2019年11月27日水曜日

(たぶん)(ひとりで)週刊短歌第2回

二度あることは三度ある   水沼朔太郎  

蒼井優が、まるで銀色。パソコンをおなかに載せてもういちど見る/平岡直子

https://blog.goo.ne.jp/sikyakutammka/e/c9fced3885ac60830630fd79ca76f294

歌会の初読時にも時評の再読時にもオミットしてしまった部分がちょうど一首のお腹にあたる〈パソコンをおなかに載せて〉なのだけど、せっかく(?)男性歌人のAVを(ながら)観る歌、という補助線を引いたのだから、もう少しこの〈パソコンをおなかに載せて〉いる姿勢/態勢について考えたい。時評では引かなかったのだけど、斉藤斎藤と吉田恭大に〈正常位〉を詠み込んだ歌がある。

あんなこと(いいな)こんなこといっぱいあったけど正常位にて果てるAV/斉藤斎藤

PCの画面あかるい外側でわたしたちの正常位の終わり/吉田恭大

斉藤の歌は観ているAV、吉田の歌はパソコンの外側でのわたしたちであるが、ふたつの〈正常位〉を男女の性行為と読んだ場合に仰向けになっているのは女性の方だ。それで、まあ、無理な読み筋かもしれないけれど、仰向けをベースに考えたとき、〈パソコンをおなかに載せて〉いる姿勢/〈パソコンをおなかに載せ〉る態勢というのはいわばL字型に起き上がるような格好になるのではないか。その女性がL字型に90°起き上がる運動を女性性の主体化の運動と重ね合わせることはできないか、みたいなことを思ったのだけど、と、同時にはじめはいったいどんな姿勢/態勢で見ていたのだろう?という疑問も浮かんだ。それに、〈パソコンをおなかに載せて〉いる姿勢/態勢って仰向けの状態そのものの可能性もあって、事実、発売されたばかりの『短歌』12月号の「短歌月評Ⅱ」で大森静佳はこの歌を「仰向けに寝転がって、パソコンの熱を感じながら蒼井優の動画を再生している場面。「もういちど見る」とあるから、映画やドラマのような長いものではなくてインタビューのようなもの、もしかしたら今年六月の結婚会見の動画かもしれない。」と読んでいる。個人的には大森の評では「もういちど見る」をもういちどはじめから再生する、と読んでいるのが興味深かった。というのも、わたしは〈もういちど見る〉を「あ、ぽん、ああ」ぐらいのもっともっとミクロな時間での〈もういちど見る〉だと読んでいたから。と、いうところまで書いてから、わたしが検討したかったのは〈もういちど見る〉前は必ずしもパソコンを〈おなかに載せて〉いたわけではなかったのではないか、という点で、だから、漠然と見ている〈もういちど見る〉以前はパソコンを地べたに置いて肘をついた状態で寝転がりながら見ていた可能性もある。その漠然とした状態の中で〈まるで、銀色。〉という感覚が降りてきた。だから〈もういちど見る〉というのはニュアンス的には「はじめてちゃんと見る」ことではないか。少なくともそこにはおなじ動画をおなじ感動の状態で見るのではないなんらかの質的差異が生まれているはずだ。

2019年11月20日水曜日

(たぶん)(ひとりで)週刊短歌第1回

短歌という矩形/短歌矩形の法則   水沼朔太郎

灯さずにゐる室内に雷(らい)させば雷が彫りたる一瞬の壜/小原奈実

カーテンに鳥の影はやし速かりしのちつくづくと白きカーテン/小原奈実

小原奈実が好きだと言う歌人に小原さんの歌で雷の歌とカーテンの歌とではどっちの歌が好きですか?と訊いたことがある。いい質問をしたなと我ながら思ったけれど、話の間が合わなくてその場では答えを聞けずに話は流れてしまった。この二首は小原さんの代表歌だと思うけれど、ではなにをもって代表歌か?と問われるとむずかしい。カーテンの歌は鳥の、しかもその影の速さが魅力的だ。けれど、最後には白いカーテンが残る。雷の歌も最終的に雷そのものは消えてしまう。そして、それが残した〈一瞬の壜〉という修辞に短歌が残る。短歌は矩形だ。そして、ほとんどの短歌一首は縦に長い矩形である。

灯さずにゐる室内に雷(らい)させば雷が彫りたる一瞬の壜/小原奈実

雷がさし、稲妻が走った。彫るように走った稲妻は上から下へ読むという短歌一首の運動の自然法則とも呼応して〈一瞬の壜〉の〈壜〉にソーダやコーラの壜のような縦に長いかたちをイメージさせる。さて、一方で〈室内〉は〈室内〉それ自体でまた矩形である。一首に「稲妻が走った」とは直接書かれていないことからこの〈雷〉が室内全体を覆うような光であると読むことも可能だろう。つまり、暗闇に稲妻が一本走ったのではなく室内空間の暗闇全体が光を帯びたと読む。そうすると、結句の〈一瞬の壜〉は縦に長いではなく隕石が落ちた痕跡のような円形の窪みになる。縦に長いことと面積が生じること。前者は上句から下句へという一首の運動を〈一瞬の壜〉=「稲妻」と解釈する。後者は〈ゐる〉〈たる〉からつづく右回りの円環が〈壜〉として着地する。このとき短歌一首のイメージは最後の最後で窪むがそれも一瞬の出来事だ。短歌は矩形に戻ろうとする。

