2019年12月18日水曜日

(たぶん)(ひとりで)週刊短歌第5回

不気味ですらない場所から   水沼朔太郎

パソコンの画面に飽きて雨を見るそれにも飽きて何も見えない
/今井心『目を閉じて砂浜に頭から刺さりたい』

今井心の歌は在るか無いかで言ったら無いものを歌っていると思うのだけど、しかしながら、それは在ることの否定ではないし、無いことを歌うことによってなにかを在らしめることでもない。今井心の歌で歌われていることは在ることの裂け目のようなものではないか。在/不在を生/死と置き換えると、私たちは簡単に生と死を二項対立的に考えるけれど生と死の間にはもっともっとたくさんのグラデーションが存在する(もちろん、死は究極の不在なのかもしれないからグラデーションの極ではなくてグラデーションそのものを無化してしまう可能性もあるけれど)。〈何も見えない〉とは真っ暗であることを意味しない。そこに僅かながらのわたしの意志を見る。

だらだらしているのも疲れるぐいと胸をばねにして立ちしばしそのまま

〈胸をばねに〉ではなくて〈しばしそのまま〉に力点がある。

地下鉄の風にビニール袋鳴るなんにもおもわないってかんじ

〈なんにもおもわない〉のではなくて〈なんにもおもわないってかんじ〉。

何もない場所を見たくて空を見るなんだなんにもなくていいのか

下句いっぱいいっぱい使ってこぼれる僅かながらの感慨。

くまがいない札幌の街くまがいる森の入り口 私は今井

〈斉藤〉のような強さを持たない〈私は今井〉に残る〈井〉の一文字。

満月中の満月中の満月を押すと私がひっくりがえった

〈ひっくりかえった〉ではなくて〈ひっくりがえった〉。

異化と呼ぶにはあまりにのっぺりしている描写が不気味ですらない場所から。