2024年4月25日木曜日

ポストニューウェーブと瀬戸夏子、瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.』歌集評

2023年8月執筆

a ポストニューウェーブと瀬戸夏子

瀬戸夏子がポストニューウェーブの話をしている最初期の記憶は、わせたんでのロングインタビュー(『早稲田短歌』45号)で、永井、斉藤、宇都宮という語呂の良さが妙に記憶に残っている。永井、斉藤、宇都宮とは言うまでもなく永井祐、斉藤斎藤、宇都宮敦のことだ。最近出た長谷川麟『延長戦』の栞文で瀬戸が「ポストニューウェーブの課題のひとつ(最後のプログラム)に歌集があった」というようなことを書いていて、初読ではあまりピンとこなかったのだが、『日本の中でたのしく暮らす』(永井祐)と『ピクニック』(宇都宮敦)は歌集刊行のタイミングが遅く、反対に『渡辺のわたし』(斉藤斎藤)はタイミングが早く、という ニュアンスではないか、と推測する。

歌集『渡辺のわたし』については、瀬戸が『はつなつみずうみ分光器』で、第二歌集『人の道、死ぬと町』をポストニューウェーブのひとつの到達点(「ポストニューウェーブ短歌折り返しのリミット」)として挙げていることと、永井祐が「現代短歌」の平成の歌集特集(2019年6月号)で書いていた「斉藤斎藤ははじめの歌集を出すのがかなり早かった人だと思う」という記述が参考になる。同じ文章で永井が『人の道、死ぬと町』の前半におさめられた歌群を評価しているのも大変興味深い。

『はつなつみずうみ分光器』で、瀬戸が設定したもうひとつの到達点が大森静佳の『カミーユ』(「二〇一〇年代の短歌における達成の極のひとつを斉藤斎藤『人の道、死ぬと町』に見るならば、もうひとつの極は間違いなく大森静佳の『カミーユ』である。」)なのだが、同じく瀬戸がポストニューウェーブについて字数を重ねた「ねむらない樹」最新号(vol.10)の笹井宏之論で、笹井宏之のわたしとあなたの純度を磨きあげていく作風の先端に大森静佳の名を挙げているのは個人的にはやや意外な感があった。が、我妻俊樹『カメラは光ることをやめて触った』栞文でのポストニューウェーブのポエジー派、雪舟えま、笹井宏之、我妻俊樹の三幅対を補助線にすれば見通しがすっきりする。

いわゆるポストニューウェーブの三人、永井、斉藤、宇都宮はいわゆる口語短歌においてそれぞれの方法で純化を達成したと言えるが、『はつなつみずうみ分光器』において、このラインの延長線は引かれていない。瀬戸がこのラインの延長線を意図的に引いていないのは、瀬戸の選歌眼や選歌集を見れば明らかだが、ここでわたしなりに延長線を引いて見るなら、『予言』、『光と私語』、『ビギナーズラック』となるだろう(そこからさらに『了解』や『感電しかけた話』にまで話を広げるのは、山田航の仕事だ)。

ここまでの流れから、瀬戸はポストニューウェーブのさらにポエジー派、具体的には、雪舟えま、笹井宏之、我妻俊樹の系譜に連なる意志があることが見て取れるが、こうした視点に瀬戸夏子を含めた文章が既にあって、「ねむらない樹」vol.9 特集「詩歌のモダニズム」上の佐藤弓生の文章がそれにあたる。佐藤は現代のモダニズムの系譜として、井上法子、望月裕二郎、平岡直子の歌とともに瀬戸夏子の歌を引用している。引用歌集はそれぞれ『永遠でないほうの火』『あそこ』『みじかい髪も長い髪も炎』『そのなかに心臓をつくって住みなさい』。

b 瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.』歌集評

わたしを信じていて ゆめをみて 絶望を斡旋するのがわたしのよろこび

暗唱できるようになった短歌一首が歌集という一冊の物質上で改変されてしまっていたときの衝撃がいまも残っている。いまにして思えばそれは推敲でしかなかったのだが、当時のわたしはそれを推敲と受け取ることができず(暴力だと思った)あれだけ楽しみにしていた歌集の購入を一旦保留にした。

