2019年12月25日水曜日

(たぶん)(ひとりで)週刊短歌第6回

2019年こころに残ったこの短歌   水沼朔太郎

技能実習生あしたまた天気またあしたまたあしたまた天気/井ノ岡拓

今年の短歌研究新人賞最終選考通過作から。ブラック企業の発話のような事情をわかっている側からの声と未来を疑わない技能実習生の声とがはっきりどちらとは確定できないかたちで定型に乗って繰り返される。〈天気〉の行方ははたして。

息継ぎのように苦しく/楽しくて花火で花火に花火を灯す/西村曜

覆われるほどの大きな花火きてみんなのお母さんだと思う/武田穂佳

従来の花火のイメージからは距離のある二首。〈息継ぎのように苦しく〉に野太い花火を〈みんなのお母さん〉に逆説的に「わたしのお母さん」の不在をおもう。

傷つけてしまったことに動悸して秋だろう歯を何度も磨く/大森静佳

さいきんこの歌の〈歯を何度も磨く〉は上句の素直な反応ではないのではないか、と思うようになった。〈秋だろう〉に一定時間の推移を見る。

今日はとても長生きをした行きずりの会話たくさん耳に注いで/平岡直子

同人誌「外出」から。シンプルな歌いぶりだけど、街の喧騒に浸りきった以上の感慨がある。都市詠を装いつつの〈長生きをした〉に一日の安堵、人生の安堵をおもう。

どちらかはみかんのように冷たい手 その手が柄杓にみずを汲みたり/狩峰隆希

どの光とどの雷鳴が対だろう手をつなぐってすごいことでは/佐伯紺

きよちやんと歩きたかつた天神を天六を手をそつとつないで/染野太朗

今年もいろいろありましたが、みなさまお世話になりました。よいお年を!

2019年12月18日水曜日

(たぶん)(ひとりで)週刊短歌第5回

不気味ですらない場所から   水沼朔太郎

パソコンの画面に飽きて雨を見るそれにも飽きて何も見えない
/今井心『目を閉じて砂浜に頭から刺さりたい』

今井心の歌は在るか無いかで言ったら無いものを歌っていると思うのだけど、しかしながら、それは在ることの否定ではないし、無いことを歌うことによってなにかを在らしめることでもない。今井心の歌で歌われていることは在ることの裂け目のようなものではないか。在/不在を生/死と置き換えると、私たちは簡単に生と死を二項対立的に考えるけれど生と死の間にはもっともっとたくさんのグラデーションが存在する(もちろん、死は究極の不在なのかもしれないからグラデーションの極ではなくてグラデーションそのものを無化してしまう可能性もあるけれど)。〈何も見えない〉とは真っ暗であることを意味しない。そこに僅かながらのわたしの意志を見る。

だらだらしているのも疲れるぐいと胸をばねにして立ちしばしそのまま

〈胸をばねに〉ではなくて〈しばしそのまま〉に力点がある。

地下鉄の風にビニール袋鳴るなんにもおもわないってかんじ

〈なんにもおもわない〉のではなくて〈なんにもおもわないってかんじ〉。

何もない場所を見たくて空を見るなんだなんにもなくていいのか

下句いっぱいいっぱい使ってこぼれる僅かながらの感慨。

くまがいない札幌の街くまがいる森の入り口 私は今井

〈斉藤〉のような強さを持たない〈私は今井〉に残る〈井〉の一文字。

満月中の満月中の満月を押すと私がひっくりがえった

〈ひっくりかえった〉ではなくて〈ひっくりがえった〉。

異化と呼ぶにはあまりにのっぺりしている描写が不気味ですらない場所から。

2019年12月11日水曜日

(たぶん)(ひとりで)週刊短歌第4回

短歌における〈すれ〉について、他   水沼朔太郎

(a)すこし前にしばらく〈している〉を〈してゐる〉と書くと宣言したことがあったのだけど、これは口語短歌における〈すれ〉の問題を考えたかったのかもしれない。特に横書きで、具体的には我妻さんの短歌botを見ているときによく感じることだが、短歌における描写は一回では定型に馴染まないことがある。

灯台を建物として貸出す なおこの歌は自動的に消滅する/我妻俊樹

このことをメタ的に歌った歌が〈なんとなくピンとこなくて sympathy って言い直す 言い直す風のなか/平岡直子〉で、この歌は〈三越のライオン見つけられなくて悲しいだった 悲しいだった〉のセルフ本歌取りとしても読める。いわゆる口語短歌が「軽い」だったり軽いがゆえに信憑性が薄いと言われることがあるのは物理的に言葉のグラム数が軽いわけではなくて(主に横書き)一行で書かれたときに↘️から風が漏れてしまっているようなそんな状態を指すのではないかということ。

