022年11月号

ここまでくるともはや「まま」や「つつ」の恣意性を指摘したいとは思わない。見事な歌だと思う。手芸店の一首は、子ども時代の回想を短歌一首に仕立て上げたとも読めるが、一方で、回想をいったん経由した上で短歌的な「現在」にも手が届いている。公園の一首は、わたしが産まれた「現在」(!)を記憶のなかの蝉声を媒介とすることで浮かび上がらせる。あの、蝉声の、もう鳴り止まないんじゃないか、という時間感覚が「つつ」そのものでもある。「蝉声はある」の「は」がとんでもなく凄く、この「は」によって記憶とわたしとの地位が反転しつつ接続する。


琥珀のなか火は燻って裸のまま生まれて死ぬという甘言よ

/山崎聡子「宝石」

トンネルに入って薄くなった影を垂らして八月のおわりの帰路よ

/山崎聡子「Birth」

余談として、山崎-平岡的な回想を経由した上で短歌定型という現在に回帰する文体が採用する間投詞が「よ」であることに長らく興味がある。この選択について、実作レベルでの必然性はほとんどつかめた(みたいです)のだけど、「まま」や「つつ」や「とき」を束ねるときに用いられる間投詞が「よ」であることに疑問を持つ読者や評者もいるだろう。これに対してはそれなりの時間を掛けて作ってみるとわかってくる、としかいまは言えないが、とにかくこの文体だと一首の判子(直近の現代短歌社賞選考会を参照)が「よ」になる。

さらなる余談として、山崎の第二歌集『青い舌』は「動詞と名詞を行き来するような歌集」だと以前わたしはつぶやいていたようだが、いま読むとかなり難しいことを書いている。重要なのは、「動詞」と「名詞」の「動」と「名」で、短歌一首は往々にして「A(接続詞)B」構文を取るのだけど、山崎-平岡文体はこの構文の安定状態が崩れている、ということだろうか。こちらも手掛かりになれば。

風がたき火に混じるその日を冬と呼び風に十字を切って遊んだ

水たまりを渡してきみと手をつなぐ死が怖いっていつかは泣くの

遮断機の向こうに立って生きてない人の顔して笑ってみせて

/山崎聡子『青い舌』


参考音源

The 1975 「I'm In love With You」

宇多田ヒカル 「BLUE」

NewJeans 「ditto」

Se So Neon 「NAN CHUN」

adieu 「旅立ち」

IVE 「LOVE DIVE」

ずっと真夜中でいいのに。 「消えてしまいそうです」

Clairo 「Sling」アルバム

Remi Wolf「Juno」アルバム

2023年1月9日月曜日

「角川短歌」1月号から10首選すれば抱負が自ずから出た

「新春一三三歌人大競詠」を拾い読みした感想をつらつらと。角川の新年大競詠を読んで毎年のように思うのは作り手としての自分とはまったく無縁の文体の歌人がほとんどを占めるということで、柔道なんかの「階級が違う」に感覚としては近い。わたしは「見かけは平易な口語文体」で「ねじれやメタが高度」(瀬戸夏子)な歌風(わからない、という方は勉強してください)なのだが、角川的な文体までくるとシンプルに歌を読む楽しみがある。7首というのは、基本的に、見切りがつけられない=次作へ期待が持ち越されれば、成功だと思う(流石に5回続けてつまらない作品を読んだ作者は追わなくなるので)。


目を上げて川をみるなりわが電車利根川鉄橋にさしかかりたれば/小池光

と言いつつ、10首連作枠から。「わが」で「わたしが乗っている」を担わせているのがうまい。加えて、「わが電車」と限定されることで無防備な(場所の限定がなかった)川を見る目が一気に座席へ収束する。縦二座席ではなく横に長いタイプのがらがらの電車の真ん中あたりに座っているような気がするのは両眼を使って見ているように感じるから。


