2022年11月13日日曜日

永井祐一首評①②

来年は3回告(こく)ると君は言うコーデュロイのきれいなシャツを着て

/永井祐『広い世界と2や8や7』

わたしはこの歌に色気を感じるけれど、何に由来した色気なのだろう? 告(こく)る、とは、意中の人間に向かって自分の好意を伝えること。それを来年は3回やるらしい。同じ人に? まったく別の人に? というのは、おそらくどちらでも良くて、とにかく来年は3回告るぞ、という宣言、その清々しさ。の、空気は同じ連作の〈来年の抱負を0時のカラオケで言い合うクリスマスイブがいい〉の一首でだいたい補完出来てしまうのだけど、それだとただの良い空気感の歌になってしまう。おそらく、告られる相手がわたしたちの完全に外側にいて、もしかしたらこの発言を聞いている周りの人間ですら、いや、言っている当人ですら君(自分)が誰に告るのかわかっていないのだろう。クリスマスイブにコーデュロイのシャツなのも、いくらコーデュロイのシャツの厚さをもってしたとしても薄着に違いないが、高級なジャケットやマッチョなジャケットを羽織っているよりも身の丈に合っているというか、パリッとした生地感とすっぽりと出た(顔というより)頭の清々しさを際立たせている。わたしは以前から永井祐と瑛人の近接性を感じているけれど、一首に感じた色気とはそうした類いの香りのことだったのかもしれない。

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あらためてまじまじとながめてみれば人は誰でもドMにみえる

/永井祐『広い世界と2や8や7』

言うまでもなく〈人は誰でもドMにみえる〉のは〈あらためてまじまじとながめてみ〉ているからである。リワークセンターという復職の学校的な場所に通っていたときに認知行動療法という考え方を知った。かんたんに言うと、出来事そのもの(一次)ではなく出来事の受け止め方(二次)を見直すことで(不調のときには分かちがたく結びついている)出来事そのものと出来事の受け止め方とを分離し、そのあいだに柔軟な思考回路を構築する考え方のことで、この関係性は千葉雅也『動きすぎていけない』第8章で整理されているドゥルーズ『マゾッホとサド』のサディズム(イロニー)とマゾヒズム(ユーモア)に対応している。永井祐はアイロニーの人かユーモアの人かと言われたら、ユーモアの人(そもそも短歌定型の枠組みで歌を作っていることが既にM的なん)だけど、出来事そのものにアタックしないというのは、見ようによれば、本質を突き詰めない、根本に向きわない態度としてヌルい、と感じる大学生がいるかもしれない。他ならぬわたし自身三十一歳になった現在でも、そう思うことがないことはないが、一方で、広い世界とは、あらためてまじまじとながめた先にあるものなのだろう。

2022年11月7日月曜日

ラッピングーー平岡直子について

2010年代後半にわたしは自分宛にふたつの短歌を受け取った。ひとつは〈再演よあなたにこの世は遠いから間違えて生まれた男の子に祝福を/瀬戸夏子〉。ひとつは〈灯台が転がっているそこここにおやすみアジアの男の子たち/平岡直子〉。

リアルタイムでわたしに強烈なメッセージとして訴えてきたのは瀬戸の〈間違えて生まれた男の子に祝福を〉だったが、この男の子が祝福されるのは(あなた=男の子と読むなら)あくまで〈あなたにこの世は遠いから〉であり、わたしがわたしとしてここに在るからではない。そのズレは当時のわたしにはむしろ救いであったが、2022年の現在はその限りでない。

平岡の一首はどうだろう。そもそもそうした枠組みでいままで自分のことを考えたことがなかったが、立派な日本男児であるわたしも他ならぬ〈アジアの男の子たち〉のひとりなのだ。ハロー・アイ・アム・アジアン・ボーイ。アジアはアジアでも東南アジア上空を飛行中のような気分になるのは、〈灯台〉という語彙(〈そこここに転がっている〉!)がラッタウット・ラープチャルーンサップ『観光』の記憶と重なり合うからだが、加えて、〈アジアの〉と限定されたことでかえって自由にアジア各地を転々と移動することができる。今日は韓国、明日はフィリピン。来年は神戸にも行きたい。

そんなアジアの男の子であるわたしの内部でいま猛烈な勢いで軋んでいるのが〈君に会いたい君に会いたい 雪の道 聖書はいくらぐらいだろうか/永井祐〉。君に会いたい君に会いたい、という軋みは〈秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは/堂園昌彦〉の普遍/不変的問いを悠々と超えていく。


平岡直子20首選

『みじかい髪も長い髪も炎』(2021.4)

腹ばいで読むとき歌はくるくると全方角に散っていく花

食べかけのベーグルパンと少年と置き去りの壊れた自転車

まつ毛というまつ毛が電波狂わせて終夜よい子でいるキャンペーン

じゃあずっとここに立ってる廃線の線路がポケットに流れこむ

灯台が転がっているそこここにおやすみアジアの男の子たち

なんとなくピンとこなくて sympathy って言い直す 言い直す風のなか

東西も南北もない地図のうえ線路はこの世の刃として伸びよ

記憶が風に混ざってだんだんわからなくなるけれど、蜘蛛と雷

喪服を脱いだ夜は裸でねむりたいあるいはそれが夢の痣でも

「歌壇」巻頭作品(2019.11)

ページの端がちょっと折れても元気でね若者や恐竜のようにね

トイレから戻ってきてもそこにいて、グループ展の小さなチラシ

短歌同人誌「外出」(2019.5-)

今日はとても長生きをした行きずりの会話たくさん耳に注いで

タクシーのなかはちらちらしてたけど、目次に目を通すだけで一生?

雨ざらしの家具にみえても構わないから身長を書き込まないで

垂直に口開く鯉ベルトごと脱ぎ捨てられたズボンのように

深呼吸しろと言われてするときに散る画数がばらばらの文字

うた新聞(2021.7)

穴をふさげる穴なんてない プリクラの顔に変わっていくつもりなの

リハーサルは終わりよ、整形モンスター、星のかたちの心を持って

版画にて刷られたる鮒 好感を持たれることに命を賭けて

わたしたちはぜんぶ帳消しにしよう蛍光ペンでお化粧しよう

平岡直子は直接性の歌人だ。直子だから? 直子だからってのもある。余談だが、〈垂直に口開く鯉ベルトごと脱ぎ捨てられたズボンのように〉という平岡の一首は〈平岡直子〉という四字についての一首だ。

直接性というキーワードから平岡直子は一元論者であると思われるかもしれないが、ここは慎重に判断するべきだろう。というか、おそらくそうであるからこそ、平岡は断言のあとに必ず断言を覆す。

「短歌は汎用性のある着ぐるみだ。短歌は汎用性のある着ぐるみではない。一人として同じ内面を持つ人間はいないとみなすのも、全員が同じ内面を持っているとみなすのも、ほとんど同じことなのではないか。」平岡直子「パーソナルスペース」短歌総合誌「歌壇」2022年1月号

直接性とは、「ほとんど同じ」であることの歓喜と悲劇にのたうち回ることだ。

「短歌って、極論を言うとぜんぶが幻想的なんですよね。韻文という性質上、散文のモードではちょっと考えられないくらい非現実的な表現にまみれているものなので。(……)でも、ぜんぶが幻想的だということは、ぜんぶが幻想的ではないとも言えてしまうので、そこから何か取り出して喋るのは難しい。」「座談会 幻想はあらがう 大森静佳×川野芽生×平岡直子」文芸誌「文學界」2022年5月号

