2022年1月11日火曜日

平岡直子の歌について

 前回のエントリー「北山あさひの歌について」で書いたように、平岡さんの2021年ベスト連作は「ラッピング」だと思うのですが、それに匹敵する連作が『歌壇』2021年8月号の巻頭作品「根性論」20首だとわたしは思います。その「根性論」の一首目が〈海面は光れりお母さんでしょう迷惑メール送ってくるの〉というもの。読んだ当時〈お母さん〉という語彙の選択に随分驚いた記憶があります。けれども、あらためて読んでみるとその驚きというのは〈お母さん〉と〈迷惑メール〉との繋がり〈お母さん〉と〈迷惑メール〉という言葉を組み合わせたときに生まれた違和に起因していたのではないか(注意してほしいのは、これはいわゆる異なる二語の表面的な語の組み合わせの話ではなくて語と語の力学の話のことです)。そんなことを思ったのは「文藝」2022年春号の特集「母の娘」に平岡さんが寄せた連作に同様のイメージを詠った一首があったからです。

広告につるつる光る文字列のすべて母なる監視カメラだ

自販機のボタンを押すとき、お母さん、ステルス戦闘機を感じたい

/平岡直子「お母さん、ステルス戦闘機」

監視カメラって父なるか母なるかと問われたら従来は明らかに父なるものとして扱われていたと思います。そこに〈母なる〉という形容を足す。〈母なる監視カメラ〉はかなり歪な形態ですが、これをどう読むか。同じ特集の水上文「「娘」の時代ーー「成熟と喪失」その後」から補助線を引いてみます。と、書いたものの、わたしもこれは読んではじめてなるほどと思ったのですが、現代社会において「旧来の男性性の規範は、ポストフォーディズムにおける「柔軟」さの要求にさほど合致していない」「求められる能力、人間像は旧来の男性性というよりむしろ女性性と合致したものとなっている。社会から与えられる抑圧は「母の抑圧」によく似ている。」(なお、この一文は水上が文中で引用している信田さよ子に依る部分が大きいので詳しくは本文を参照してください。また、結論部分で水上が援用する宇佐見りん『かか』はわたしも大変大好きな小説です。水上の文章の最後の結論はあまりにもシンプルで拍子抜けしてしまいそうになるのだけど、一方で、この地点に到るまでのあまりにも長い道程こそを読むべきなのだと思います)。

短歌はどうか。この文章を読んであわせて思ったのが短歌における「基本的歌権」の問題でした。わたしは近い問題として以前に宇都宮敦『ピクニック』の読まれ方を通して考えたことがあったのですが(詩客短歌時評「2019年の『ピクニック』」)それを踏まえて問題をわたしなりにまとめると現代社会の抑圧というのは厳格さよりも甘ったるさが第一にある。これは、ベクトルが厳しさ→優しさから優しさ→厳しさへと反転している、ということである。平岡さんの歌というのはこうした文脈の中で読んでこそなのかなと思いますし、であるからこそ〈お母さん、ステルス戦闘機〉という本来対極的であるような二項が並置されるのでしょう。「ステルス戦闘機、お母さん」ではなく「お母さん、ステルス戦闘機」の順序であることにはどれだけ注意しても注意しすぎることはないと思います。また、連作「根性論」は〈ドラマに出てきた all-female cabinet わたしは電気ドリルがほしい〉という一首で幕を下ろしますが、「お母さん、ステルス戦闘機」の連作においても同様にべったりとした表象にはすべて裂け目が入れられています(第一歌集『みじかい髪も長い髪も炎』以降のスタンスを端的にあらわす歌として〈筋肉をつくるわたしが食べたもの わたしが受けなかった教育〉〈無造作に床に置かれたダンベルが狛犬のよう夜を守るの〉の二首を挙げたい)。

自販機のボタンを押すとき、お母さん、ステルス戦闘機を感じたい/平岡直子

もう一度この一首に戻ります。では平岡さんの歌が「お母さん、ステルス戦闘機」的な磁場につねに受動的に覆われているのかというと必ずしもそうではなく、この一首においてはあくまでも〈自販機のボタンを押すとき〉という能動性と受動性とが交差する場面であることがひとつのポイントだと思います。冒頭の一首〈Copyright 遠くへ飛んだ枝豆を母だと思ってついていったわ〉の〈遠くへ飛んだ枝豆〉はどうか。(わたしが)遠くへ飛ばしたとは書かれていない以上飛ばしたのは誰かわからない。それは父なるものかもしれないし母なるものかもしれない。けれども、ここでわたしは自販機の前に立ってボタンを押すのと同様のアクションを〈母だと思ってついていった〉に見たいと思います。それは短歌の一人称性を終点、収束点ではなく始点にすることでもあるでしょう。『歌壇』2022年1月号に平岡さんが書かれた「パーソナルスペース」という文章をわたしは革命についての文章と読みましたが、わたしの読みが間違ってなければここでいう始点とは「パーソナルスペース」のことでもあります。