ファン・ゴッホくるへるごとくまつきつき菜の花ばたけは菜の花を着て/渡辺松男

去年の終わりぐらいから渡辺松男こそライバルに相応しいという気持ちがむくむくと湧き上がっている。渡辺の歌を読むたびにどうしてここまで好感度が高いのかと首を傾げたくなるほどの嫌悪感を抱く。これでは鮭の産卵じゃんと思うが、みんないくらは好きなんだった。〈ひとが手を振れるに光る腋の下たいさんぼくの咲きたるごとし〉なんて実質松男型の〈ノースリーブの腕のひかりの苦しくて好きになつたらあかんと思ひき/大辻隆弘『景徳鎮』〉じゃんと思うが、実質をいかに魅せるかが個性なんですかねえ。


重なり合う星座はあらず親になることなく見上げる冬の夜空に/鍋島恵子

ぽつぽつと見かけるたびにこの作者の歌の立ち姿が良いなと思ってしまう。なぜだろう。


返ってきたメールとすごす冬の午後 いろんな色にライターがある/永井祐

〈メールしてメールしている君のこと夕方のなかに置きたいと思う〉然り、永井さんはメールを味わうのが相当お好き。LINEなんかも既読を付けずに受信したメッセージをしばらく馴染ませるようなタイプなのかな。もう少し踏み込むと山階基作品の優しさとの違いを考えるとおもしろいと思う。〈自転車のサドルをかなり上げたまま返したことを伝えそびれる/山階基「忘れながら数えながら」『短歌研究』2023年1月号〉


詞書:福岡では時々空飛ぶ桃を見ることがある どこもこんなものだろうか

空飛ぶ桃を眺める朝よ 染野さんの島田修三のうた何度も唱える/竹中優子

わたしも一年休職していたこともあり〈今休めば太宰治賞に間に合うと思わなかったと言えば嘘になる〉も含めて細かいニュアンスまであうあうとなる。〈チキンラーメン慌てて食べてひとしきり『あの日の海』と『人魚』を読んだ〉という一首をわたしは作った。


美しく重たくひどい着心地のコートに消えてしまいたいのよ/平岡直子

〈からっぽの頭で乗っている電車シュークリームの空気は甘い〉と迷ったが、この永井祐感を先に読んでからの一首を選ぶ。〈美しく重たく〉〈ひどい着心地の〉〈コートに消えてしまいたいのよ〉と三段階のギアチェンジがあるが、一首の読み下しとは反対に初二句の〈美しく重たく〉の脚韻(で合ってます?)が現在の心情として重たくのしかかってくる。


毛布からはみだす肩が冷たいと自律神経に雪が積もると/小島なお

「短歌テトラスロン」の30首もそうだったが、得体のしれない、スケールの異様に大きな相手を扱いそこね続けている。こういうときにわたしは「歌集で読みたい」と思うようだ。〈読むように抱き、それからはありふれた手順であかい月をみあげた〉〈浴室の磨りガラスにまで貼りついた私の声を剥がしておいて/小島なお「魚は馬鹿」『短歌研究』2023年1月号〉


風の誕生日それからわたくしの頭皮くるしむごとく波打つ/大森静佳

『シンジケート』にこんな歌なかったっけ、と思ったが、〈風の交差点すれ違うとき心臓に全治二秒の手傷を負えり/穂村弘『ドライ ドライ アイス』〉だった。『ヘクタール』の出版それから、みたいな歌でしょうか。


もう二度と起きないけれど僕たちは微粒子レベルでまた手をつなぐ/藪内亮輔

藪内さんの歌は着眼点は微粒子レベルなのに歌の骨格が太いという矛盾がずっとあり、もはやそれしかないが、それを作家性と呼ぶのだろうか。


私ばかりが愛情に飢ゑてゐて恥づかしい銀杏並木のコインランドリー/睦月都

研究も含めた競詠企画で読むと毎回フレッシュさを覚え、先の小島さんとは違った意味で「歌集で読みたい」と思う作者。わたしの中で歌集とはとにかく飽きずに最後までページを捲りたい本でしかない(ので、理想の歌集とはすべての歌をはじめて読むように読める歌集、になる。平岡直子の「まだ読み終わらない」という『シンジケート』評を思い出されたい)。スケールの大きさとフレッシュさ。いい歌集作るぞ。