あかるくて苦しいボタン押したまま馳せてくるひと待っているのよ/我妻俊樹

(b)口語短歌でよく言われるけどけっこう適当にやり過ごしていた連体形と終止形との云々のやつ英語の関係代名詞みたいに読むとおもしろくなることがときどきあるよみたいなことか

(c)短歌の評でのなんでもないようなことを歌にしているが急に腹立たしくなってきたというかそうやって本来短歌として書かれるべきものを想定するなって話だしなんでもないようなことを歌にする場合でも普遍に突き抜けてないといけないというのも大きなお世話だ

緑道に猫のすみつく町だけがふたりをいつもかるく無視した/我妻俊樹

(d)これけっこう強く思うことだけど、短歌の読みって無理しておもしろく読みに行く必要まったくない。おもしろい歌、良い歌って自分が言われたい、が、反転してのおもしろがり、よさがりは害しかないと思う

(e)短歌って読みの集積があっという間に作りの前提になってしまうけれど最終的にはなにも考えずに作るのが一番いいどす

目の中の西東京はあかるくて駐輪コーナーに吹きだまる紙/我妻俊樹

2019年12月4日水曜日

(たぶん)(ひとりで)週刊短歌第3回

「ちから、ちから」再読   水沼朔太郎

前回の文章を書いているときに〈あんなこと(いいな)こんなこといっぱいあったけど正常位にて果てるAV/斉藤斎藤〉を引用するために久しぶりに斉藤斎藤の第一歌集『渡辺のわたし』(新装版)を開いた。『渡辺のわたし』で一番有名な連作は第2回歌葉新人賞受賞作にもなった「ちから、ちから」だと思うのだけど、受賞作掲載から10年以上の歳月を経てたまたま葉ね文庫にあった短歌ヴァーサスのバックナンバーを手に取りあの斉藤斎藤のデビュー作として読んだ初読の感想は連作全体の構造がよくわからない、というものだった。どれぐらいわかってなかったかというと途中に挟まれる〈二年後〉の詞書の前後に人がひとり死んでいるのすらわかっていないレベルでそのことを後に「新装版」の解説を書いている阿波野巧也の文章を読んでようやく理解した。しかしながら、それでもなお連作全体に対する掴めなさは残り続けていてその掴めなさの原因はどこに起因するのだろうと長らく頭の中に残っていたのだが、今回再読してみてその掴めなさの正体が掴めたように思う。阿波野は、

14(水沼注:まばたきのさかんなひとをながめてた 唇でぼくにはなしかけてた)はフラッシュバックする恋人の姿だろうか。記憶のことだからこそ、映像はありありと浮かべど、声をナマな形で再現できなかった、とも読める。とにかく、「君」が交通事故に遭って亡くなったということを、連作を通じて読み取ることが十分に可能だ。
(……)
19 あけがたのわたしはだしのまえあしでまるぼろめんそおるに火をともす
19の歌の前に「二年後」という詞書がある。その歌以降の時制が恋人の死から二年後であることを示唆しているのだろう。
21 ひょっとしてパスタは嫌いだったんじゃ自動改札に引っかかる
二年が経って普通の生活をしていて、自動改札を通ろうとしたときに、ふっと亡くなった恋人のことを思い出す。「パスタは嫌いだったんじゃ」と。「嫌いなんじゃ」ではなく、過去形になっている。もう確認することはできないのだ。ふとしたフラッシュバックによって自動改札に引っかかってしまうのである。