どちらかというと裏返されながら見せているむきだしの映画館 『みじかい髪も長い髪も炎』

女の子を裏返したら草原で草原がつながっていればいいのに 「外出」創刊号

以前にも書いたが、わたしが平岡の近作でもっとも良いと思うものは「ラッピング」12首(「うた新聞」2021年7月号)だ。平岡の短歌を読んでいくなかで焦点をそこに合わせすぎることには賛成できない〈穴〉という(キー)ワードを自己言及的に用いた〈穴をふさげる穴なんてない〉というテーゼから出発し、途中、一首の構造上、作者の吐露と読む必要性はないが、わたしはそう読んだ〈好感を持たれることに命を賭けて〉というショッキングなフレーズが挟まる一連は〈わたしたちはぜんぶ帳消しにしよう蛍光ペンでお化粧しよう〉という一首で締められる。内容面としては「ラッピング」というより「トッピング」のような連作だが(一方で、短歌定型や連作という型、枠組みに力点をおけば、この連作は「トッピング」ではなく「ラッピング」なのだろう)この連作の理論的バックボーンとして読めるのが、平岡が「外出」創刊号に書いた「短歌には足し算しかない」という文章(名文!)だ。

かんたんに時系列をおさらいしておくと、「外出」創刊号は2019年5月に刊行されている。その前年の2018年に平岡は「外出」の同人である染野太朗とともに「日々のクオリア」を完走していて、くだんの「短歌には足し算しかない」はその続編のようなスタイルで書かれた文章だ(表面的には、永井祐と宝川踊の一首評二日分だが、一方で、この文章は一首評一本が見開き二頁×二の四頁全体で「短歌には足し算しかない」と題されていることにも注意が必要で、これは上記の「ラッピング」と「トッピング」の関係性ともパラレルだろう)。

それぞれの結論部(最終段落)を引用する。

「かけ算やわり算によって都合よく情報のサイズを変更したり、正確に復元したりできるかもしれないというのは幻想だと思う。短歌には足し算しかない。作者にできるのは書き加えることだけで、読者にできるのは歌にさらになにかを書き加えることだけである。」(永井)

「欠損した言葉は歌の背後にある身体性を回復させない。だから、この歌はたしかに透明なのである。」(宝川)

短歌実作と短歌の批評をおこなっているわたしたちには「短歌には足し算しかない。作者にできるのは書き加えることだけで、読者にできるのは歌にさらになにかを書き加えることだけである。」というシンプル極まりない主張がどれだけ困難で勇気を必要とするものか身をもって理解できるはずだ。

2022年10月30日日曜日

〈文学〉が遠いわたしへーー2022年の短歌について

「過去や歴史はいわば時間的に手の届かないものであり、光や闇、心は空間的に手の届かないものである。著者(水沼注:大辻隆弘)の関心は、そのような今ここに形を持っていない物事に対して、ことばの世界でしかなしえない操作を施すことにあるのではないのだろうか。その動機には、届かないものへの憧憬があり、それらにことばの上で形を与えたり、あるいは形あるものと形なきものの境界を崩したりといった操作は、現実世界において届かないもの、届きようないものを、ことばの世界において手元に引き寄せようとする意志の表れではないだろうか。」山川築「ことばへの信頼」(大辻隆弘『水廊』歌集評)短歌同人誌「波長」創刊号

山川がここで述べている営みを端的に一言で〈文学〉と呼ぶならば、わたしは〈文学〉に批判的である。いや、わたしにはその〈文学〉こそが「現実世界において届かないもの、届きようのないもの」に他ならない。〈文学〉が「届きようのないもの」であるわたしには「ことばの世界でしかなしえない操作を施す」とは、実際にどういうことなのかが皆目わからない。ところで、あなたは渡辺松男が好きだろうか? そうであるならばあなたは〈文学〉に肯定的ということになる。わたしは〈文学〉に批判的なので渡辺松男を好まない。渡辺松男を好まないので〈文学〉に批判的である。

「そもそも短歌は「文学」である必要はあるのだろうか? わたしは、短歌は、(自己を表現してこそ、という)「文学」である必要はとくにないと思っている(そしてまったくおなじくらい、同時に、短歌は「文学」であってもいい、とも思っている)。」(瀬戸夏子「人がたくさんいるということ」「文學界」2022年5月号)

どのような実感から出発するにせよ短歌を読み書きする人間がここ数年で増えたことは否定のしようがないが、「文學界」という文芸誌で短歌特集が組まれたことが象徴するように、ここ数年で増えたのは「文芸」としての「短歌」を好む人間の数なのだと思う。あなたは文芸が好きだろうか? 文芸とは、「言語によって表現される芸術の総称。詩歌・小説・戯曲などの作品。文学。」(goo辞書)のことである。あなたは「言語によって表現される芸術」としての「文学」である「短歌」が好きですね?

現在の短歌シーンにおける雑な二項対立構造として「言葉派」VS「人生派」(藪内売輔)「夢」VS「生活」(青松輝)のふたつが名高いが、わたしはここに瀬戸夏子のふたつの発言「「文学」であってもいい」短歌」 VS「「文学」である必要はとくにない」短歌」、「大森静佳」(スクール)VS「永井祐」(スクール)(第八回現代短歌社賞選考座談会 「現代短歌」2022年1月号)も加えたい。

ところで、この議論で現状得をするのは「言葉派」「夢」側の短歌実作者である、とわたしは考えるが、これらの二項対立が、短歌の歴史上、圧倒的マジョリティだった「人生派」とその延長線上にある「生活」「体感リアリズム」(特集「Anthropology of 60 Tanka Poets born after 1990」対談 大森静佳×藪内亮輔「現代短歌」2021年9月号。なお、対談内において、藪内は「体感リアリズム」の裏表になる概念として「祈り」「ヒロイズム」という言葉を使用している)が先行した上での言説であることには注意する必要があるし、冒頭で〈文学〉に批判的だとは述べたが、なにもわたしは〈文学〉との二項対立上で議論をしたいわけではない。わたしがしたいのは短歌一首上での議論である。

「認識をことばに移し替えるとき、なにを認識したかだけでなく、どのように認識したのかもおのずと表現される。先に引用した歌(水沼注:のつちえこ、池田輔、水沼朔太郎の三首)は、それぞれに題材も詠まれ方も異なるけれど、認識の仕方、過程を表現している点で、指向が似ている。

歌を読み解くことで、世界がどのように認識されているのかが明らかになっていく。それは、歌を読むという行為の刺激的な部分のひとつであり、他者の存在と世界の豊かさを濃密に感じる体験でもある。筆者はそんな体験をさせてくれる歌が好きだ。」山川築「認識の歌」「未来」2022年9月号

短歌は一首が読まれる際に「既存の社会的・文化的通念」が前提とされ、往々にして「マジョリティの了解の範疇へと回収され」てしまうことは既に小原奈実が指摘している(「沈黙と権力と」「短歌」2019年10月号)が、小原の文章で引用されているのが〈ゆふぐれに櫛をひろへりゆふぐれの櫛はわたしにひろはれしのみ/永井陽子〉であるように(と、書いてしまうのはあまりに意地悪だろうか)小原の議論もわたしには〈文学〉である「短歌」の話であるように思える(念の為、付け加えると、そのことの価値を否定するつもりは毛頭ない)。それに対して、上記の山川の文章は〈永井祐の模写をしている〉わたしのような実作者にも勇気を与えてくれたし、わたしが口にする「永井祐」とはつねにこのレベルでの話だ。

モデルケースに「永井祐」を立てることで生まれる問題点については、瀬戸夏子が批判的に指摘し(「死ね、オフィーリア、死ね(中)」「短歌」2017年4月号)、平岡直子がユーモアとして表現している(「パーソナルスペース」「歌壇」2022年1月号)。また、実作面においては、仲田有里『マヨネーズ』との読み比べや、永井祐だけでなく斉藤斎藤的袋小路のアップデートとして、乾遥香の歌群を読むことが有効だろう。補足として。今回は、個人的な優先順位が低かったので言及しなかったが、「短歌ブーム」的な文脈では、宇都宮敦『ピクニック』が重要な一冊だと考える。

