2022年3月7日月曜日

小島なお『展開図』再読

歌集が出てすぐの頃(2020年5月あたり)「心の領地」を境に分断された(当時のわたしはあとがきで「選歌をお願い」されておこなった「高野公彦様」による選歌を選歌が本質的にはらむ暴力性以上の強い力として受け止めてしまった)文体についていけなかったこともあり改めて「心の領地」から読んでいく。


悪いことじゃないよ時間をこなすのは杭の頭に順に触れゆく

花の日は花に甘えてなにか言うための言葉を探さずにおり

また空を浪費しながら私あり覚えておこう使いきるまで

いつまでを友だったのかセロテープ透ける向こうが学生時代

陽だまりを啄む鳩の分身が瞬くたびに増えてゆく午後

セーターについたチョークの粉 いまは抽象的な過渡期と思う

一花ごとにある時間軸 木槿から木槿の時差を渡ってあるく


自分の、心のために使う時間。しかし、内省的ではない。浪費とは一般的な消費感覚に対する批評でもある。セロテープがこちら側とあちら側とのフィルターになる。窓ではなくセロテープ。直線的、縦幅と横幅にかなりの開きがある。任意の点で切ることができる。一回性ではなく残像のように重なりつつ振れる。〈体内に三十二個の夏があり十七個目がときおり光る〉の〈十七〉を特権的に読むこともできるだろうが、それでも固定された点としてクリアに呼び出されるわけではない(セロテープ)〈プレパラートにむかし覗いたものは何 月の産毛も見えそうな夜〉(プレパラート)〈ソフトクリーム舐めてあかるむ喉をいま古い涙のようなもの落つ〉現在形で舐めてあかるむものがソフトクリームであること。単なるノスタルジーではない。差異と反復。「失恋」もまたそのひとつのかたちだろう。ところで、後半の大森静佳『カミーユ』的文体はこうした個的存在者の差異と反復をむしろ抹消してしまう嫌いがあった(〈私だけの夏なわけでもないだろう季節は誰の手紙でもない/小島なお〉〈来てくれて待っててくれて夏の川やさしさはやさしすぎて苦手/同〉翻って『カミーユ』的文体とは歴史的な差異と反復に有効な文体なのだと思う〈明け渡してほしいあなたのどの夏も蜂蜜色に凪ぐねこじゃらし/大森静佳〉〈ダナイード、とわたしは世界に呼びかけて八月きみの汗に触れたり/同〉)。


【「心の領地」以前】

他人の恋は豆電球のあかるさで薄い硝子に触りたくなる

テーブルにLOFTの袋置かれあり黄色はこの世を生きる者の色

雪を踏むローファーの脚後ろから見ている自分を椿と気づく

妹のほそく毛深い後ろ首 躑躅は妊婦のためにある花

灯台はこわい むくんだ産月の妹の脚思い出すから

泣くためにきた用水路さくら浮く水面にほそい蛇泳ぎゆく