https://note.mu/awano/n/n2bb4c0d7ae98

と書くように、あくまでも恋人が死んだものとして連作を読み進めている。だが、おそらくわたしが初読から引っ掛かっていたのは連作全体のクライマックス的な感もある〈雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁〉の次の一首である〈泣いてるとなんだかよくわからないけどいっしょに泣いてくれたこいびと〉の〈こいびと〉のことだ。もちろん、二年も経てば新しい恋人が出来ていてもなんら不思議はないし、現在の〈こいびと〉に二年前のことを話していなければこのような叙述も可能だろう。しかし〈医師はひとり冷静だったぼくを見た もうそろそろ、とぼくが殺した〉は恋人の死に立ち会う現場としてはいささか不自然であるように思われる。そういう経験がないからわからないけど、死の現場に立ち会えるのは恋人ではなくて家族ではないか。また〈もうそろそろ、〉というのはたとえば延命措置の呼吸器を外す決定権を〈ぼく〉が持っている、ということではないか(この点についての読みは歌集中で後に置かれている連作「父とふたりぐらし」を参照した。〈立場上ひろわずにいられなかった骨のおもさを思い出せない〉〈母の心臓マッサージする当直の医師の背中が表現だった〉〈ここぞとばかり取り乱す父さん越しに医師は私をちろりちろりと〉)。なので、わたしは〈急ブレーキ音は夜空にのみこまれ世界は無意味のおまけが愛〉の〈急ブレーキ〉は作者自身の生活(恋)に対する喩として取った。さらに、これは斉藤斎藤の作家性というか、倫理性みたいなものに踏み込むことになるけれど、斉藤は「あたらしいこいびと」は「あたらしいこいびと」ときちんと書くのではないか。以上のような、観点から連作「ちから、ちから」中で亡くなったと想定される人物は母親であるとわたしは読む。柳本々々は阿波野が〈恋人〉と読んだ対象を〈「愛」に関わるような大事なひと〉http://haiku-new-space03.blogspot.com/2017/09/blog-post_74.html?m=1と読んでいてここで書かれていることに異論はないのだけど、この文章ではこの〈「愛」に関わるような大事なひと〉が〈母親〉であるとさらに書き加えたい。思えば、「ちから、ちから」は〈のり弁〉の歌が異様にクローズアップされるけれど、連作で湧いているのは〈こいびと〉を含む女性への〈性欲〉だ。〈うなだれてないふりをする矢野さんはおそれいりますが性の対象〉〈背後から不意に抱きしめられないと安心してるうなじがずらり〉……〈のり弁〉は三大欲求では〈食欲〉に分類される。そう考えると〈これはのり弁〉にはこれは「性欲」ではない、ぐらいの意味合いしかもしかしたらないのかもしれない。

2019年11月27日水曜日

(たぶん)(ひとりで)週刊短歌第2回

二度あることは三度ある   水沼朔太郎  

蒼井優が、まるで銀色。パソコンをおなかに載せてもういちど見る/平岡直子

https://blog.goo.ne.jp/sikyakutammka/e/c9fced3885ac60830630fd79ca76f294

歌会の初読時にも時評の再読時にもオミットしてしまった部分がちょうど一首のお腹にあたる〈パソコンをおなかに載せて〉なのだけど、せっかく(?)男性歌人のAVを(ながら)観る歌、という補助線を引いたのだから、もう少しこの〈パソコンをおなかに載せて〉いる姿勢/態勢について考えたい。時評では引かなかったのだけど、斉藤斎藤と吉田恭大に〈正常位〉を詠み込んだ歌がある。

あんなこと(いいな)こんなこといっぱいあったけど正常位にて果てるAV/斉藤斎藤

PCの画面あかるい外側でわたしたちの正常位の終わり/吉田恭大

斉藤の歌は観ているAV、吉田の歌はパソコンの外側でのわたしたちであるが、ふたつの〈正常位〉を男女の性行為と読んだ場合に仰向けになっているのは女性の方だ。それで、まあ、無理な読み筋かもしれないけれど、仰向けをベースに考えたとき、〈パソコンをおなかに載せて〉いる姿勢/〈パソコンをおなかに載せ〉る態勢というのはいわばL字型に起き上がるような格好になるのではないか。その女性がL字型に90°起き上がる運動を女性性の主体化の運動と重ね合わせることはできないか、みたいなことを思ったのだけど、と、同時にはじめはいったいどんな姿勢/態勢で見ていたのだろう?という疑問も浮かんだ。それに、〈パソコンをおなかに載せて〉いる姿勢/態勢って仰向けの状態そのものの可能性もあって、事実、発売されたばかりの『短歌』12月号の「短歌月評Ⅱ」で大森静佳はこの歌を「仰向けに寝転がって、パソコンの熱を感じながら蒼井優の動画を再生している場面。「もういちど見る」とあるから、映画やドラマのような長いものではなくてインタビューのようなもの、もしかしたら今年六月の結婚会見の動画かもしれない。」と読んでいる。個人的には大森の評では「もういちど見る」をもういちどはじめから再生する、と読んでいるのが興味深かった。というのも、わたしは〈もういちど見る〉を「あ、ぽん、ああ」ぐらいのもっともっとミクロな時間での〈もういちど見る〉だと読んでいたから。と、いうところまで書いてから、わたしが検討したかったのは〈もういちど見る〉前は必ずしもパソコンを〈おなかに載せて〉いたわけではなかったのではないか、という点で、だから、漠然と見ている〈もういちど見る〉以前はパソコンを地べたに置いて肘をついた状態で寝転がりながら見ていた可能性もある。その漠然とした状態の中で〈まるで、銀色。〉という感覚が降りてきた。だから〈もういちど見る〉というのはニュアンス的には「はじめてちゃんと見る」ことではないか。少なくともそこにはおなじ動画をおなじ感動の状態で見るのではないなんらかの質的差異が生まれているはずだ。

