2022年3月23日水曜日

瀬戸夏子と横書き中央揃え

わたしが現代短歌に本格的に目覚めたのは葉ね文庫のフリーペーパーコーナーに置いてあった「瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.(仮)』抄出三十首」という一枚の紙との出会いだった。一枚の紙といってもコピー用紙ではなく硬質な紙質の白というよりは銀に近い色味の紙だ(同内容で背景が黄緑のペーパーも存在する)。言うまでもなく、書肆侃侃房から2016年の2月に出た瀬戸夏子第二歌集『かわいい海とかわいくない海 end.』の近刊を告げるフリーペーパーなのだが、この段階(2015年の秋頃)ではまだタイトルに「(仮)」がついている。この抄出三十首を見て惹かれた歌をいくつか挙げてみる。〈かなわない頬っぺたのように夜の空 クリスマスと浮気は何度でもしよう〉〈強盗と消防士がかなしく分かつポカリスエットに頬を打たれた〉〈わたしを信じていて ゆめをみて 絶望を斡旋するのがわたしのよろこび〉〈北極の極ならそんなの埼玉の天使と東京の天使で話しあいなよ〉〈それはそれはチューリップの輪姦でした〉……。さて、表題にもしたが、これらの歌はいわゆるWordの設定でいうところの横書き中央揃えで印字されていて、わたしはこの事実にこだわりがある。というか、これらの歌が横書き中央揃えで印字されていなかったらわたしはこのタイミングでこれらの歌に打たれることはなかっただろうと思う。事実、このあとしばらくの間、わたしは横書き中央揃えで短歌を印字して発表していたし、同じように打たれた(?)石井僚一も2015年の大晦日に「ラヴレターは瀬戸夏子の彼方に」というネットプリントを横書き中央揃えに白黒反転までして出した。〈骨に骨 引き寄せるとき身を捩るあなたはあなたの抒情の墓石〉〈須くシモーヌ・ヴェイユ、檻の降る丘で脚本通りに君を〉。『かわいい海とかわいくない海 end.』刊行直前のこうした流れの中でわたしはこの歌集が横書き中央揃えで刊行されることを信じて疑わなかった。周知のように、この歌集は縦書き一頁三行を基本レイアウトとしている。横書き中央揃えではなかったのだ。ただし、その残り香のように本文中の章題の表記と Special Thanks は横書き中央揃えになっている。〈スイーツその可能性の中心〉〈わたしは無罪で死刑になりたい〉〈生まれかわったら昭和になりたい〉(章題)「過去、現在、未来を問わず短歌を愛し短歌を憎むすべての人々」(Special Thanks)……横書き歌集のことを思い出したのは伊舎堂仁の第二歌集『感電しかけた話』に、表紙、横書きに倒された自選5首の宣伝ツイート、ベースになっていると思われるnote記事などからその可能性を覚えたからだった。とはいえ、リーダビリティ(散文性、非屹立性)から要請される横書きや向井ちはる『OVER DRIVE』のようなデザイン的な横書き(余談になるが、瀬戸の運営していたツイッターの<短歌bot>で名前と歌を知った向井ちはるの歌は縦書きのシンプルなレイアウトで読みたいと思った)とも瀬戸の中央揃えは異なる何かを表象しているように思う。屹立は屹立なのだが、打ち抜き方の形が違う。それが横書き中央揃えという形で具現化された、とまで主張するのはあまりに順接すぎる嫌いもあるけれど。横書き中央揃えという詩の中心点。それは脳内でイメージされる詩的消失点の対極にある。〈青空は左利きだとクイズにあった桜という字はわたしが消した〉(瀬戸夏子「どんな死体なのかな」第二歌集刊行記念特典ペーパー葉ね文庫ver. 横書き中央揃えで印字)

2022年3月7日月曜日

小島なお『展開図』再読

歌集が出てすぐの頃(2020年5月あたり)「心の領地」を境に分断された(当時のわたしはあとがきで「選歌をお願い」されておこなった「高野公彦様」による選歌を選歌が本質的にはらむ暴力性以上の強い力として受け止めてしまった)文体についていけなかったこともあり改めて「心の領地」から読んでいく。


悪いことじゃないよ時間をこなすのは杭の頭に順に触れゆく

花の日は花に甘えてなにか言うための言葉を探さずにおり

また空を浪費しながら私あり覚えておこう使いきるまで

いつまでを友だったのかセロテープ透ける向こうが学生時代

陽だまりを啄む鳩の分身が瞬くたびに増えてゆく午後

セーターについたチョークの粉 いまは抽象的な過渡期と思う

一花ごとにある時間軸 木槿から木槿の時差を渡ってあるく


自分の、心のために使う時間。しかし、内省的ではない。浪費とは一般的な消費感覚に対する批評でもある。セロテープがこちら側とあちら側とのフィルターになる。窓ではなくセロテープ。直線的、縦幅と横幅にかなりの開きがある。任意の点で切ることができる。一回性ではなく残像のように重なりつつ振れる。〈体内に三十二個の夏があり十七個目がときおり光る〉の〈十七〉を特権的に読むこともできるだろうが、それでも固定された点としてクリアに呼び出されるわけではない(セロテープ)〈プレパラートにむかし覗いたものは何 月の産毛も見えそうな夜〉(プレパラート)〈ソフトクリーム舐めてあかるむ喉をいま古い涙のようなもの落つ〉現在形で舐めてあかるむものがソフトクリームであること。単なるノスタルジーではない。差異と反復。「失恋」もまたそのひとつのかたちだろう。ところで、後半の大森静佳『カミーユ』的文体はこうした個的存在者の差異と反復をむしろ抹消してしまう嫌いがあった(〈私だけの夏なわけでもないだろう季節は誰の手紙でもない/小島なお〉〈来てくれて待っててくれて夏の川やさしさはやさしすぎて苦手/同〉翻って『カミーユ』的文体とは歴史的な差異と反復に有効な文体なのだと思う〈明け渡してほしいあなたのどの夏も蜂蜜色に凪ぐねこじゃらし/大森静佳〉〈ダナイード、とわたしは世界に呼びかけて八月きみの汗に触れたり/同〉)。


【「心の領地」以前】

他人の恋は豆電球のあかるさで薄い硝子に触りたくなる

テーブルにLOFTの袋置かれあり黄色はこの世を生きる者の色

雪を踏むローファーの脚後ろから見ている自分を椿と気づく

妹のほそく毛深い後ろ首 躑躅は妊婦のためにある花

灯台はこわい むくんだ産月の妹の脚思い出すから

泣くためにきた用水路さくら浮く水面にほそい蛇泳ぎゆく