2022年10月30日日曜日

〈文学〉が遠いわたしへーー2022年の短歌について

「過去や歴史はいわば時間的に手の届かないものであり、光や闇、心は空間的に手の届かないものである。著者(水沼注:大辻隆弘)の関心は、そのような今ここに形を持っていない物事に対して、ことばの世界でしかなしえない操作を施すことにあるのではないのだろうか。その動機には、届かないものへの憧憬があり、それらにことばの上で形を与えたり、あるいは形あるものと形なきものの境界を崩したりといった操作は、現実世界において届かないもの、届きようないものを、ことばの世界において手元に引き寄せようとする意志の表れではないだろうか。」山川築「ことばへの信頼」(大辻隆弘『水廊』歌集評)短歌同人誌「波長」創刊号

山川がここで述べている営みを端的に一言で〈文学〉と呼ぶならば、わたしは〈文学〉に批判的である。いや、わたしにはその〈文学〉こそが「現実世界において届かないもの、届きようのないもの」に他ならない。〈文学〉が「届きようのないもの」であるわたしには「ことばの世界でしかなしえない操作を施す」とは、実際にどういうことなのかが皆目わからない。ところで、あなたは渡辺松男が好きだろうか? そうであるならばあなたは〈文学〉に肯定的ということになる。わたしは〈文学〉に批判的なので渡辺松男を好まない。渡辺松男を好まないので〈文学〉に批判的である。

「そもそも短歌は「文学」である必要はあるのだろうか? わたしは、短歌は、(自己を表現してこそ、という)「文学」である必要はとくにないと思っている(そしてまったくおなじくらい、同時に、短歌は「文学」であってもいい、とも思っている)。」(瀬戸夏子「人がたくさんいるということ」「文學界」2022年5月号)

どのような実感から出発するにせよ短歌を読み書きする人間がここ数年で増えたことは否定のしようがないが、「文學界」という文芸誌で短歌特集が組まれたことが象徴するように、ここ数年で増えたのは「文芸」としての「短歌」を好む人間の数なのだと思う。あなたは文芸が好きだろうか? 文芸とは、「言語によって表現される芸術の総称。詩歌・小説・戯曲などの作品。文学。」(goo辞書)のことである。あなたは「言語によって表現される芸術」としての「文学」である「短歌」が好きですね?

現在の短歌シーンにおける雑な二項対立構造として「言葉派」VS「人生派」(藪内売輔)「夢」VS「生活」(青松輝)のふたつが名高いが、わたしはここに瀬戸夏子のふたつの発言「「文学」であってもいい」短歌」 VS「「文学」である必要はとくにない」短歌」、「大森静佳」(スクール)VS「永井祐」(スクール)(第八回現代短歌社賞選考座談会 「現代短歌」2022年1月号)も加えたい。

ところで、この議論で現状得をするのは「言葉派」「夢」側の短歌実作者である、とわたしは考えるが、これらの二項対立が、短歌の歴史上、圧倒的マジョリティだった「人生派」とその延長線上にある「生活」「体感リアリズム」(特集「Anthropology of 60 Tanka Poets born after 1990」対談 大森静佳×藪内亮輔「現代短歌」2021年9月号。なお、対談内において、藪内は「体感リアリズム」の裏表になる概念として「祈り」「ヒロイズム」という言葉を使用している)が先行した上での言説であることには注意する必要があるし、冒頭で〈文学〉に批判的だとは述べたが、なにもわたしは〈文学〉との二項対立上で議論をしたいわけではない。わたしがしたいのは短歌一首上での議論である。

「認識をことばに移し替えるとき、なにを認識したかだけでなく、どのように認識したのかもおのずと表現される。先に引用した歌(水沼注:のつちえこ、池田輔、水沼朔太郎の三首)は、それぞれに題材も詠まれ方も異なるけれど、認識の仕方、過程を表現している点で、指向が似ている。

歌を読み解くことで、世界がどのように認識されているのかが明らかになっていく。それは、歌を読むという行為の刺激的な部分のひとつであり、他者の存在と世界の豊かさを濃密に感じる体験でもある。筆者はそんな体験をさせてくれる歌が好きだ。」山川築「認識の歌」「未来」2022年9月号

短歌は一首が読まれる際に「既存の社会的・文化的通念」が前提とされ、往々にして「マジョリティの了解の範疇へと回収され」てしまうことは既に小原奈実が指摘している(「沈黙と権力と」「短歌」2019年10月号)が、小原の文章で引用されているのが〈ゆふぐれに櫛をひろへりゆふぐれの櫛はわたしにひろはれしのみ/永井陽子〉であるように(と、書いてしまうのはあまりに意地悪だろうか)小原の議論もわたしには〈文学〉である「短歌」の話であるように思える(念の為、付け加えると、そのことの価値を否定するつもりは毛頭ない)。それに対して、上記の山川の文章は〈永井祐の模写をしている〉わたしのような実作者にも勇気を与えてくれたし、わたしが口にする「永井祐」とはつねにこのレベルでの話だ。

モデルケースに「永井祐」を立てることで生まれる問題点については、瀬戸夏子が批判的に指摘し(「死ね、オフィーリア、死ね(中)」「短歌」2017年4月号)、平岡直子がユーモアとして表現している(「パーソナルスペース」「歌壇」2022年1月号)。また、実作面においては、仲田有里『マヨネーズ』との読み比べや、永井祐だけでなく斉藤斎藤的袋小路のアップデートとして、乾遥香の歌群を読むことが有効だろう。補足として。今回は、個人的な優先順位が低かったので言及しなかったが、「短歌ブーム」的な文脈では、宇都宮敦『ピクニック』が重要な一冊だと考える。