2019年11月20日水曜日

(たぶん)(ひとりで)週刊短歌第1回

短歌という矩形/短歌矩形の法則   水沼朔太郎

灯さずにゐる室内に雷(らい)させば雷が彫りたる一瞬の壜/小原奈実

カーテンに鳥の影はやし速かりしのちつくづくと白きカーテン/小原奈実

小原奈実が好きだと言う歌人に小原さんの歌で雷の歌とカーテンの歌とではどっちの歌が好きですか?と訊いたことがある。いい質問をしたなと我ながら思ったけれど、話の間が合わなくてその場では答えを聞けずに話は流れてしまった。この二首は小原さんの代表歌だと思うけれど、ではなにをもって代表歌か?と問われるとむずかしい。カーテンの歌は鳥の、しかもその影の速さが魅力的だ。けれど、最後には白いカーテンが残る。雷の歌も最終的に雷そのものは消えてしまう。そして、それが残した〈一瞬の壜〉という修辞に短歌が残る。短歌は矩形だ。そして、ほとんどの短歌一首は縦に長い矩形である。

灯さずにゐる室内に雷(らい)させば雷が彫りたる一瞬の壜/小原奈実

雷がさし、稲妻が走った。彫るように走った稲妻は上から下へ読むという短歌一首の運動の自然法則とも呼応して〈一瞬の壜〉の〈壜〉にソーダやコーラの壜のような縦に長いかたちをイメージさせる。さて、一方で〈室内〉は〈室内〉それ自体でまた矩形である。一首に「稲妻が走った」とは直接書かれていないことからこの〈雷〉が室内全体を覆うような光であると読むことも可能だろう。つまり、暗闇に稲妻が一本走ったのではなく室内空間の暗闇全体が光を帯びたと読む。そうすると、結句の〈一瞬の壜〉は縦に長いではなく隕石が落ちた痕跡のような円形の窪みになる。縦に長いことと面積が生じること。前者は上句から下句へという一首の運動を〈一瞬の壜〉=「稲妻」と解釈する。後者は〈ゐる〉〈たる〉からつづく右回りの円環が〈壜〉として着地する。このとき短歌一首のイメージは最後の最後で窪むがそれも一瞬の出来事だ。短歌は矩形に戻ろうとする。

雷を窓ガラスごと見てしまう四角く腕をかためた私/椛沢知世

例えば〈カーテンに遮光の重さ くちづけを終えてくずれた雲を見ている/大森静佳〉では〈カーテンに〉〈重さ〉を見ることで内側と外側を分断し、室内の外側を見せることに成功している。だが、この一首では〈私〉自身が〈雷を窓ガラスごと見てしまう〉ことによって仕切り板そのものになる。仕切り板は正確に挿されなければならない。だから〈私〉は〈四角く腕をかため〉る。短歌は矩形を志向する。

カーテンに鳥の影はやし速かりしのちつくづくと白きカーテン/小原奈実

最後の一首。この一首はあたかも短歌が矩形であることを忘れてしまったかのような一首だ。鳥の、しかもその影の速度のみを伝える。しかし、と思う。カーテンはそれ自体では風に飛ばされてしまう危険性がある。風に飛ばされてしまうのも決して悪いことではないが、カーテンはカーテンであろうとする。カーテンがカーテンであるためにはカーテンレールが必要不可欠だ。カーテンレールがあることによってカーテンは矩形をかたち作ることができる。白いカーテンが白旗のように一度揺れ、静止する。

2019年11月14日木曜日

永井祐とエポケー


前回のブログ更新からちょうど一ヶ月。なにか書きたい、という気持ちだけがある状態だったのでツイッターで「なにかお題や話題や課題を」とつぶやいたら(たぶん課題枠だろう)ベテラン中学生(青松輝)さんから「永井祐」というリプライがきた。


去年の9月に出した合同歌集『ベランダでオセロ』の100首の中で〈永井祐〉を詠み込んだ歌を2首入れた。他に歌人では〈瀬戸夏子〉が1首、〈相良宏〉が1首だから歌人名詠み込みランキングでは堂々の第一位である。〈永井祐〉や〈瀬戸夏子〉を歌に詠み込んだのは個人的に愛着があることも理由のひとつではあるけれど、それとおなじくらいわたしから見てひとつ上の世代の象徴的存在であるからというのもあった。


意外に思われるかもしれないけれど、わたしが最初に永井祐の歌に魅力を感じたのは瀬戸夏子が運営していた〈短歌bot〉だった。『日本の中でたのしく暮らす』に所収の歌だと