泉から抜けていく水……極太のサインペンとビニール袋なら(『かわいい海とかわいくない海 end.』)

泉から抜けてった水 極太のサインペンとビニール袋な(短歌同人誌「率」三号)

第二歌集以降、瀬戸の歌にあった暴力性は影を潜め、瀬戸の歌は軽くなり、柔らかくなった。〈ひとさしゆびはひとをさしてた零度のような玩具もあるし〉〈おりがみのあしのときめき不意に主役は刺されるものさ〉(「20170507」『現実のクリストファー・ロビン』)。スポーツにしてもそうだが、柔らかくなるとは、習熟するということと同義だ。この習熟曲線はなにも瀬戸に限った話ではない。永井祐や山下翔の第一歌集から第二歌集への推移についても同様である(句跨りからなめらかな句の接続へ)。

「選」(暴力)と「読み」(習熟)というふたつの歌に対する態度があるが、これらは似て非なるものだ。いま同世代の短歌の世界は完全に「読み」が優位になっている。短歌同人誌「波長」二号に掲載された鈴木ちはねの前号評「読むことと詠むことの合わせ鏡について」を読んでわたしは深く感動するとともに同じくらいの危機感を抱いた。

わたしに歌会(習熟)の読みの面白さを教えてくれたのは阿波野巧也だったが、選(暴力)の凄さを教えてくれたのは瀬戸夏子だ。Twitterに一時期存在した短歌bot、とりわけピンクベースのアイコンの短歌botはいまもわたしが歌を選ぶ際の最終的な拠り所になっている。短歌botから具体的に印象に残っている歌人名を挙げるなら、渡辺松男、大橋弘、望月裕二郎、おさやことり……〈遮断機があがりきるまで動かないぼくは断然菜の花だから/大橋弘〉……キーワードは「変態」だ。柔らかくなるとは、〈変態〉することと同義だろうか?

再演よあなたにこの世は遠いから間違えて生まれた男の子に祝福を

かなわない頬っぺたのように夜の空 クリスマスと浮気は何度もしよう

代名詞しかないままにあるがまま倒錯が行き来しているふたつの朝を

歌集一冊を通読して感じるのは瀬戸の短歌の人力定型性。定型から零れ落ちそうになるぎりぎりのラインでもう一度息を吹き返すそれは同じ非定型でも〈花冷え どんな他人のことも湖のように全部わかる瞬間がある/平岡直子〉(「外出」創刊号)とは明らかに一首の生成過程を異にする。

皆殺しのサーカスその行数でそのあとすぐにそれとも頑張っちゃう?

骨組みだけになっても自由に踊りつづけようミルクと売国奴と

c

2023年のいま『かわいい海とかわいくない海 end.』を位置付けるとするならどうなるだろうか。歴史の綾だが、「二〇〇〇年から二〇二〇年に刊行された、第一歌集から第三歌集までを対象」とした『はつなつみずうみ分光器』では2021年5月刊行の平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』は対象外になった。しかしながら、同時代性(は、「町」「率」でのふたりの歩みや「SH」発行も含めた現代川柳への接近を持ち出せば充分だろう)を鑑みると、『みじかい髪も長い髪も炎』とのペアリングは絶対に外せない。また、川柳ではなく俳句への接近という対照性を視野に入れれば堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』も外せない(ふたりはわせたんの同世代である)。『かわいい海とかわいくない海 end.』、『みじかい髪も長い髪も炎』、『やがて秋茄子へと到る』の三幅対。わたし(たち)が愛してやまないわせたん黄金期。

灯台が転がっているそこここにおやすみアジアの男の子たち/平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』