穴をふさげる穴なんてない プリクラの顔に変わっていくつもりなの

リハーサルは終わりよ、整形モンスター、星のかたちの心を持って

わたしたちはぜんぶ帳消しにしよう蛍光ペンでお化粧しよう

/平岡直子「ラッピング」

2022年1月6日木曜日

北山あさひの歌について

北山あさひさんから「現代短歌新聞」2021年12月号をいただきました。『崖にて』以降の作品を『現代短歌』の連載や「うた新聞」などでおもしろく読んでいたこともあり、当号の巻頭作品も読みたく思ったからです。巻頭作品は「札束で〈地方〉の頬を叩くな」12首。「頬を叩く」から北山川の吟行付句「上の句下の句往復ビンタ」のネーミングセンスを思い出したりもしました。連作について。冒頭の詞書から「寿都町長選挙 争点は「核のごみ」」が一連のテーマであることは明白ですが、ここで考えてみたいのはタイトルにもある〈地方〉について。四首目、五首目を引用します。

薄暗い水平線を見ていたら〈地方〉という字がのぼってくるぞ/北山あさひ

貧しくてダサくて頭が悪いから〈地方〉は嫌い、でもペンダント

連作の冒頭三首では上記の寿都町長選挙のことが具体的に詠われます。なんだけれども、続く二首はそれが〈地方〉の問題として抽象化される。この点について、ひとつ補助線を引いてみます。『短歌研究』2021年8月号の瀬戸夏子「名誉男性だから」。「短歌を男性的であるとする論も女性的であるとする論も対になるものが想定されている時点でそれはどちらにせよ女なのだ。想定される「ではない」方はつねに女である。(……)釈迢空は女である、斎藤茂吉が男であるなら。斎藤茂吉は女である、土屋文明が男であるなら。」。この文脈に当てはめて考えてみると〈地方〉は〈中央〉「ではない」ものを指す言葉になります。では、すべては〈中央〉ー〈地方〉の対の問題に終始してしまうのか。ここで「うた新聞」2021年8月号に掲載された北山さんの連作「虚しさを打ち返せ」から一首引用します(余談になりますが、この連作は〈木をくぐるつかのま白き手裏剣のヤマボウシ見ゆ「山」と言えば「川」〉〈蟬穴にひらかれている蟬の眼よ 貸しは必ず返してもらう〉などおもしろい歌がたくさんあります。前の号の「今月のうたびと」は平岡さんでこちらも個人的には2021年の平岡さんのベスト連作だと思っているのでお買い求めの際は二号まとめてどうぞ)。

パフェグラスの中の階級あおざめるように翳ればもう降っている/北山あさひ

ツイッターをやっていると見ない日はないパフェ。パフェグラス。その構図を〈階級〉と表現できることに圧倒されます。わたしはパフェには明るくないですが、あのグラデーションのことを〈階級〉と呼び得ることはわかります。「札束で……」の連作だと〈よろこびの筋を支えるさびしさの腱 奈落より網引き揚げる〉が相当するでしょうか。〈札束〉の〈札〉は〈札幌〉の〈札〉でもありますね。短歌定型をパフェグラスひとつと考えるならば、底に落ちていくものが〈さびしさ〉である。けれども、パフェグラスであることによって底抜けはせず仮止めされていることがポイントではないか。「札束で……」の連作では五首目の結句〈、でもペンダント〉がそこに相当します。この一首は結句に入ってからの屈折が少しわかり易すぎるかなとも思うのですが、『現代短歌』の連載に何首か結句表現がおもしろい歌がありました。

境内の横で奇妙な体操をしている男 黒ずくめ 見ず

企画書に城と氷河と横顔をちりばめながら大人、しっかり

「冒険」『現代短歌』2021年9月号

夏なのか秋なのか憧れなのかフライドポテトなのか、ほおづえ

合歓の家、木蓮の家 思い出がただの付箋になるまでを、居て

「ゴールデンタイム」『現代短歌』2022年1月号

一首目の結句〈見ず〉にはびっくりしました。とはいえ、その唐突さに驚いたわけではないのは〈黒ずくめ 見ず〉の「ず」の繰り返しがあったからだと思います。肝がすわっている。残りの三首は挙げては見たものの正直なところまだ判断保留というところです。これでほんとうに一首として立っているいるのだろうか。そこで一首を支えようとしている言葉「しっかり」「ほおづえ」「居て」には一貫性があるように思います。

最後にもう一度〈、でもペンダント〉について。ペンダントは首もとだけにフォーカスすると結句的なビジュアルですが、身体全体で見れば初句二句の間ぐらいの位置にあります。事実、この一首のなかでペンダントがずっと沈みっぱなしかというとそうではない。〈、でもペンダント〉はバネにもなる。『崖にて』に〈ロマンチック・ラブ・イデオロギー吹雪から猛吹雪になるところがきれい〉という一首があります。北山さんの歌はイデオロギーや制度を相対化する眼差しを持ちつつもエネルギーそのもののポテンシャルは決して手放さない。吹雪を猛吹雪にしてしまう(イデオロギーとエネルギー(力)については『短歌研究』2021年8月号の平岡直子「「恋の歌」という装置」に詳しく書かれています)。北山さんがツイッターで新年の抱負として「今年はロマンチックな歌を詠みたい」とつぶやいていてあらためてそのことを思いました。