だるい散歩の途中であったギャルたちにとても似合っている秋だった/永井祐

ゴミ袋から肉がはみ出ているけれどぼくの望みは駅に着くこと


あたり(確実にそれとわかるのが意外となかった)。他に、瀬戸夏子『現実のクリストファー・ロビン』に引用されている〈運動会の日のような朝 3Fのマックで食事を取る女の子〉〈ピンクの上に白でコアラが みちびかれるように鞄にバッジをつける〉あたりも歌集を読む前の段階の比較的早いタイミングで目にした記憶がある歌だ。並べた4首はいずれも自分から遠いもの、異なるものとの邂逅の瞬間がものの見事に示されている。


ところで、永井祐の歌の後の世代への影響というのは基本的には永井祐から男性歌人へという文脈で語られることが多いように思う。思う、というかわたしはそう考えてきた。しかし、今回あてもなくぼやぼやと書いているうちにいま挙げた4首のような歌と一番読み心地が近いのは最近の歌集だと寺井奈緒美『アーのようなカー』のいくつかの歌ではないかと思い始めた。


だれのものでもなくなったマイメロディのキーホルダーが小枝に揺れる/寺井奈緒美

背景を書き込みすぎてくどくなる漫画のようにゆっくり歩く

立ち読みをしている人の首筋に虹色の縄をかける日差し

火事を見る人の背中はちいさくて帰るタイミングを探してる


寺井の歌の場合は遠いもの、異なるものとの邂逅の瞬間というよりも社会的な文脈ではグレーゾーンに位置するような事物や場面を一度その枠組みを外して捉えようとしている。エポケー(判断を留保すること、括弧を取り除くこと、色眼鏡を外すこと)という言葉は歴史的には写生の文脈で使用されてきたけれど、ここにあるのは価値観のエポケーと呼び得るような事態ではないか。

すこし話が逸れてしまったかもしれないけれど、わたしが永井祐から影響を受けたことのなかにはこういった物との接触の方法の仕方がある。これについてはもしかしたら永井祐の歌よりも永井祐が書いた土屋文明、佐藤佐太郎、玉城徹についての文章を読む方がいいかもしれないけれど。

2019年10月14日月曜日

『歌壇』11月号を読みました


「読みたいコンテンツがふたつある号の総合誌はとりあえず買っておけ!」とは短歌生活5年目になるわたし自身の言葉だ。自分自身の言葉に従って『歌壇』を数年ぶりに購入した。ちなみに、先月は『短歌研究』『現代短歌』に加えて低迷著しい『短歌』も買ってしまった。そろそろ購入基準をコンテンツふたつからみっつに上げるときが来ているのかもしれない。そんなわけで久しぶりのブログ更新である。昨日(さくじつ)のプロ野球、いだてん、ラグビー、バレーにつづき本日は出雲駅伝があったのだが、泣く泣くブログを更新する。さて、短歌における神的な力と言えば選歌をおいてほかにないだろう。本来ここでは「短歌はフォース(霊力)だ」(吉川宏志)を持ち出して短歌実作者の力を褒め称えるのが賢明なことなのかもしれないが、わたしはあんまりわたしたちの作歌能力に関心がないので自主却下としたい。選歌、というのはなにもあの大物選者群による選だけを指すのではない。わたしたちは短歌をやる限りにおいてつねに選歌をしている。「この連作ではこの歌が一番好きでした」も立派な選歌だ。しかし、一方で、なぜあの歌ではなくこの歌なのか?と真面目に考えだすとなかなかにむずかしい。つまり、選歌とは歌群から歌を選び出すという選別的/絶対的な作業にもかかわらずその作業には必ず比較化/相対化がつきまとう。


ページの端がちょっと折れても元気でね若者や恐竜のようにね/平岡直子


『歌壇』2019年11月号の巻頭作品20首から。たとえば、20首から強制的に好きな短歌を1首決めれるまで帰れませんというゲームがあったとしたらわたしはこの1首を選んで早々に帰宅するだろう。だが、帰宅の際にマイクを向けられて「この1首の魅力は?」と聞かれたらわたしはなにも答えたくない。間違っても若者と恐竜を並置しているところに云々などとは。それでもなにか意味のある言葉を言わなければならないとしたらそのときにこそ使いたい。「短歌はフォース(霊力)だ」と。


歌そのものを直感で掴んでその掴んだ直感を時系列的に評というかたちで開示しそれによって評の読み手と直感と直感でつながるのはあまりいいことではないのでないか、書くということは自身で掴んだ直感をいったん別のかたちに置き換えた上でおこなわれるものなのではないか、という指摘を間接的に耳にしたことがあった。この言葉は掴んだ直感をできるだけ正確にトレースすることでなんとか評の体裁を保っていたわたしの耳にとってもとても痛い言葉であったけれど……


