2020年1月29日水曜日

(たぶん)(ひとりで)週刊短歌最終回

1月28日(火)   水沼朔太郎
実家から満員電車で朝帰り。9時から12時のあいだにガス点検の予約、それも2回不在後にメール予約を入れたものがあるのでタイトな気持ちで家に戻る。早朝に母親とふたりで半分寝ぼけながら食パンとコーヒーとヨーグルトを食べるのは高校3年間の習慣だったので思わず「懐かしいな」と口にしそうになるが、いまの母親と懐かしさを共有するのはまずいと直感的に判断して言わないでおく。母親の時間つぶしとわたしの荷物削減のためにフィール・ヤング2月号は置いていく。

ガス点検を終えて午後から多賀盛剛さんと連短歌会「トペ・スイシーダ」vol.1。結局、人が集まらなかったので試作的にふたりでやってみたり今後のことについて話し合ったり。このあいだのツイキャスで読めなかった〈どの舌も這うたび肌は焼けていたずっと心は焼跡なのに/坂井ユリ〉は「慰安婦」視点の歌なのではないか、との指摘を受けた。確かにそれだと〈どの舌〉という複数形のニュアンスもつかめる。基本的に一人称視点で体感をベースに読む自分の読み方についても反省する点があるというか、普段はそういった点についても注意しつつ読んでいるのでどうして抜け落ちてしまったのか……(考えられる点としては上句と下句の視点の切り替わりを読めなかった)。ガス点検と歌作の待ち時間に『完全版 韓国・フェミニズム・日本』からチョ・ナムジュ「家出」とユン・イヒョン「クンの旅」を読んだ。食べ物が美味しそうだったり登場人物の描き方などから「家出」の方が好みだったが、どちらの話も日本の話としても読めるところに遠さよりも近さを感じた。 

2020年1月22日水曜日

(たぶん)(ひとりで)週刊短歌第10回

広告   連短歌会「トペ・スイシーダ」vol.1
多賀盛剛さんと一緒に連短歌会という歌会をはじめます!連詩の要領で、連句の要素なども取り入れながらみんなで短歌の即詠をする、という字面上はちょっとややこしいですが、おもしろくなりそうな会です。会場にはAlexaもいるよ(水沼)

即詠ていうもんを、
インプロヴィゼーション
ていわれるような
もんに
ちかづけたいていう
ゆめがあります。
(多賀)

来週の火曜日の午後ですが、予定空いてる方いたらぜひ参加してほしいです。短歌はその場で作るので歌の用意はいらないし、評の時間もたぶんないので緊張することもありません。試行段階もいいところですが、トペ・スイシーダはスペイン語で体当り+自殺者を意味します。好奇心だけ携えて来てください(水沼)

連短歌会「トペ・スイシーダ」vol.1
1月28日(火)13時~17時
場所は新大阪、参加表明はtwiplaまで。



内容面についてちょっとわかりにくいということであればDMなどで遠慮なくご質問ください(と言いつつ、即詠で短歌を連ねていく、以外はまだまだ流動的で、逆にいえば、即詠で短歌を連ねていくだけの会です)

2020年1月15日水曜日

(たぶん)(ひとりで)週刊短歌第9回

今週読んだmen's短歌   水沼朔太郎

空港のそばにいるからペルーとか、普段は遠いところが近い
油彩画の画面の中に梨がある これ以上言うことができない
空調の直接当たる席にいて全くその通りだと感じる
/佐久間慧「still/scape」短歌同人誌「はならび5号」(2014年)

駐輪場へ抜ける近道 高架からここだけ垂れてくる謎の水
雲に月すっぽり隠れてしまってもしばらく後ろをひろく感じた
近づいて来るサイレンの遠ざかる再現性の低い鼻唄
/斉藤斎藤「湾岸をゆく」『神楽岡歌会 一〇〇回記念誌』(2015年)

雪に混じり小林秀雄も降ってきて新幹線は運休である/渡邉瑛介

渡邉くんの歌(2015年発表)をあらためて見たときにいまってあんまりこういう短歌見ないなってなったのだけど、ウゾームゾームはわりとこういう系譜ではないか(水野さんは毎回水野さんにとってのナウいものが違うなって印象だから重なったり重ならなかったりするんだけど)。〈モノ〉〈概念〉〈感情〉〈景色〉が等価な感じ。等価ってことがフラットを意味するわけではないのは慣習的にこれらのものにわたしたちが価値付けを行っているからだからだけれど、そこを等価にしてしまうことで見えてくる違和。

革命が見たいコールスローが嫌い宝石商の知り合いいない/瀬口真司

晩節を三ツ矢サイダーべたべたとバイトがいつもくれたのど飴/眞子和也

役割から逃げたい口が忙しいふりしてさばく知多ハイボール/水野葵以

ネットプリント「ウゾームゾーム」vol.6 

かまぼこが子どものぺニスに見えだして色とかやわらかさとか醤油で
/吉田竜宇「牡(眠コ湯五かお少こ心黙前海5」『神楽岡歌会 一〇〇回記念誌』

手のひらにいくつ乗せても楽しいよ茄子のかたちをした醤油差し
/五島諭『緑の祠』

秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは
/堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』

手の甲にしょうゆと書けば書くときのわずかな痛みごと忘れない
/山階基『風にあたる』

花水木のわいわいで思い出せたけれど、堂園さんの秋茄子の歌も「両手でひとつ」か「片手にひとつずつ」かで読みがわかれている。わたしは前者の読み筋でこれまではシンプルにそうイメージできるから、としか言えなかったけど、この〈秋茄子〉ってわたしの中では単一のファルスのイメージ。だから〈秋茄子〉は両手でひとつでなければいけない。

秋明かり もつとも静かな憎しみで花瓶のなかの水みたしきる
/藪内亮輔「落魄」『神楽岡歌会 一〇〇回記念誌』

長袖の黒い服を着てまっすぐにコーヒーゼリーを掬い上げたい
/永井祐「笑いやすい」『早稲田文学増刊号』「笑い」はどこから来るのか?

