2019年12月25日水曜日

(たぶん)(ひとりで)週刊短歌第6回

2019年こころに残ったこの短歌   水沼朔太郎

技能実習生あしたまた天気またあしたまたあしたまた天気/井ノ岡拓

今年の短歌研究新人賞最終選考通過作から。ブラック企業の発話のような事情をわかっている側からの声と未来を疑わない技能実習生の声とがはっきりどちらとは確定できないかたちで定型に乗って繰り返される。〈天気〉の行方ははたして。

息継ぎのように苦しく/楽しくて花火で花火に花火を灯す/西村曜

覆われるほどの大きな花火きてみんなのお母さんだと思う/武田穂佳

従来の花火のイメージからは距離のある二首。〈息継ぎのように苦しく〉に野太い花火を〈みんなのお母さん〉に逆説的に「わたしのお母さん」の不在をおもう。

傷つけてしまったことに動悸して秋だろう歯を何度も磨く/大森静佳

さいきんこの歌の〈歯を何度も磨く〉は上句の素直な反応ではないのではないか、と思うようになった。〈秋だろう〉に一定時間の推移を見る。

今日はとても長生きをした行きずりの会話たくさん耳に注いで/平岡直子

同人誌「外出」から。シンプルな歌いぶりだけど、街の喧騒に浸りきった以上の感慨がある。都市詠を装いつつの〈長生きをした〉に一日の安堵、人生の安堵をおもう。

どちらかはみかんのように冷たい手 その手が柄杓にみずを汲みたり/狩峰隆希

どの光とどの雷鳴が対だろう手をつなぐってすごいことでは/佐伯紺

きよちやんと歩きたかつた天神を天六を手をそつとつないで/染野太朗

今年もいろいろありましたが、みなさまお世話になりました。よいお年を!

2019年12月18日水曜日

(たぶん)(ひとりで)週刊短歌第5回

不気味ですらない場所から   水沼朔太郎

パソコンの画面に飽きて雨を見るそれにも飽きて何も見えない
/今井心『目を閉じて砂浜に頭から刺さりたい』

今井心の歌は在るか無いかで言ったら無いものを歌っていると思うのだけど、しかしながら、それは在ることの否定ではないし、無いことを歌うことによってなにかを在らしめることでもない。今井心の歌で歌われていることは在ることの裂け目のようなものではないか。在/不在を生/死と置き換えると、私たちは簡単に生と死を二項対立的に考えるけれど生と死の間にはもっともっとたくさんのグラデーションが存在する(もちろん、死は究極の不在なのかもしれないからグラデーションの極ではなくてグラデーションそのものを無化してしまう可能性もあるけれど)。〈何も見えない〉とは真っ暗であることを意味しない。そこに僅かながらのわたしの意志を見る。

だらだらしているのも疲れるぐいと胸をばねにして立ちしばしそのまま

〈胸をばねに〉ではなくて〈しばしそのまま〉に力点がある。

地下鉄の風にビニール袋鳴るなんにもおもわないってかんじ

〈なんにもおもわない〉のではなくて〈なんにもおもわないってかんじ〉。

何もない場所を見たくて空を見るなんだなんにもなくていいのか

下句いっぱいいっぱい使ってこぼれる僅かながらの感慨。

くまがいない札幌の街くまがいる森の入り口 私は今井

〈斉藤〉のような強さを持たない〈私は今井〉に残る〈井〉の一文字。

満月中の満月中の満月を押すと私がひっくりがえった

〈ひっくりかえった〉ではなくて〈ひっくりがえった〉。

異化と呼ぶにはあまりにのっぺりしている描写が不気味ですらない場所から。

2019年12月11日水曜日

(たぶん)(ひとりで)週刊短歌第4回

短歌における〈すれ〉について、他   水沼朔太郎

(a)すこし前にしばらく〈している〉を〈してゐる〉と書くと宣言したことがあったのだけど、これは口語短歌における〈すれ〉の問題を考えたかったのかもしれない。特に横書きで、具体的には我妻さんの短歌botを見ているときによく感じることだが、短歌における描写は一回では定型に馴染まないことがある。

灯台を建物として貸出す なおこの歌は自動的に消滅する/我妻俊樹

このことをメタ的に歌った歌が〈なんとなくピンとこなくて sympathy って言い直す 言い直す風のなか/平岡直子〉で、この歌は〈三越のライオン見つけられなくて悲しいだった 悲しいだった〉のセルフ本歌取りとしても読める。いわゆる口語短歌が「軽い」だったり軽いがゆえに信憑性が薄いと言われることがあるのは物理的に言葉のグラム数が軽いわけではなくて(主に横書き)一行で書かれたときに↘️から風が漏れてしまっているようなそんな状態を指すのではないかということ。

あかるくて苦しいボタン押したまま馳せてくるひと待っているのよ/我妻俊樹

(b)口語短歌でよく言われるけどけっこう適当にやり過ごしていた連体形と終止形との云々のやつ英語の関係代名詞みたいに読むとおもしろくなることがときどきあるよみたいなことか

(c)短歌の評でのなんでもないようなことを歌にしているが急に腹立たしくなってきたというかそうやって本来短歌として書かれるべきものを想定するなって話だしなんでもないようなことを歌にする場合でも普遍に突き抜けてないといけないというのも大きなお世話だ

