2019年12月4日水曜日

(たぶん)(ひとりで)週刊短歌第3回

「ちから、ちから」再読   水沼朔太郎

前回の文章を書いているときに〈あんなこと(いいな)こんなこといっぱいあったけど正常位にて果てるAV/斉藤斎藤〉を引用するために久しぶりに斉藤斎藤の第一歌集『渡辺のわたし』(新装版)を開いた。『渡辺のわたし』で一番有名な連作は第2回歌葉新人賞受賞作にもなった「ちから、ちから」だと思うのだけど、受賞作掲載から10年以上の歳月を経てたまたま葉ね文庫にあった短歌ヴァーサスのバックナンバーを手に取りあの斉藤斎藤のデビュー作として読んだ初読の感想は連作全体の構造がよくわからない、というものだった。どれぐらいわかってなかったかというと途中に挟まれる〈二年後〉の詞書の前後に人がひとり死んでいるのすらわかっていないレベルでそのことを後に「新装版」の解説を書いている阿波野巧也の文章を読んでようやく理解した。しかしながら、それでもなお連作全体に対する掴めなさは残り続けていてその掴めなさの原因はどこに起因するのだろうと長らく頭の中に残っていたのだが、今回再読してみてその掴めなさの正体が掴めたように思う。阿波野は、

14(水沼注:まばたきのさかんなひとをながめてた 唇でぼくにはなしかけてた)はフラッシュバックする恋人の姿だろうか。記憶のことだからこそ、映像はありありと浮かべど、声をナマな形で再現できなかった、とも読める。とにかく、「君」が交通事故に遭って亡くなったということを、連作を通じて読み取ることが十分に可能だ。
(……)
19 あけがたのわたしはだしのまえあしでまるぼろめんそおるに火をともす
19の歌の前に「二年後」という詞書がある。その歌以降の時制が恋人の死から二年後であることを示唆しているのだろう。
21 ひょっとしてパスタは嫌いだったんじゃ自動改札に引っかかる
二年が経って普通の生活をしていて、自動改札を通ろうとしたときに、ふっと亡くなった恋人のことを思い出す。「パスタは嫌いだったんじゃ」と。「嫌いなんじゃ」ではなく、過去形になっている。もう確認することはできないのだ。ふとしたフラッシュバックによって自動改札に引っかかってしまうのである。

https://note.mu/awano/n/n2bb4c0d7ae98

と書くように、あくまでも恋人が死んだものとして連作を読み進めている。だが、おそらくわたしが初読から引っ掛かっていたのは連作全体のクライマックス的な感もある〈雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁〉の次の一首である〈泣いてるとなんだかよくわからないけどいっしょに泣いてくれたこいびと〉の〈こいびと〉のことだ。もちろん、二年も経てば新しい恋人が出来ていてもなんら不思議はないし、現在の〈こいびと〉に二年前のことを話していなければこのような叙述も可能だろう。しかし〈医師はひとり冷静だったぼくを見た もうそろそろ、とぼくが殺した〉は恋人の死に立ち会う現場としてはいささか不自然であるように思われる。そういう経験がないからわからないけど、死の現場に立ち会えるのは恋人ではなくて家族ではないか。また〈もうそろそろ、〉というのはたとえば延命措置の呼吸器を外す決定権を〈ぼく〉が持っている、ということではないか(この点についての読みは歌集中で後に置かれている連作「父とふたりぐらし」を参照した。〈立場上ひろわずにいられなかった骨のおもさを思い出せない〉〈母の心臓マッサージする当直の医師の背中が表現だった〉〈ここぞとばかり取り乱す父さん越しに医師は私をちろりちろりと〉)。なので、わたしは〈急ブレーキ音は夜空にのみこまれ世界は無意味のおまけが愛〉の〈急ブレーキ〉は作者自身の生活(恋)に対する喩として取った。さらに、これは斉藤斎藤の作家性というか、倫理性みたいなものに踏み込むことになるけれど、斉藤は「あたらしいこいびと」は「あたらしいこいびと」ときちんと書くのではないか。以上のような、観点から連作「ちから、ちから」中で亡くなったと想定される人物は母親であるとわたしは読む。柳本々々は阿波野が〈恋人〉と読んだ対象を〈「愛」に関わるような大事なひと〉http://haiku-new-space03.blogspot.com/2017/09/blog-post_74.html?m=1と読んでいてここで書かれていることに異論はないのだけど、この文章ではこの〈「愛」に関わるような大事なひと〉が〈母親〉であるとさらに書き加えたい。思えば、「ちから、ちから」は〈のり弁〉の歌が異様にクローズアップされるけれど、連作で湧いているのは〈こいびと〉を含む女性への〈性欲〉だ。〈うなだれてないふりをする矢野さんはおそれいりますが性の対象〉〈背後から不意に抱きしめられないと安心してるうなじがずらり〉……〈のり弁〉は三大欲求では〈食欲〉に分類される。そう考えると〈これはのり弁〉にはこれは「性欲」ではない、ぐらいの意味合いしかもしかしたらないのかもしれない。