ところで、このブログ全体をわたしは「短歌の空間」と名付けている。短歌とはなにか。あるいは、定型とはなにか、韻律とはなにか、という類の問いは定期的に持ち上がる話題だけれど、たとえばおなじ今月の歌壇に載っている〈位牌より大きく墓石より小さく夜よりほんの少しだけ暗く/藪内亮輔〉をひとつの短歌の空間として把握することは可能だろうか。この歌は短歌のことを歌っているという発言が持つ白々しさには同意した上で「これは短歌だ」と口に出してしまったその手前にあったはずの空間。それを言語や紙の物質性に訴えてしまうとたちまちにどの歌でもそうじゃんとなってしまう、ゆえに、それはやはりそこで訴えられる類のものではない空間。それを、神秘化させないための、選歌。


ページの端がちょっと折れても元気でね若者や恐竜のようにね/平岡直子


位牌より大きく墓石より小さく夜よりほんの少しだけ暗く/藪内亮輔

見開きの本の半分のページの元気さと位牌より大きく墓石より小さい空間があなたにも生まれますように。

2019年8月27日火曜日

小中英之『翼鏡』について


明日、月と600円という歌集を読む会で第一歌集『わがからんどりえ』のレポートをするのだけど、それにあわせて現代短歌文庫で第二歌集『翼鏡』も読んだのでせっかくだし簡単に感想を書いておこうと思う。『翼鏡』については今月頭に出た『ねむらない樹』vol.3の「忘れがたい歌人・歌書」のコーナーで栗木京子が取り上げているので興味のある方はそちらもぜひ。その文章で栗木さんが「とりわけ印象深い」歌として挙げている集中ラストの

 

茅蜩のこゑ夭(わか)ければ香のありてひときは朱し雨後の夕映

 

はわたしもいい歌だと思う。茅蜩の声から〈香〉を感知したことによってシンプルな叙景歌にとどまらない魅力がある。『わがからんどりえ』はよくもわるくも〈われ〉であれ〈友〉であれ人間の存在/不在が前面に出ていてそれがダイナミックな詠い上げに結びついている一方、『翼鏡』は小中自身が〈螢田てふ駅に降りたち一分の間(かん)にみたざる虹とあひたり〉について書いている散文中で「そうして虹に「逢えた」日から、私の歌は変り始めた。ひそかに「人断ち」を自分の内的世界に課して、より頑固になった。」と記すように人間の影が薄い。そしてその「人断ち」を経て描かれる風景がとても魅力的だ。『わがからんどりえ』では〈月射せばすすきみみづく薄光りほほゑみのみとなりゆく世界〉と闇夜に射す月光によってそれはうっすらと光るものだったが、『翼鏡』ではむしろ光/闇という対比ではなく光そのもののグラデーションを描くことによって一本の光が顕ち上がってくる。
 

夕ひかりつつむ萱原さむくして貴(あて)なるごとく茎のかがよふ

庭の上(へ)のうす雪ふみて雉鳩のつがひ来あそぶこゑなくあそぶ

春の野のあかるき上にかぎりある夢とて草より青く波立つ

青すすき倒して水を飲み終えし四方(よも)さやさやと青芒立つ

立冬の昼すぎてよりいこふとき雲の涯(はたて)に水いろ軽(かろ)し

蓮枯るる間(かん)の水の上(へ)めぐりつつ午後四時ごろの水鳥の飢ゑ

枯野より枯野へかけて官能のごとくに日ざし移ろひゆけり

池の端あゆみゆくとも水澄まず水鳥に一日(ひとひ)終らむとして

2019年7月27日土曜日

花を愛でたらーー仲田有里について



いろいろと厳しいことが続いたので久しぶりに花を買った。花屋で買う元気まではなかったのでスーパーの仏花とか置いてあるコーナーでスカシユリを買った。直前に花を買っていたおばあさんもおなじ花を買っていたことをレジで知ってちょっと嬉しかった。青系統の細い花がついていればなんでもよかったので薄紫の花がついているものを買ったが、スカシユリで検索してみるもまったくおなじ色合いの花が出てこなくて不安になる。薄紫の小ぶりな花はあくまでも脇役のような状態で中央にでかでかと開花前っぽいものが五つほどあるのだが、もしかしたらこれがスカシユリなのかもしれない。