2022年6月1日水曜日

平岡直子『Ladies and』について

以下、引用句はすべて平岡直子川柳句集『Ladies and』より。

・タイトル『Ladies and』の視覚も含めた書き言葉としての洗練さと声に出したときのギャップ。集中に〈Ladies and どうして gentleman〉の一句があるため機内アナウンスやショーの始まりのように威勢よく発声することを躊躇ってしまう。と、書いてから一句が「gentlemen」ではなく〈gentleman〉であることに気がついた。そうするとこの句は既存フレーズのずらしに加えて「推し」の構造や天皇制をも射程に入れた句として読める。つまり、「Ladies and gentlemen」という既存フレーズに〈どうして〉と突っ込みを入れているのではなくて「Ladies and gentlemen」というフレーズの場をイメージしたときに浮かぶのが「どうしてか(ひとりの)gentlemanだ」というようなニュアンスが〈gentleman〉だと出る。

・連作「照らしてあげて」が素晴らしい。平岡の川柳の発表媒体のひとつである「ウマとヒマワリ」で「川柳連作」と平岡は表記していたが、「川柳」に「連作」であると明示することの効果とは(少なくとも、暮田真名「OD寿司」のようなタイプとは異なる連作性ではあるだろう)。〈キックボードでかわいがる春キャベツ〉〈照らしてあげて生産農家が通るから〉〈脱・昆布の文字をひからせプラカード〉の〈春キャベツ〉〈生産農家〉〈脱・昆布〉あたりから農地を〈キックボード〉〈プラカード〉〈照らして〉あたりから広々とはしているが電灯の少ない空間をイメージする。具体的にはミレーの「落穂拾い」のような空間を。「落穂拾い」の中のサイズ感ではなくわたしたちがスマートフォンで「落穂拾い」をググって見ている画面上で茶々を入れているようなスケール感がこれらの句にはある。〈Googleはとてもかしこい幼稚園〉。視点は決して〈キックボード〉に載っていて〈春キャベツ〉をこつこつやっているわけではない。〈視界への脅迫として横に川〉。ここでの〈生産農家〉とはスマホサイズで可視化される大きさ/小ささの人間のサイズではないか。

・〈照らしてあげて生産農家が通るから〉句の複雑性。〈生産農家〉にフォーカスをあてるよう懇願しているのではない。あくまでも〈生産農家が通る〉からそこを〈照らしてあげて〉と呼び掛けている=生産農家はまだその地点にやってきてはいないが、遠くないうちにここにやってくることは確実。「照らす」とは光に湿度を与えるような言葉。穴子のタレのように。ex.卓上に塩の壺まろく照りゐたりわが手は憩ふ塩のかたはら/葛原妙子『朱靈』。

・言葉遊びよりも言葉遊びによって展開されたイメージに価値を認めたい=既成の概念や手垢のついた表現をずらすことではなくずらしたことで立ち現れるイメージの方に価値を置く=〈わたし〉でないことが即〈自然〉、即〈言語〉になるのではない。言語によって構築された世界観とはつまるところ〈わたし〉の拡大でしかないという袋小路を突破するヒントがここにはあるのではないか。〈七夕はナナホシテントウムシの略〉〈夕虹を抜けだしてきた沢庵だ〉〈羽子板のようにしてくださいと言う〉など。

・平岡直子が立ち返ってくるような句

〈夜と子どもが暗さを競うお祭りに〉〈夜を捨てるペットボトル集まれ光れ〉〈虫の音と革命のないカードゲーム〉……〈暗さを競う〉〈夜(よ)を捨てる〉〈虫の音(ね)と革命のない〉で一句になっている。

2022年5月11日水曜日

暮田真名『ふりょの星』について

アサガオに寿司を見せびらかしていい?

モナリザの肩の隣に寿司がある

/暮田真名『ふりょの星』

以下、『ふりょの星』からの引用は〈〉で示す。

川柳というと言葉で言葉の意味をずらすようなイメージがあるが、これらの句はそうしたものとは微妙に違うと思う。もちろん〈寿司を見せびらか〉す相手に〈アサガオ〉を選んだり〈モナリザの肩の隣に寿司〉を存在させたのは他ならぬ言葉なのだけど、これらは一方で映像としてイメージすることが可能でもある。一句目なんかは実際にやろうとする意志があればできる。二句目は本場のルーブル美術館では出来ないだろうが、モナリザの絵をスマホでダウンロードなりスクショするかしてその上から寿司のスタンプを押せばそれらしくはなる。これらの句を面白く読んだのはこのような想像可能性も込みでのことだった。

〈ウェットティッシュの重さで沈む屋形船〉という句でも屋形船を沈めてしまう大量のウェットティッシュを想像するよりもウェットティッシュはウェットティッシュのままその重さで沈んでしまうミニチュアの屋形船を想像してみる方をわたしは好む。ウェットティッシュの容れ物自体が言われてみれば屋形船みたいだし、表紙絵のミニチュア感を連想しても良い。〈旅客機を乾かしながら膝枕〉〈扁桃腺がジャングルジムだったら〉〈どうしてもエレベーターが顔に出る〉〈コップの水にひそむ交番〉こうした句においてもミニチュア化しているのは「旅客機」「ジャングルジム」「エレベーター」「交番」の方だ。

諦念のように集中で繰り返される〈やがて元通り嘘になるだろう〉とは、言葉の次元のことではないと思う。句そのものは元通りにも嘘にもならない。特に川柳は書かれてあることを書かれてあるままに読む文芸だと思うから。〈やがて元通りに嘘になる〉ものとはわたしたちの世界におけるスケールの序列(スケールカースト)の方だ。

他には流石に代表句として小池さんに引用されすぎの感があった〈いけにえにフリルがあって恥ずかしい〉を表題で「いけフリ」と呼んだりする精神や〈涕泣の似合う木馬にしたい〉〈緞帳よりも重たい砂金〉の漢字を「さんずいに弟」「いとへんに段」で検索する動作に川柳を感じた(〈弟的な寿司なのかなあ〉)。単なる偶然かもしれないが、数冊しか読んだことのない俳句の句集で読めない漢字を検索するときは先の「さんずいに弟」「いとへんに段」のようにピンポイントで当てにいくことは難しくなんとなく似てる形の漢字で代替して検索して絞っていく漸進的な検索方法を取った記憶がある(〈桜を湯がく できないなんて〉)。