この歌、いまのひとつの読み方のモードに沿わせるとまず歌の設定そのものをおもしろがり、一段落ついたところで〈長袖〉や〈黒い服〉〈コーヒーゼリー〉などのディテールに着目して不穏さを感じとる、ぐらいだと思うんだけど、それではあまりにおもしろくないと思う。〈まっすぐに〉というのが肝ではないか。この三句目があることでこの一首は屹立し、様々な反応に横槍を入れる。その様はひとつの顔というよりひとつの姿勢を示している。

押し扉に負けていびつに曲がりたるわが手首なり沢庵に似る
/丸地卓也「鷗がさらう」『歌壇』2020年2月号

〈沢庵〉は切る前のぶよぶよのやつをイメージして読んだ。〈わが手首なり沢庵に似る〉と「な行ら行」の活用の順序(なり→にる)と句の順序(4→5)とがシンクロしていてそれが〈沢庵に似る〉にさらに説得力を付与しているような印象を与える。〈沢庵に似て〉だとまったく駄目なのだと思う。

広告   連短歌会「トペ・スイシーダ」vol.1

多賀盛剛さんと一緒に連短歌会という歌会をはじめます!連詩の要領で、連句の要素なども取り入れながらみんなで短歌の即詠をする、という字面上はちょっとややこしいですが、おもしろくなりそうな会です。会場にはAlexaもいるよ(水沼)

即詠ていうもんを、
インプロヴィゼーション
ていわれるような
もんに
ちかづけたいていう
ゆめがあります。
(多賀)

再来週の火曜日の午後ですが、予定空いてる方いたらぜひ参加してほしいです。短歌はその場で作るので歌の用意はいらないし、評の時間もたぶんないので緊張することもありません。試行段階もいいところですが、トペ・スイシーダはスペイン語で体当り+自殺者を意味します。好奇心だけ携えて来てください(水沼)

連短歌会「トペ・スイシーダ」vol.1
1月28日(火)13時~17時
場所は新大阪、参加表明はtwiplaまで。  

2020年1月8日水曜日

(たぶん)(ひとりで)週刊短歌第8回

引用でふりかえる2015年2016年の短歌   水沼朔太郎

短歌同人誌「かんざし」

創刊号(2015年)

どうせなら宇宙へ行ってヘルメット越しに詩的な唇を読む/緒川那智

欄干に一人の影のゆれやまず肋骨を握られたやうだよ/村本有

終点は両端にあるはずふたりいつまでも待てるだろういつまで/北村早紀

二・三句目の〈ある・はずふたり〉の箇所がまずおもしろい。句跨がりというよりは関節外しのような趣きがある。下句は〈いつまでも待てるだろういつまでも〉と字余り気味にリフレインさせることで余韻を作ることもできたはずだが、そこが〈待てるだろういつまで〉と切り締められることで〈いつまでも待てるだろう〉というひとまずの未来への意志と〈いつまで(待てばいいの)〉という未来への意志のさらにその先の絶望とが定型の上で拮抗する。〈いつまでも〉が字余りだから見せ掛けの拮抗ではあるけれど、だからこそ。

雪に混じり小林秀雄も降ってきて新幹線は運休である/渡邉瑛介

まっさきに夏野原きて投げキッスの飛距離を伸ばす練習をする/工藤玲音

第二号(2016年)

当たらない七億円の半分が親に行くといふ君の寄せ箸/村松昌吉

昨日より可愛くなったはずなのにわたしと気付かれて驚いた/石井松葉

齧っては忘れるけれど早秋のいたるところで味をみておく/小野みのり

早朝ワンオペレーションにまかないをゲームのように食う一分で/森本直樹

ナチュラルに死にたくなれる 似たようなビルにおなじく似たような窓/安田茜

2020年1月1日水曜日

(たぶん)(ひとりで)週刊短歌第7回

わたしの好きな瀬戸夏子の歌   水沼朔太郎

再演よあなたにこの世は遠いから間違えて生まれた男の子に祝福を
/瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.』

下句〈間違えて生まれた男の子に祝福を〉のメッセージ性が強いから〈あなた〉と〈男の子〉が=みたいに見えるかもしれないけれど、どこまでいってもこのふたつは重ならない、テクスト上のその事実に救われる。それは〈この世は遠いから〉という接続によるものが大きいと思うけれど、同時に〈再演よあなたに〉と〈間違えて生まれた男の子に祝福を〉とを別々のわたしへのメッセージとして同時に受け取ることもできる、という不思議なねじれがある。瀬戸夏子の歌は逆説的というわけではない。

かなわない頬っぺたのように夜の空 クリスマスと浮気は何度もしよう
/瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.』

シンプルな〈憧憬〉の歌だと思うけれど、〈夜の空〉ひとつとってもイメージが異なるから意外とむずかしい歌……なのだろうか……〈浮気は何度もしよう〉にそうはならないよ……となられると苦しいけれど〈浮気〉っていうのはクリスマスもハロウィーンもクリスマス・イブも、という〈も〉の気持ちのこと。その欲張りな感じというのは〈かなわない頬っぺた〉で端的に示される。引っぱたたきたくなるぐらい魅力的で、だけど、届かない、そのような〈夜の空〉である、と。この空には奥行きがある。到達点のように。クリスマス・イブとクリスマスとではクリスマスの方がより到達点としては高い。