緑道に猫のすみつく町だけがふたりをいつもかるく無視した/我妻俊樹

(d)これけっこう強く思うことだけど、短歌の読みって無理しておもしろく読みに行く必要まったくない。おもしろい歌、良い歌って自分が言われたい、が、反転してのおもしろがり、よさがりは害しかないと思う

(e)短歌って読みの集積があっという間に作りの前提になってしまうけれど最終的にはなにも考えずに作るのが一番いいどす

目の中の西東京はあかるくて駐輪コーナーに吹きだまる紙/我妻俊樹

2019年12月4日水曜日

(たぶん)(ひとりで)週刊短歌第3回

「ちから、ちから」再読   水沼朔太郎

前回の文章を書いているときに〈あんなこと(いいな)こんなこといっぱいあったけど正常位にて果てるAV/斉藤斎藤〉を引用するために久しぶりに斉藤斎藤の第一歌集『渡辺のわたし』(新装版)を開いた。『渡辺のわたし』で一番有名な連作は第2回歌葉新人賞受賞作にもなった「ちから、ちから」だと思うのだけど、受賞作掲載から10年以上の歳月を経てたまたま葉ね文庫にあった短歌ヴァーサスのバックナンバーを手に取りあの斉藤斎藤のデビュー作として読んだ初読の感想は連作全体の構造がよくわからない、というものだった。どれぐらいわかってなかったかというと途中に挟まれる〈二年後〉の詞書の前後に人がひとり死んでいるのすらわかっていないレベルでそのことを後に「新装版」の解説を書いている阿波野巧也の文章を読んでようやく理解した。しかしながら、それでもなお連作全体に対する掴めなさは残り続けていてその掴めなさの原因はどこに起因するのだろうと長らく頭の中に残っていたのだが、今回再読してみてその掴めなさの正体が掴めたように思う。阿波野は、

14(水沼注:まばたきのさかんなひとをながめてた 唇でぼくにはなしかけてた)はフラッシュバックする恋人の姿だろうか。記憶のことだからこそ、映像はありありと浮かべど、声をナマな形で再現できなかった、とも読める。とにかく、「君」が交通事故に遭って亡くなったということを、連作を通じて読み取ることが十分に可能だ。
(……)
19 あけがたのわたしはだしのまえあしでまるぼろめんそおるに火をともす
19の歌の前に「二年後」という詞書がある。その歌以降の時制が恋人の死から二年後であることを示唆しているのだろう。
21 ひょっとしてパスタは嫌いだったんじゃ自動改札に引っかかる
二年が経って普通の生活をしていて、自動改札を通ろうとしたときに、ふっと亡くなった恋人のことを思い出す。「パスタは嫌いだったんじゃ」と。「嫌いなんじゃ」ではなく、過去形になっている。もう確認することはできないのだ。ふとしたフラッシュバックによって自動改札に引っかかってしまうのである。

https://note.mu/awano/n/n2bb4c0d7ae98

と書くように、あくまでも恋人が死んだものとして連作を読み進めている。だが、おそらくわたしが初読から引っ掛かっていたのは連作全体のクライマックス的な感もある〈雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁〉の次の一首である〈泣いてるとなんだかよくわからないけどいっしょに泣いてくれたこいびと〉の〈こいびと〉のことだ。もちろん、二年も経てば新しい恋人が出来ていてもなんら不思議はないし、現在の〈こいびと〉に二年前のことを話していなければこのような叙述も可能だろう。しかし〈医師はひとり冷静だったぼくを見た もうそろそろ、とぼくが殺した〉は恋人の死に立ち会う現場としてはいささか不自然であるように思われる。そういう経験がないからわからないけど、死の現場に立ち会えるのは恋人ではなくて家族ではないか。また〈もうそろそろ、〉というのはたとえば延命措置の呼吸器を外す決定権を〈ぼく〉が持っている、ということではないか(この点についての読みは歌集中で後に置かれている連作「父とふたりぐらし」を参照した。〈立場上ひろわずにいられなかった骨のおもさを思い出せない〉〈母の心臓マッサージする当直の医師の背中が表現だった〉〈ここぞとばかり取り乱す父さん越しに医師は私をちろりちろりと〉)。なので、わたしは〈急ブレーキ音は夜空にのみこまれ世界は無意味のおまけが愛〉の〈急ブレーキ〉は作者自身の生活(恋)に対する喩として取った。さらに、これは斉藤斎藤の作家性というか、倫理性みたいなものに踏み込むことになるけれど、斉藤は「あたらしいこいびと」は「あたらしいこいびと」ときちんと書くのではないか。以上のような、観点から連作「ちから、ちから」中で亡くなったと想定される人物は母親であるとわたしは読む。柳本々々は阿波野が〈恋人〉と読んだ対象を〈「愛」に関わるような大事なひと〉http://haiku-new-space03.blogspot.com/2017/09/blog-post_74.html?m=1と読んでいてここで書かれていることに異論はないのだけど、この文章ではこの〈「愛」に関わるような大事なひと〉が〈母親〉であるとさらに書き加えたい。思えば、「ちから、ちから」は〈のり弁〉の歌が異様にクローズアップされるけれど、連作で湧いているのは〈こいびと〉を含む女性への〈性欲〉だ。〈うなだれてないふりをする矢野さんはおそれいりますが性の対象〉〈背後から不意に抱きしめられないと安心してるうなじがずらり〉……〈のり弁〉は三大欲求では〈食欲〉に分類される。そう考えると〈これはのり弁〉にはこれは「性欲」ではない、ぐらいの意味合いしかもしかしたらないのかもしれない。