静電気でまかなう旅の交通費

/暮田真名『ふりょの星』

2022年4月15日金曜日

対立はどこにあるのかーー高橋たか子『誘惑者』、松浦理英子『ナチュラル・ウーマン』読書メモから

〈まわすたび軋むキューピー人形の首はつぶせばつぶれる軽さ/平井俊『現代短歌』2018年10月号〉……するすると読め進められるのは『ナチュラル・ウーマン』。所収の三篇ともに「腹這い」の描写があった。「マットレス」も印象的。『誘惑者』で印象的だったパイプの熱(松澤龍介から鳥居哲代へ)が『ナチュラル・ウーマン』でも折々に(火、煙、根性焼き、キスマーク)。「「火口の中はぱあっと明るい」(『誘惑者』)」。言葉を投げることの大切さ。言葉が次の反応なり行動を生む(『ナチュラル・ウーマン』)。見掛け上の結果に反して『誘惑者』は行動の原因を言葉で問い続けた(最後の最後で織田薫の数え上げが鳥居哲代に反応を引き起こす)。鳥居哲代の頭から離れなかったのは砂川宮子の言葉だった。『誘惑者』で『ナチュラル・ウーマン』の容子に一番近い登場人物は砂川宮子だろう。織田薫回に鳥居哲代が感じた反復の滑稽さ。「「芝浦桟橋はまだでしょうか」と、鳥居哲代は言った。軀じゅうに笑いのようなものが突っ走った。」。『ナチュラル・ウーマン』のラストのコントラスト。「一段階段を下りた花世に背を向けて屋上へ駆け上り出した時に、下から声が追いかけた。「最後まで私たちらしいわね。あなたは高みへと上り、私は下降しーー」(『ナチュラル・ウーマン』)」。『ナチュラル・ウーマン』で一番好きな登場人物は容子、『誘惑者』では砂川宮子(アイスクリーム!)。瀬戸夏子「と」平岡直子問題。瀬戸夏子と平岡直子は同時には愛せない問題(瀬戸夏子、平岡直子に服部真里子、大森静佳も加えて「作品」というフィクショナルな領域で愛してみせたのが笹川諒『水の聖歌隊』だろう……〈月曜には月曜の姉がいることを昼、そして夜の日記に記す/笹川諒「テレーゼ」『短歌』2021年9月号〉。『誘惑者』を読みながら終盤で思い出したのが〈熱砂のなかにボタンを拾う アンコールがあればあなたは二度生きられる/平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』〉だった。しかし、大枠で言うなら『誘惑者』が瀬戸夏子的で『ナチュラル・ウーマン』が平岡直子的。穂村弘は『シンジケート』派か『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』派か。穂村単独でも問題になりうるが、この選択が雪舟えま『たんぽるぽる』の評価にも連動する(瀬戸夏子『はつなつみずうみ分光器』)ことの方に関心がある。『手紙魔まみ』「も」『たんぽるぽる』「も」は不可能なのか。わたしは残念ながら穂村弘自体にあまり関心がなく『たんぽるぽる』は批評者としては惹かれるが作者として、読者としては惹かれない(「現代短歌の無意識」参照)。かつて、瀬戸夏子は歌人・穂村弘と批評家・穂村弘の分裂を指摘したが、二次創作短歌の興隆により、現在は多くの歌人が、歌人・批評家・読者の三幅対になっているように思える。わたしの話をする。わたしは近頃は永井祐の歌にある官能性をもう少し前景化できないかと考えている。意外にも永井祐解釈において官能的なのは平岡直子よりも瀬戸夏子。『現実のクリストファー・ロビン』の永井祐評(!)。「成功した永井の歌には局部的な快楽ではなく、けだるい、しかしたしかに全身的な快楽がながれている。全身的であるがゆえに、永井の歌のうち、成功しているものほど極端に凹凸がすくなく、寸胴であり、顔もない。それこそが最上のバランスになる。」。「永井祐の歌のうち、あまりに直線が勝ちすぎるものについては、私はその恩寵を感知することができない。しかしその平板なフォルムが反射=光のゆがみによってーーたとえば、名詞の出現を呼びこむときーーその美しい名詞の出現は、凹凸をもたない器の不可視の凹凸のなかに浮かびあがってくるように思える。私はその様子を、もう、何度もみたことがある。」(瀬戸夏子「私は見えない私はいない/美しい日本の(助詞の)ゆがみ(をこえて)」『現実のクリストファー・ロビン』)。〈二種類(ふたしゅるい)色があるのでお好みを的にさびしい・さみしい選ぶ/永井祐『広い世界と2や8や7』〉。「葛原妙子と森岡貞香が「斎藤茂吉をこっちにとっちゃおう」と談合していたというエピソードが好きで、わたしはこのごろ「永井さんをこっちにとっちゃおう」とだれもいない家のなかで虚空に向かって話している。」(平岡直子「パーソナルスペース」『歌壇』2022年1月号)。「指を休ませないで花世は話しかける。/「お金が入ったら一緒に住もうか。」/「うん。」/「でも、きっと無理よね。」/「無理かしら?」/「無理よ。」/「無理なの?」/「どちらかが死ぬわ。」/「私が死ぬことはないだろうけど。」/花世は口を閉した。私は再び陶酔境に入った。」(『ナチュラル・ウーマン』)。

2022年4月14日木曜日

現代短歌の無意識(再掲)

初出はnote(2021年5月8日)

雪舟えま『たんぽるぽる』歌集一冊の面白さはわかるのだけれど、それに触発されて歌ができるということがわからない。自分の場合に置き換えてみると、かつて永井祐を読んで面白いくらいに歌ができる時期があった。原理的にはそれとおなじ仕組みなのだろうが、それは信仰と反発を同時に生む。『はつなつみずうみ分光器』でいうところの藤本玲未、山崎聡子、初谷むい。遡って、今橋愛、盛田志保子、飯田有子。柴田葵は笹井宏之賞時代の兵庫ユカだろうか。収録のタイミングに間に合わせてほしかったが、橋爪志保、平岡直子。『みじかい髪も長い髪も炎』のあとがきにあったように「短歌はふたたびの夢の時代に入った」のだと思う。しかし、この一文で何度も反芻したくなるのは不思議なことに「ふたたびの」の「の」だ。〈食べかけのベーグルパンと少年と置き去りの壊れた自転車/平岡直子〉。平岡直子を筆頭に瀬口真司、青松輝。穂村弘も夢の時代のキーパーソンになるのだろう。『シンジケート』の新装版はもう間もなく。わたしが見る夢は現在のツイッター短歌界隈のように混乱かつ退屈を極めるものであってはならない。少なくともその混乱の抜け道になっていくべきだ。辛うじて現在はその抜け道を寄り道的に享受する余裕がわたしにはあるが、皆がふたたび夢を食い合うようになればあっという間にワンルームに引き返すことになるだろう。雪舟えま『たんぽるぽる』(5刷)の帯を東直子が書いている。藤本玲未『オーロラのお針子』の帯を東直子が書いていることは東直子が監修者だから理解できるが、『たんぽるぽる』の帯を東直子が書いていることに何度も驚く。東直子も穂村弘も雪舟えまもリアルタイムでないからこそ驚く。初谷むいが『地上絵』の帯を書いているぐらいの感覚。その初谷むい、藤本玲未、前田康子の章を『はつなつみずうみ分光器』では面白く読んだ。とりわけ前田康子は『現代短歌』との付き合いなんかも薄っすら感じつつ椛沢知世の歌のクリティカルポイントが掴めた。それから吉野裕之。冒頭の引用を読んでわたしは爆笑したが、阿波野巧也はブチ切れてもいいと思った。それにしても東直子の再評価。再評価?『春原さんのリコーダー』『青卵』文庫化の反響ではなく文庫化と同時に再評価が済んだ印象がある。『みじかい髪も長い髪も炎』に東直子、北川草子の影を一切感じなかったのが奇跡のように思える。『はつなつみずうみ分光器』『みじかい髪も長い髪も炎』二冊の裏ボスは日々のクオリアの花山周子だ。〈無造作に床に置かれたダンベルが狛犬のよう夜を守るの/平岡直子〉

2022年4月2日土曜日

対立はどこにあるのかーー2022年の短歌総合誌から

はじめにわたしのスタンスを明確にしておくと『短歌研究』2022年4月号の対談「短歌は「持続可能」か。」(坂井修一VS.斉藤斎藤)における斉藤斎藤の主張(「私は短歌がほかのジャンルと違うのはその一人称性だと思っていて、三人称的に神の視点で描くものに短歌がなってしまったら、コンテンツ力でほかのジャンルに勝てない。」はまったくその通りだと思うし、坂井に「それは本当の文学じゃないと思うよ。」と言われる立場から少なくとも現在までわたしは短歌を作ってきた。


『短歌研究』2022年2月号に掲載された斉藤斎藤の連作「群れをあきらめないで(5)」に〈見る私・透明な魂・アララギズム・一人称性・写生・男性〉〈見られる私・身体・ぽうずのようなもの・三人称性・幻想・女性〉という二首が並べられている。この図式を目にして以来、対立させられてはいるが、どこか不自然さを持って対立させられているように思える〈アララギズム〉と〈ぽうずのようなもの〉の対について考えている。考えていたのだが、意外な所にヒントがあった。この二首に続いて記される詞書の部分。〈(……)A 正直ついでに小声で言うと、ぼくはさいきんの女性の歌を、正直読めてないと思う。さいきんの女性の歌の多くは、「自分のためのおしゃれ」に見えるんだ。/B どういうことだい? /A 「おしゃれ」とは、社会から見られる視線を引き受けることだとすれば、「自分のためのおしゃれ」とは、自分で自分に見られること、「見られる側」でありながら、その視線を社会から自分に取りもどすことだろう。/B 「見られる側」から「見る側」に回るのではなく、ね。/A で、ぼくは見ての通り、「おしゃれ」が全くわからないから、「自分のためのおしゃれ」が「おしゃれ」とどう戦っているのか、複雑すぎてわからないんだ。わからないものを適当に褒めるわけにもいかないからなあ……。〉。