見たことのあるおじさんが自転車で 花を愛でたらおしまいと思う/仲田有里


花を買うときに必ずといっていいほど頭をよぎる一首なのだけど、それでも変な説教臭さがないのは歌が決して皮肉の体をなしていないからだろう。いや、この一首だけがもし歌会で出されたりしたらそういった読みが出て花好きな方のなかにはむっとしてしまう人も出てしまうかもしれない。けれども、少なくとも半分身に沁みつつわたしがそうはならないのは『マヨネーズ』という歌集一冊を読み進める中でこの歌に出会ったからだ。〈目の前の人を力の限り振り回してみたい 自分のために〉を自分勝手な歌だと読まないのは文字通り〈自分のために〉歌われているからだろう。ただし、言い方がむずかしいのだが、これは作者が作者のために、ということではない。歌が〈わたし〉に徹することで読み手も共感や代入とは違った仕方で〈わたし〉のスペースを確保することが可能になる。自分の部屋を持ちましょう!と呼びかけることと具体的に自分の部屋の持ち方を示すことで各々の自分の部屋の持ち方に思考を誘うことの違い。

2019年7月22日月曜日

定型と力みーー大森静佳の近作について


せっかくリアルタイムで追えているのに批評されたり広く読まれたりするのは歌集としてまとまったときというのはあまりにも惜しいことだと思う。もちろん反対にたとえば花山周子『林立』のように歌集としてまとまったことで自分がまだ短歌を始めてさえいなかった頃の歌群を読むことが可能になることもある。要は、どちらもタイミングなのだけど、せっかくなのでいま熱心に追っている歌人のひとりである大森さんの『カミーユ』以降の歌をすこし読んでみたい。

と、書き出しておいてあれなのだが、まずは良くない歌について見てみたい。


おもいつめ深く張り裂けたる柘榴あなたの怯えがずしりとわかる

しんとした部屋でお米を磨いでいる 愛が反転したら吹雪だ

/大森静佳「ミイラ」『京大短歌』25号(2019年5月)


下句の〈あなたの怯えがずしりとわかる〉〈愛が反転したら吹雪だ〉に注目されたい。もちろん〈ずしりと〉や〈反転したら〉を文字通り受け取ることもできるだろう。そうすれば、〈ずしりと〉という表現によってずっしりとした感じが伝わってくる(〈わかる〉は読み手が〈わかる〉ことを手助けする単語でもある)。あるいは、〈反転したら〉を文字通り〈反転〉として読み〈愛〉と〈吹雪〉との反転を楽しむ。そうした読みはひとつの読みとしては決して否定されるものではない。しかし、ここには力みが発生しているように思う。誰の力みか?といえばもちろん作者の力みなのだけれどそもそも定型自体がひとつの力みだと考えることもできるだろう(短歌に慣れていない人の読み上げるぎこちない5・7・5・7・7の発声を思い出されたい)。力みにさらに力みが重なる。一方、こんな歌はどうか。


いつだって悔しさは勇み足で来る青すぎるカーディガンを干して

/大森静佳「アナスタシア」『文學界』2018年12月号


〈悔しさ〉を感情の力能と捉えた上での話になるが、この歌では文字通り〈悔しさ〉という感情の力能が〈勇み足〉で来てしまったがために文字面では突き抜けてしまった力みが定型の上では適度に脱力化され歌に奥行きを作っている。〈青すぎるカーディガンを干して〉という〈バスタオル2枚重ねて干している自分を責める星空の下/仲田有里〉と比べればあまりにも清々しいフレーズが後に続くのがなによりの証拠だろう(〈青すぎるカーディガン〉に清々しさを感じたのはこの連作に添えられている山元彩香の写真に拠る部分も大きいことは断っておきたい)。


ところで、『カミーユ』をリアルタイムからすこし遅れて読んだわたしが大森さんの歌で最初に感動した一首は『現代短歌』2018年10月号の〈両腕はロゴスを超えている太さふかぶかと波を掻ききらめきぬ〉だった。


両腕はロゴスを超えている太さふかぶかと波を掻ききらめきぬ

/大森静佳「熱砂」『現代短歌』2018年10月号


初読のときはそこまで読めていなかったのだが、この歌は「身体」と「言葉」(ロゴス)との二項対立的な歌ではない。むしろ最終的には〈ロゴス〉という一語にきらめきを与える一首だ。〈ロゴスを超え〉たところで〈ロゴス〉がお役御免とはならず両腕が波を掻いているまさにその場こそが〈ロゴス〉になっているのがこの歌のすごいところだ。