振り下ろすべき暴力を曇天の折れ曲がる水の速さに習う/堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』

我妻俊樹『カメラは光ることをやめて触った』歌集評

2023年8月執筆

「歌会は評のライブではあっても歌のライブではないこと、おそらく評よりはるかに長い時間かけて歌がつくられていることについて、逆では? というのはある。即詠された歌でさえ、場合によっては何十時間もかけて読まれるべきでは? とか。」@koetokizu 2018年3月3日

我妻の歌をまったく知らない相手に我妻の歌の特徴を伝える必要があるとすれば、我妻自身のTwitterでのこの言葉を引用するのが最も適切だろう。

歌集『カメラは光ることをやめて触った』の増補部分、要するに誌上歌集「足の踏み場、象の墓場」(短歌同人誌「率」十号)以降の歌群を読んだときにわたしが感じたのは、我妻俊樹すら短歌シーンとは無縁ではない、ということだ。実際、第一部「カメラは光ることをやめて触った」に収められた歌群の大半は、Twitterアカウント上で月詠として公開されたり、Twitterでの宣伝を利用してネットプリントで発表されたりしたものだし、版元である書肆侃侃房刊行のムック「たべるのがおそい」や「ねむらない樹」に寄稿した作品も収録されているため、短歌シーンに無縁どころか、がっつりシーンの先端にいる印象すら与える。しかしながら、瀬戸夏子の栞文にあるようにわたしたちは、いや、わたしは「我妻の歌を排除」してきたように思う。

我妻俊樹をシーンの先端とすると、我妻の歌は具体的にどう変わったか。非常に抽象的な言い方になるが、以前(「足の踏み場、象の墓場」)にはあった「足の踏み場」や「象の墓場」的な面積が、限定され見切れた状態でしか捉えることができなくなった。〈砂糖匙くわえて見てるみずうみを埋め立てるほど大きな墓を〉から〈目の中の西東京はあかるくて駐輪コーナーに吹きだまる紙へ〉へ。〈目の中の〉の〈目の中〉は片目の中と読むが、注目したいのは、〈あかるくて〉という修飾。同じようにあかるさを詠み込んだ歌として「足の踏み場、象の墓場」以降の代表作の一首に〈コーヒーが暗さをバナナがあかるさを代表するいつかの食卓で〉があるが、この〈あかるさ〉は間違ってもわたしたちが我妻に与えたあかるさではない。我妻自身がみずから設定せざるを得なかった光度だ。

「カメラは光ることをやめて触った」パートでわたしが特に惹かれたのも〈好きな〉という一見排除とは相容れない歩み寄りのように思える語彙を使っている歌だ。

好きな色は一番安いスポンジの中から一瞬で見つけたい

好きな電車に飛び乗って黙っていたい大きすぎない鯛焼きを手に

安いスポンジ特有のチープな発色から好きな色を反射的に見つける、大きすぎない鯛焼きを手に電車に飛び乗った上で黙っていたいというささやかだけれどキッチュで贅沢な欲望。そうした欲望は、「足の踏み場、象の墓場」で文字通り繰り返し歌われた〈バッタ〉であることが〈うれしくて〉という一首の発情と同一線上にある。

ぼくのほうが背が低いのがうれしくてバッタをとばせてゆく河川敷

とびはねる表紙のバッタうれしくてくるいそうだよあの子とあの子


勇気なのだ 間違い電話に歯切れよく「五分で着きます!」きみはこたえた

我妻のキャリアから一首選ぶならこの歌をわたしは選ぶ。この歌は一見人間同士のコミュニケーションの本質を語っているように見えるが、「勇気なのだ」の語り手は間違い電話の受け手でも掛け手でもない。「勇気なのだ」という声に偶然ぶつかったようにも自分からぶつかりにいっているようにも思える「五分で着きます!」。勇気なのだ。二物衝撃の衝撃に内側から触れた一首。短歌のライブがここにある。