「おしゃれ」という語彙からわたしが連想したのが水原紫苑・責任編集『短歌研究』2021年8月号の石川美南「侵される身体と抗うわたしについて」。平岡直子、北山あさひ、谷川由里子、川野芽生の歌を挙げて制度と身体について考える大変おもしろい文章だが、紙幅の半分は平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』に割かれており、実質的には平岡直子論である。「平岡の歌を読んでいると、意味内容に関係なく唐突にムッとする瞬間がある。理解しがたい服装の人を見て、自分のファッションに対する感度の低さを意識させられたときの鈍い痛みのような。そんな連想をしてしまうのは、私が平岡作品の良き読者ではないからだろうか。いや、そうではなく、このムッとする感じは作品自体によって誘発されているものであり、むしろ作品の魅力なのだと思う。」。この「ムッとする感じによって誘発」される「魅力」は鷲田清一『ちぐはぐな身体ーーファッションって何?』の引用文中の語彙から「平岡の場合は「どこまでやれば他人が注目してくれるか」というアピール感は薄いが、「のっぴきならなさ」は紛れもない。」と言い換えられる(「どこまでやれば他人が注目してくれるか」「のっぴきならなさ」は鷲田清一『ちぐはぐな身体』からの引用)(「短歌」と「ファッション」については『文學界』2021年8月号の特集「ファッションと文学」に掲載されている川野芽生と山階基の文章も必読。両者が「試着室」という空間に言及している点を興味深く読んだ。わたしにとっては「試着室」という空間も汗をかいてしまったり何か急かされているような感覚になったりでそれはそれで息苦しさの残る空間ではあるのだけど)。


現在発売中の『短歌研究』2022年4月号に先の斉藤の連作の続き(「群れをあきらめないで(6)」)が掲載されているが、ここで斉藤は虚実の問題を取り上げる。具体的には、第66回角川短歌賞受賞作田中翠香「光射す海」(道券はな「嵌めてください」と同時受賞)の作品世界についての分析なのだが、ここでの議論のポイントはこれまた詞書で書かれる〈(……)筆者が指摘しているのは、ほんとうの対立は、虚/実の手前にあるということだ。〉〈或る種の読者は、こいつ何を当たり前のことを念入りに述べているのか訝しく思うだろうし、もう或る種の読者は、こいつが何にこだわっているのか一切ぴんと来てないだろう。つまりこれは、虚/実の対立ではなく、疼く身体/疼かない身体の対立であり、〉にある。ここから〈だから前者の(水沼注:〈すなわち、身体の奥に疼きの回路を持ち合わせている読/作者は、〉)身体の奥が疼きさえすれば、犯していない罪について、うっかり虚構を立ち上げることもあるだろう。〉として作品内で〈タンク山にのぼった、わたし、明け方の夢にあなたの顔をしていた?〉という山崎聡子の一首が引用される。〈うっかり虚構を立ち上げる〉がポイントだと思う。「群れをあきらめないで(6)」の論理では身体が疼くことは虚構を立ち上げる起点になるのではない。虚構を立ち上げることのブレーキになる(山崎聡子作品についての斉藤の基本的なスタンスは短歌ムック『ねむらない樹』vol.5の座談会「短歌における「わたし」とは何か?」(宇都宮敦✕斉藤斎藤✕花山周子)に詳しい)。


『短歌研究』誌上において柳澤美晴は3月号で奥田亡羊の、4月号で斉藤斎藤の、それぞれ『歌壇』2022年1月号の特集「気鋭歌人に問う、短歌の活路」の文章を援用しつつ時評を書いているが、柳澤が援用するこの特集で最もラディカルな問いを提示しているのは平岡直子の「パーソナルスペース」だと思う。「パーソナルスペース」は永井祐論でありながら同時に「葛原妙子と森岡貞香が「斎藤茂吉をこっちにとっちゃおう」と談合していたというエピソードが好きで、わたしはこのごろ「永井さんをこっちにとっちゃおう」とだれもいない家のなかで虚空に向かって話している。」とまで言ってのける文章だ。4月号の時評の末尾で柳澤は先の北京オリンピックにおける羽生結弦の四回転アクセルへの挑戦を例に「我々は他人の眼にどう映るかを気にして「じぶんの観せ方」を決めることはやめ、もっと大胆に詠い、放胆に論じるべきだ。語り口で魅せてやるくらいの好戦的な気持ちで。」と述べるが、平岡の文章がそうでなくて一体。


ところで、『短歌ヴァーサス』vol.11(2007年)の座談会「境界線上の現代短歌ーー次世代からの反撃」(荻原裕幸✕穂村弘✕ひぐらしひなつ✕佐藤りえ)でもフィギュアスケートの例えが使われていた。長くなるが最後に引用したい(この号には斉藤斎藤「生きるは人生とは違う」も掲載されている)。


〈穂村 (……)ジャンルによってその二重性(水沼注:一次的な表現そのものが評価されると同時に表現ジャンル観が評価されること)の強さは違うと思うんだけど、短歌みたいなものはきわめて二重性が強いわけ。で、斉藤斎藤の場合、実際の一次的な表現ですごくいいって言った人の率よりも、なぜ自分は肉体練習をしないのか、っていう定型観の強度みたいな方に行ってるよね(水沼注:『渡辺のわたし』刊行後の話であることに注意されたい。わたしが斉藤の作品で最も評価するのは第二歌集『人の道、死ぬと町』所収の連作「棺、『棺』」だ)。だから彼の歌を見るというのは、その「観」を見るっていうようなところがある。その直前までは「観」じゃなくて、盛田志保子や今橋愛や、東直子、早坂類あたりの、その種の女性の一次的な言語感覚のすごさみたいなものが圧倒的に僕なんかの目には強く映っていたんだけど、それはとうとう飽和状態になって「もういい!」って(笑)。どんなに素晴らしい演技をしても、要するにお前は生まれつき身体が柔らかいだけじゃないか、って、そういう話になる。もちろんそれでいいんだよ。それでたとえばフィギュアスケートだったら、スケート観よりも実際に五回転できるってことがすごいわけだけど、短歌においては東直子とかが五回転できて、斉藤斎藤が「いや、俺は跳びませんから」みたいな(笑)、「俺のスケートは跳ばないスケートですから」みたいなさ。〉