最後に『現代短歌』の作品連載から定型と力みの配合がうまくいっている歌をいくつか引用して終わりにしたい。




真夜中に観る映画には独特のすずしさがあって巻き戻さない

力を抜けば風の重さもわかるからしばらく肩に風をあつめて

傷つけてしまったことに動悸して秋だろう歯を何度も磨く

父母よ猫の木乃伊をつくりにゆこう水匂うソルトレイクシティへ

繭ごもる怒りのことを教えてよエスカレーターで手に触れるとき

表情のきりぎしにあなたはいてほしい夜風にしろく裂ける姥百合

2019年7月18日木曜日

生活の基本単位は月ベース

毎年恒例なのだが今年は収入が過去最高だとかで絶好調のためまさかの来ない可能性もあるのかと思っていた某某Kの更新手続きが先ほどやってきた。我が家と某某Kとの関係は少々変則的だ。最初の来訪でころっと契約させられてしまったためいわゆる契約する/しないでぐちぐちとやりあう段階は存在しなかった。その代り一年に一回お金を払う意志があるという契約をしなければならない。とはいえ、現在のところわたしは一円も払わずに済んでいる。おまけに、契約はしているもんだから定期的に払いなさいの書類は来るけれど一年に一回以外は契約の勧誘に夜な夜な来ることもない。なので、もしも定期的に勧誘に来られるのが嫌という方は一度契約して払わないのもひとつの手かと思います。と、ここまで書くとあたかもわたしは払わないのが当たり前だ、みたいに思われるかも知れないが、正直なところ、別に払ってもいいぐらいのスタンス。実際、まあまあ某某Kは観ているし。ただ、最初の(今から8年前か)契約手続きの後に母親に電話したら「そんなものは払わなくていい」と言われそのまま従っているうちにどんどん蓄積されてまとめて払うのは不可能な額になってしまって今にいたるというわけ。先週、奨学金のことを書いたけれど、わたしは総額よりも月額を気にするタイプの人間なので変な話月額でなんとか払える金額であれば延々払い続けてもべつに構わない。とはいえ、ようやく去年から労働時間が増えたことで引かれる税金諸々の多さを知ることになったのでやっぱりそういう諸々は少ないに越したことはないなとも思うのだけど、それでも生活の基本単位が月ベースなのは変わらない。生活の基本単位は月ベース。だから月詠というシステムには向いていると思う。今月しけてるとかいう理由で今日の午後今月2回目のネプリを配信し始めてしまったのでなーにが生活の基本単位が月ベースだとも言えるんだけどそこは大目に見てほしい。契約の手続きを終えてそのまま書き出したから言葉がまったく落ち着かなかった。大阪は雨です。最近は留学生かなにかで一年に十日ぐらいしか帰って来ない隣人が毎日のように帰って来るのでまた少し落ち着かない日々を過ごしている。この部屋に住み始めて8年…ではなかった!10年目になる。隣の住人は5回は変わった。いい加減環境を変えたいがまだまだ他力本願の日々は続きそうだ。

2019年7月11日木曜日

出島みたいに

書かなければならない形式的な書類がひとつある。集中して書けばおそらく一時間程度で終わる類のものなのだが、その一時間の集中が作れない。毎年書いている形式的な書類といえば、奨学金の返還猶予希望の書類だ。書き始めた頃は、返還猶予期間が最大十年だったのだが、うだうだ引き延ばしている間に最大十五年になった。夏頃に書類が届くので今年もそろそろである。今年こそ一人で生計を立てられるよう自立し一刻も早く返還できるよう努力します、と毎年のように書いている。社会的に見れば小さな、けれど個人的にはそれだけで数ヶ月あれこれと期待が持続するようなことがここ数年ようやく起こり始めた。しかしながら、それらはわずか一週間のネプリ配信期間中に感想がないかないかとエゴサを繰り返してしまうようなレベルのものだと考えることもでき、根本的な変化にはいたっていない。今年の冬に母親が精神病院に入院してしまったときもちろんそれは自分自身にとってもつらいことではあったけれど、根本的な変化が起こるかもしれない、という淡い期待を持ってもいた。要は、お金は使えば廻るのとおなじことで個人的に〈絶対値理論〉と呼んでいるものでもあるのだが、とにかく絶対値の値を大きくすることで環境に負荷を与えてやる。結果的に、根本的な変化は起こらなかった。引き延ばす、ということもそれはそれでひとつの生きる技法である。まだ、や、もしかしたら、を永遠に手放さないこと。そんなふうにして大阪でずるずる暮らしているわけだが、ただひとつの場所に消極的な理由でとどまり続けているにもかかわらず、周囲の環境はどんどん変化してもいく。信じられない人が大阪に越してきて隣駅のマクドでお茶をしたり職場内転職のようなかたちで大阪を離れた人もいた。秋にはまた新たな人々が大阪にやってくる。以前、東京に住んでいる人に「水沼さんが東京に来たらおもしろそうだけど、大阪に出島みたいにいるのもおもしろい」と言われたことがあった。出島みたいに、という比喩が気に入ったのでときどき自分が出島になっている姿をイメージする。そのときわたしがイメージする出島の位置は文字通り長崎にある出島なのだが、東京・大阪と大阪・出島は右から左にベクトルが向かうという点ではおなじなのでよしとする。きのう思いついた海老ペルーという言葉につぼっている。東京をあるいてメリークリスマス/今井杏太郎