雷を窓ガラスごと見てしまう四角く腕をかためた私/椛沢知世

例えば〈カーテンに遮光の重さ くちづけを終えてくずれた雲を見ている/大森静佳〉では〈カーテンに〉〈重さ〉を見ることで内側と外側を分断し、室内の外側を見せることに成功している。だが、この一首では〈私〉自身が〈雷を窓ガラスごと見てしまう〉ことによって仕切り板そのものになる。仕切り板は正確に挿されなければならない。だから〈私〉は〈四角く腕をかため〉る。短歌は矩形を志向する。

カーテンに鳥の影はやし速かりしのちつくづくと白きカーテン/小原奈実

最後の一首。この一首はあたかも短歌が矩形であることを忘れてしまったかのような一首だ。鳥の、しかもその影の速度のみを伝える。しかし、と思う。カーテンはそれ自体では風に飛ばされてしまう危険性がある。風に飛ばされてしまうのも決して悪いことではないが、カーテンはカーテンであろうとする。カーテンがカーテンであるためにはカーテンレールが必要不可欠だ。カーテンレールがあることによってカーテンは矩形をかたち作ることができる。白いカーテンが白旗のように一度揺れ、静止する。

2019年11月14日木曜日

永井祐とエポケー


前回のブログ更新からちょうど一ヶ月。なにか書きたい、という気持ちだけがある状態だったのでツイッターで「なにかお題や話題や課題を」とつぶやいたら(たぶん課題枠だろう)ベテラン中学生(青松輝)さんから「永井祐」というリプライがきた。


去年の9月に出した合同歌集『ベランダでオセロ』の100首の中で〈永井祐〉を詠み込んだ歌を2首入れた。他に歌人では〈瀬戸夏子〉が1首、〈相良宏〉が1首だから歌人名詠み込みランキングでは堂々の第一位である。〈永井祐〉や〈瀬戸夏子〉を歌に詠み込んだのは個人的に愛着があることも理由のひとつではあるけれど、それとおなじくらいわたしから見てひとつ上の世代の象徴的存在であるからというのもあった。


意外に思われるかもしれないけれど、わたしが最初に永井祐の歌に魅力を感じたのは瀬戸夏子が運営していた〈短歌bot〉だった。『日本の中でたのしく暮らす』に所収の歌だと


だるい散歩の途中であったギャルたちにとても似合っている秋だった/永井祐

ゴミ袋から肉がはみ出ているけれどぼくの望みは駅に着くこと


あたり(確実にそれとわかるのが意外となかった)。他に、瀬戸夏子『現実のクリストファー・ロビン』に引用されている〈運動会の日のような朝 3Fのマックで食事を取る女の子〉〈ピンクの上に白でコアラが みちびかれるように鞄にバッジをつける〉あたりも歌集を読む前の段階の比較的早いタイミングで目にした記憶がある歌だ。並べた4首はいずれも自分から遠いもの、異なるものとの邂逅の瞬間がものの見事に示されている。


ところで、永井祐の歌の後の世代への影響というのは基本的には永井祐から男性歌人へという文脈で語られることが多いように思う。思う、というかわたしはそう考えてきた。しかし、今回あてもなくぼやぼやと書いているうちにいま挙げた4首のような歌と一番読み心地が近いのは最近の歌集だと寺井奈緒美『アーのようなカー』のいくつかの歌ではないかと思い始めた。


だれのものでもなくなったマイメロディのキーホルダーが小枝に揺れる/寺井奈緒美

背景を書き込みすぎてくどくなる漫画のようにゆっくり歩く

立ち読みをしている人の首筋に虹色の縄をかける日差し

火事を見る人の背中はちいさくて帰るタイミングを探してる


寺井の歌の場合は遠いもの、異なるものとの邂逅の瞬間というよりも社会的な文脈ではグレーゾーンに位置するような事物や場面を一度その枠組みを外して捉えようとしている。エポケー(判断を留保すること、括弧を取り除くこと、色眼鏡を外すこと)という言葉は歴史的には写生の文脈で使用されてきたけれど、ここにあるのは価値観のエポケーと呼び得るような事態ではないか。

すこし話が逸れてしまったかもしれないけれど、わたしが永井祐から影響を受けたことのなかにはこういった物との接触の方法の仕方がある。これについてはもしかしたら永井祐の歌よりも永井祐が書いた土屋文明、佐藤佐太郎、玉城徹についての文章を読む方がいいかもしれないけれど。