2022年3月23日水曜日

瀬戸夏子と横書き中央揃え

わたしが現代短歌に本格的に目覚めたのは葉ね文庫のフリーペーパーコーナーに置いてあった「瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.(仮)』抄出三十首」という一枚の紙との出会いだった。一枚の紙といってもコピー用紙ではなく硬質な紙質の白というよりは銀に近い色味の紙だ(同内容で背景が黄緑のペーパーも存在する)。言うまでもなく、書肆侃侃房から2016年の2月に出た瀬戸夏子第二歌集『かわいい海とかわいくない海 end.』の近刊を告げるフリーペーパーなのだが、この段階(2015年の秋頃)ではまだタイトルに「(仮)」がついている。この抄出三十首を見て惹かれた歌をいくつか挙げてみる。〈かなわない頬っぺたのように夜の空 クリスマスと浮気は何度でもしよう〉〈強盗と消防士がかなしく分かつポカリスエットに頬を打たれた〉〈わたしを信じていて ゆめをみて 絶望を斡旋するのがわたしのよろこび〉〈北極の極ならそんなの埼玉の天使と東京の天使で話しあいなよ〉〈それはそれはチューリップの輪姦でした〉……。さて、表題にもしたが、これらの歌はいわゆるWordの設定でいうところの横書き中央揃えで印字されていて、わたしはこの事実にこだわりがある。というか、これらの歌が横書き中央揃えで印字されていなかったらわたしはこのタイミングでこれらの歌に打たれることはなかっただろうと思う。事実、このあとしばらくの間、わたしは横書き中央揃えで短歌を印字して発表していたし、同じように打たれた(?)石井僚一も2015年の大晦日に「ラヴレターは瀬戸夏子の彼方に」というネットプリントを横書き中央揃えに白黒反転までして出した。〈骨に骨 引き寄せるとき身を捩るあなたはあなたの抒情の墓石〉〈須くシモーヌ・ヴェイユ、檻の降る丘で脚本通りに君を〉。『かわいい海とかわいくない海 end.』刊行直前のこうした流れの中でわたしはこの歌集が横書き中央揃えで刊行されることを信じて疑わなかった。周知のように、この歌集は縦書き一頁三行を基本レイアウトとしている。横書き中央揃えではなかったのだ。ただし、その残り香のように本文中の章題の表記と Special Thanks は横書き中央揃えになっている。〈スイーツその可能性の中心〉〈わたしは無罪で死刑になりたい〉〈生まれかわったら昭和になりたい〉(章題)「過去、現在、未来を問わず短歌を愛し短歌を憎むすべての人々」(Special Thanks)……横書き歌集のことを思い出したのは伊舎堂仁の第二歌集『感電しかけた話』に、表紙、横書きに倒された自選5首の宣伝ツイート、ベースになっていると思われるnote記事などからその可能性を覚えたからだった。とはいえ、リーダビリティ(散文性、非屹立性)から要請される横書きや向井ちはる『OVER DRIVE』のようなデザイン的な横書き(余談になるが、瀬戸の運営していたツイッターの<短歌bot>で名前と歌を知った向井ちはるの歌は縦書きのシンプルなレイアウトで読みたいと思った)とも瀬戸の中央揃えは異なる何かを表象しているように思う。屹立は屹立なのだが、打ち抜き方の形が違う。それが横書き中央揃えという形で具現化された、とまで主張するのはあまりに順接すぎる嫌いもあるけれど。横書き中央揃えという詩の中心点。それは脳内でイメージされる詩的消失点の対極にある。〈青空は左利きだとクイズにあった桜という字はわたしが消した〉(瀬戸夏子「どんな死体なのかな」第二歌集刊行記念特典ペーパー葉ね文庫ver. 横書き中央揃えで印字)

2022年3月7日月曜日

小島なお『展開図』再読

歌集が出てすぐの頃(2020年5月あたり)「心の領地」を境に分断された(当時のわたしはあとがきで「選歌をお願い」されておこなった「高野公彦様」による選歌を選歌が本質的にはらむ暴力性以上の強い力として受け止めてしまった)文体についていけなかったこともあり改めて「心の領地」から読んでいく。


悪いことじゃないよ時間をこなすのは杭の頭に順に触れゆく

花の日は花に甘えてなにか言うための言葉を探さずにおり

また空を浪費しながら私あり覚えておこう使いきるまで

いつまでを友だったのかセロテープ透ける向こうが学生時代

陽だまりを啄む鳩の分身が瞬くたびに増えてゆく午後

セーターについたチョークの粉 いまは抽象的な過渡期と思う

一花ごとにある時間軸 木槿から木槿の時差を渡ってあるく


自分の、心のために使う時間。しかし、内省的ではない。浪費とは一般的な消費感覚に対する批評でもある。セロテープがこちら側とあちら側とのフィルターになる。窓ではなくセロテープ。直線的、縦幅と横幅にかなりの開きがある。任意の点で切ることができる。一回性ではなく残像のように重なりつつ振れる。〈体内に三十二個の夏があり十七個目がときおり光る〉の〈十七〉を特権的に読むこともできるだろうが、それでも固定された点としてクリアに呼び出されるわけではない(セロテープ)〈プレパラートにむかし覗いたものは何 月の産毛も見えそうな夜〉(プレパラート)〈ソフトクリーム舐めてあかるむ喉をいま古い涙のようなもの落つ〉現在形で舐めてあかるむものがソフトクリームであること。単なるノスタルジーではない。差異と反復。「失恋」もまたそのひとつのかたちだろう。ところで、後半の大森静佳『カミーユ』的文体はこうした個的存在者の差異と反復をむしろ抹消してしまう嫌いがあった(〈私だけの夏なわけでもないだろう季節は誰の手紙でもない/小島なお〉〈来てくれて待っててくれて夏の川やさしさはやさしすぎて苦手/同〉翻って『カミーユ』的文体とは歴史的な差異と反復に有効な文体なのだと思う〈明け渡してほしいあなたのどの夏も蜂蜜色に凪ぐねこじゃらし/大森静佳〉〈ダナイード、とわたしは世界に呼びかけて八月きみの汗に触れたり/同〉)。


【「心の領地」以前】

他人の恋は豆電球のあかるさで薄い硝子に触りたくなる

テーブルにLOFTの袋置かれあり黄色はこの世を生きる者の色

雪を踏むローファーの脚後ろから見ている自分を椿と気づく

妹のほそく毛深い後ろ首 躑躅は妊婦のためにある花

灯台はこわい むくんだ産月の妹の脚思い出すから

泣くためにきた用水路さくら浮く水面にほそい蛇泳ぎゆく

2022年2月28日月曜日

偏愛歌60首

あいたいというひまもなくあっているまきじゃくあっちとこっちをもって/おさやことり

同名誌『太朗?』(2015)

会ひたさは心の狭さ だとしてもあなたに傘を届けてみたい/神野優菜

機関誌『九大短歌』第九号(2019)

秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは/堂園昌彦

歌集『やがて秋茄子へと到る』(2013)

あめつちのかひなに抱かれしんしんとたれをかなしむ野のゆきうさぎ/永井陽子

歌集『なよたけ拾遺』(1978)

あれはたぶん壊れた針をふたつとも外した梟の掛け時計だ/谷川由里子

歌集『サワーマッシュ』(2021)

インナーワールド・オブ・ザ・フューチャー 背泳を小学校のプールで一人/五島愉

歌集『緑の祠』(2013)

黄金休暇中日 眠れば眠るほど手首しびれてわれも涙目/棚木恒寿

歌集『天の腕』(2006)

おしぼりの袋がひじに貼りついて5年分の浮かれっつらしている/阿波野巧也

歌集『ビギナーズラック』(2020)

おそろしき隣家寒夜に移り来てすぐ花鳥図(くわてうづ)のバス・タオル乾す/塚本邦雄

歌集『歌人』(1982)

お名前何とおっしゃいましたっけと言われ斉藤としては斉藤とする/斉藤斎藤

歌集『渡辺のわたし』新装版(2016)

お前といるとばかになる……男の子ありがと、わたしを抱いて浮上する/初谷むい

歌集『花は泡、そこにいたって会いたいよ』(2018)

火炎吐くごとくに僕は息をする仲裁という慣れぬ役目に/廣野翔一

同人誌『穀物』創刊号(2014)

雷を窓ガラスごと見てしまう四角く腕をかためた私/椛沢知世

同人誌『半券』vol.1(2019)

からだごと織られるような祈りして火は森をどこまで焼けたかな/安田直彦

個人誌『ザオリク』vol.3(2017)

彼氏の次も彼氏をつくった女の子 入れてもらったことのない部屋/乾遥香

同人誌『Sister On a Water』vol.3(2020)

昨日より可愛くなったはずなのにわたしと気付かれて驚いた/石井松葉

同人誌『かんざし』第二号(2016)

きよちやんと歩きたかつた天神を天六を手をそつとつないで/染野太朗

同人誌『外出』第二号(2019)

鍵盤のようだと思う 無花果のタルトに刺さっていくあなたの歯/道券はな

同人誌『too late 』vol.1(2019)

再演よあなたにこの世は遠いから間違えて生まれた男の子に祝福を/瀬戸夏子

歌集『かわいい海とかわいくない海 end.』(2016)

鎖骨より真珠をはづすさやうならおとうと婚のはつなつゆふべ/上村典子

歌集『開放弦』(2001)『上村典子歌集』(2011)

死螢を拾ひ「ひかり」と断ずれば「ほのほ」と応ふ君ふるへつつ/藪内亮輔

総合誌『短歌研究』2019年2月号

遮断機があがりきるまで動かないぼくは断然菜の花だから/大橋弘

歌集『からまり』(2003)

すこし瀬戸すこし夏子のラヴを差し引いても接吻は遺書であること/石井僚一

ネットプリント「ラヴレターは瀬戸夏子の彼方に」(2015)

砂浜を歩き互いの頭から届く光におじぎを交わす/頭上葛良

同名誌『太朗』(2015)

ソフトクリーム舐めてあかるむ喉をいま古い涙のようなもの落つ/小島なお

歌集『展開図』(2020)

それにしても大塚愛はどんな日を「泣き泣きの一日」と思ったのだろう/鈴木ちはね

ムック『ねむらない樹』vol.5(2020)

たまかぎる茜の雲に歩むときうつせみのままわが声は杖/山中智恵子

歌集『玉菨鎮石』(1999)

だるい散歩の途中であったギャルたちにとても似合っている秋だった/永井祐

歌集『日本の中でたのしく暮らす』(2012)

だれのものでもなくなったマイメロディのキーホルダーが小枝に揺れる/寺井奈緒美

歌集『アーのようなカー』(2019)

地下鉄の風にビニール袋鳴るなんにもおもわないってかんじ/今井心

歌集『目を閉じて砂浜に頭から刺さりたい』(2018)

ちゃん付けで呼んでみたきが妻の前で呼び捨てにする池田エライザ/田村元

歌集『昼の月』(2021)

常臥せる窓の桧の木にこの夜頃天道虫の匂ひ満ちをり/相良宏

『現代短歌大系』第十一巻(1973)

とうめいなみどりかざしてアスパラガスこの夏がもう始まっている/福島遥

歌集『空中で平泳ぎ』新装版(2013)

どの光とどの雷鳴が対だろう手をつなぐってすごいことでは/佐伯紺

同人誌『遠泳』創刊号(2019)

どんなにか疲れただろうたましいを支えつづけてその観覧車/井上法子

歌集『永遠でないほうの火』(2016)

なすすべなく現在形でつけているはるまき巻いている夢日記/橋爪志保

歌集『地上絵』(2021)

庭の上(へ)のうす雪ふみて雉鳩のつがひ来あそぶこゑなくあそぶ/小中英之

歌集『翼鏡』(1981)『小中英之歌集』(2004)

眠気にはあらためて負け越していて湯船でノーモーションで来るかも/森口ぽるぽ

歌集『インロック』(2022)

ノースリーブの腕のひかりの苦しくて好きになつたらあかんと思ひき/大辻隆弘

歌集『景徳鎮』(2017)

博多駅の屋上に来て風のなかをひろく重なるふたつの視野が/山下翔

歌集『meal』(2021)

八月十五日 お家三軒分ぐらいの夕焼け雲 なんなんだ/北山あさひ

歌集『崖にて』(2020)

はやく明日にならないかなって、何もないけど。うー、目が おやすみ/樟鹿織

機関誌『京大短歌』22号(2016)

harass とは猟犬をけしかける声 その鹿がつかれはてて死ぬまで/川野芽生

歌集『Lilith』(2020)

春の原っぱのさようならへその緒を切られたみたいにくすぐったい/土岐友浩

『短歌ヴァーサス』vol.7(2005)

ひとひらが大きい雪だ何度でもはじめにもどる電光掲示板/斉藤志歩

ネットプリント「砕氷船」第二号(2020)

暇人に時代あり 花散らし 鼻血出し 裏声でプリーズだよ/平英之

同人誌『はならび』第5号(2014)

ひまわりを葬るために来た丘でひまわりは振りまわしても黄色/服部真里子

歌集『遠くの敵や硝子を』(2018)

㊵(ひょうしき)がくす玉のよう 言いかけたことは言おうよわたしたちなら/笠木拓

同人誌『遠泳』第二号(2020)

星きれい あなたは知らないだろうけどあれなら神々の自爆テロ/笹川諒

ネットプリント「トライアングル」(2018)

真夜中のバドミントンが 月が暗いせいではないね つづかないのは/宇都宮敦

歌集『ピクニック』(2018)

まわすたび軋むキューピー人形の首はつぶせばつぶれる軽さ/平井俊

総合誌『現代短歌』2018年10月号

水たまり回避している夏の朝 わたしのラッキーナンバーは0/原田彩加

ムック『ねむらない樹』vol.1(2018)

耳鳴りは早く治したい一月のローソンの棚においしい苺/仲田有里

歌集『マヨネーズ』(2017)

ラーメンがきたとき指はしていないネクタイをゆるめようとしたね/山階基

歌集『風にあたる』(2019)

リズム・アンド・ブルース・いいからくわえてみ・ツイスト・アンド・シャウト・いらない/平岡直子

総合誌『歌壇』2017年7月号

両腕はロゴスを超えている太さふかぶかと波を掻ききらめきぬ/大森静佳

総合誌『現代短歌』2018年10月号

リラックスしないなら死ね 自分たちが空からずっと見え続けてる/瀬口真司

ムック『ねむらない樹』vol.6(2021)

わが内臓(わた)のうらがはまでを照らさむと電球涯なく呑みくだす夢/辰巳泰子

歌集『紅い花』(1989)『辰巳泰子集』(2008)

われのところへ届くことなき子のサーブ待つというより立ち尽くすなり/花山周子

総合誌『短歌』2017年2月号

勇気なのだ 間違い電話に歯切れよく「五分で着きます!」きみはこたえた/我妻俊樹

同人誌(誌上歌集)『率』第10号(2016)

2022年1月11日火曜日

平岡直子の歌について

 前回のエントリー「北山あさひの歌について」で書いたように、平岡さんの2021年ベスト連作は「ラッピング」だと思うのですが、それに匹敵する連作が『歌壇』2021年8月号の巻頭作品「根性論」20首だとわたしは思います。その「根性論」の一首目が〈海面は光れりお母さんでしょう迷惑メール送ってくるの〉というもの。読んだ当時〈お母さん〉という語彙の選択に随分驚いた記憶があります。けれども、あらためて読んでみるとその驚きというのは〈お母さん〉と〈迷惑メール〉との繋がり〈お母さん〉と〈迷惑メール〉という言葉を組み合わせたときに生まれた違和に起因していたのではないか(注意してほしいのは、これはいわゆる異なる二語の表面的な語の組み合わせの話ではなくて語と語の力学の話のことです)。そんなことを思ったのは「文藝」2022年春号の特集「母の娘」に平岡さんが寄せた連作に同様のイメージを詠った一首があったからです。

広告につるつる光る文字列のすべて母なる監視カメラだ

自販機のボタンを押すとき、お母さん、ステルス戦闘機を感じたい

/平岡直子「お母さん、ステルス戦闘機」

監視カメラって父なるか母なるかと問われたら従来は明らかに父なるものとして扱われていたと思います。そこに〈母なる〉という形容を足す。〈母なる監視カメラ〉はかなり歪な形態ですが、これをどう読むか。同じ特集の水上文「「娘」の時代ーー「成熟と喪失」その後」から補助線を引いてみます。と、書いたものの、わたしもこれは読んではじめてなるほどと思ったのですが、現代社会において「旧来の男性性の規範は、ポストフォーディズムにおける「柔軟」さの要求にさほど合致していない」「求められる能力、人間像は旧来の男性性というよりむしろ女性性と合致したものとなっている。社会から与えられる抑圧は「母の抑圧」によく似ている。」(なお、この一文は水上が文中で引用している信田さよ子に依る部分が大きいので詳しくは本文を参照してください。また、結論部分で水上が援用する宇佐見りん『かか』はわたしも大変大好きな小説です。水上の文章の最後の結論はあまりにもシンプルで拍子抜けしてしまいそうになるのだけど、一方で、この地点に到るまでのあまりにも長い道程こそを読むべきなのだと思います)。

短歌はどうか。この文章を読んであわせて思ったのが短歌における「基本的歌権」の問題でした。わたしは近い問題として以前に宇都宮敦『ピクニック』の読まれ方を通して考えたことがあったのですが(詩客短歌時評「2019年の『ピクニック』」)それを踏まえて問題をわたしなりにまとめると現代社会の抑圧というのは厳格さよりも甘ったるさが第一にある。これは、ベクトルが厳しさ→優しさから優しさ→厳しさへと反転している、ということである。平岡さんの歌というのはこうした文脈の中で読んでこそなのかなと思いますし、であるからこそ〈お母さん、ステルス戦闘機〉という本来対極的であるような二項が並置されるのでしょう。「ステルス戦闘機、お母さん」ではなく「お母さん、ステルス戦闘機」の順序であることにはどれだけ注意しても注意しすぎることはないと思います。また、連作「根性論」は〈ドラマに出てきた all-female cabinet わたしは電気ドリルがほしい〉という一首で幕を下ろしますが、「お母さん、ステルス戦闘機」の連作においても同様にべったりとした表象にはすべて裂け目が入れられています(第一歌集『みじかい髪も長い髪も炎』以降のスタンスを端的にあらわす歌として〈筋肉をつくるわたしが食べたもの わたしが受けなかった教育〉〈無造作に床に置かれたダンベルが狛犬のよう夜を守るの〉の二首を挙げたい)。

自販機のボタンを押すとき、お母さん、ステルス戦闘機を感じたい/平岡直子

もう一度この一首に戻ります。では平岡さんの歌が「お母さん、ステルス戦闘機」的な磁場につねに受動的に覆われているのかというと必ずしもそうではなく、この一首においてはあくまでも〈自販機のボタンを押すとき〉という能動性と受動性とが交差する場面であることがひとつのポイントだと思います。冒頭の一首〈Copyright 遠くへ飛んだ枝豆を母だと思ってついていったわ〉の〈遠くへ飛んだ枝豆〉はどうか。(わたしが)遠くへ飛ばしたとは書かれていない以上飛ばしたのは誰かわからない。それは父なるものかもしれないし母なるものかもしれない。けれども、ここでわたしは自販機の前に立ってボタンを押すのと同様のアクションを〈母だと思ってついていった〉に見たいと思います。それは短歌の一人称性を終点、収束点ではなく始点にすることでもあるでしょう。『歌壇』2022年1月号に平岡さんが書かれた「パーソナルスペース」という文章をわたしは革命についての文章と読みましたが、わたしの読みが間違ってなければここでいう始点とは「パーソナルスペース」のことでもあります。

穴をふさげる穴なんてない プリクラの顔に変わっていくつもりなの

リハーサルは終わりよ、整形モンスター、星のかたちの心を持って

わたしたちはぜんぶ帳消しにしよう蛍光ペンでお化粧しよう

/平岡直子「ラッピング」

2022年1月6日木曜日

北山あさひの歌について

北山あさひさんから「現代短歌新聞」2021年12月号をいただきました。『崖にて』以降の作品を『現代短歌』の連載や「うた新聞」などでおもしろく読んでいたこともあり、当号の巻頭作品も読みたく思ったからです。巻頭作品は「札束で〈地方〉の頬を叩くな」12首。「頬を叩く」から北山川の吟行付句「上の句下の句往復ビンタ」のネーミングセンスを思い出したりもしました。連作について。冒頭の詞書から「寿都町長選挙 争点は「核のごみ」」が一連のテーマであることは明白ですが、ここで考えてみたいのはタイトルにもある〈地方〉について。四首目、五首目を引用します。

薄暗い水平線を見ていたら〈地方〉という字がのぼってくるぞ/北山あさひ

貧しくてダサくて頭が悪いから〈地方〉は嫌い、でもペンダント

連作の冒頭三首では上記の寿都町長選挙のことが具体的に詠われます。なんだけれども、続く二首はそれが〈地方〉の問題として抽象化される。この点について、ひとつ補助線を引いてみます。『短歌研究』2021年8月号の瀬戸夏子「名誉男性だから」。「短歌を男性的であるとする論も女性的であるとする論も対になるものが想定されている時点でそれはどちらにせよ女なのだ。想定される「ではない」方はつねに女である。(……)釈迢空は女である、斎藤茂吉が男であるなら。斎藤茂吉は女である、土屋文明が男であるなら。」。この文脈に当てはめて考えてみると〈地方〉は〈中央〉「ではない」ものを指す言葉になります。では、すべては〈中央〉ー〈地方〉の対の問題に終始してしまうのか。ここで「うた新聞」2021年8月号に掲載された北山さんの連作「虚しさを打ち返せ」から一首引用します(余談になりますが、この連作は〈木をくぐるつかのま白き手裏剣のヤマボウシ見ゆ「山」と言えば「川」〉〈蟬穴にひらかれている蟬の眼よ 貸しは必ず返してもらう〉などおもしろい歌がたくさんあります。前の号の「今月のうたびと」は平岡さんでこちらも個人的には2021年の平岡さんのベスト連作だと思っているのでお買い求めの際は二号まとめてどうぞ)。

パフェグラスの中の階級あおざめるように翳ればもう降っている/北山あさひ

ツイッターをやっていると見ない日はないパフェ。パフェグラス。その構図を〈階級〉と表現できることに圧倒されます。わたしはパフェには明るくないですが、あのグラデーションのことを〈階級〉と呼び得ることはわかります。「札束で……」の連作だと〈よろこびの筋を支えるさびしさの腱 奈落より網引き揚げる〉が相当するでしょうか。〈札束〉の〈札〉は〈札幌〉の〈札〉でもありますね。短歌定型をパフェグラスひとつと考えるならば、底に落ちていくものが〈さびしさ〉である。けれども、パフェグラスであることによって底抜けはせず仮止めされていることがポイントではないか。「札束で……」の連作では五首目の結句〈、でもペンダント〉がそこに相当します。この一首は結句に入ってからの屈折が少しわかり易すぎるかなとも思うのですが、『現代短歌』の連載に何首か結句表現がおもしろい歌がありました。

境内の横で奇妙な体操をしている男 黒ずくめ 見ず

企画書に城と氷河と横顔をちりばめながら大人、しっかり

「冒険」『現代短歌』2021年9月号

夏なのか秋なのか憧れなのかフライドポテトなのか、ほおづえ

合歓の家、木蓮の家 思い出がただの付箋になるまでを、居て

「ゴールデンタイム」『現代短歌』2022年1月号

一首目の結句〈見ず〉にはびっくりしました。とはいえ、その唐突さに驚いたわけではないのは〈黒ずくめ 見ず〉の「ず」の繰り返しがあったからだと思います。肝がすわっている。残りの三首は挙げては見たものの正直なところまだ判断保留というところです。これでほんとうに一首として立っているいるのだろうか。そこで一首を支えようとしている言葉「しっかり」「ほおづえ」「居て」には一貫性があるように思います。

最後にもう一度〈、でもペンダント〉について。ペンダントは首もとだけにフォーカスすると結句的なビジュアルですが、身体全体で見れば初句二句の間ぐらいの位置にあります。事実、この一首のなかでペンダントがずっと沈みっぱなしかというとそうではない。〈、でもペンダント〉はバネにもなる。『崖にて』に〈ロマンチック・ラブ・イデオロギー吹雪から猛吹雪になるところがきれい〉という一首があります。北山さんの歌はイデオロギーや制度を相対化する眼差しを持ちつつもエネルギーそのもののポテンシャルは決して手放さない。吹雪を猛吹雪にしてしまう(イデオロギーとエネルギー(力)については『短歌研究』2021年8月号の平岡直子「「恋の歌」という装置」に詳しく書かれています)。北山さんがツイッターで新年の抱負として「今年はロマンチックな歌を詠みたい」とつぶやいていてあらためてそのことを思いました。