2020年3月30日月曜日

短歌読書日記(3月下旬)

永田紅『日輪』

一年近く借りていていい加減に返さなければ、と。

人はみな馴れぬ齢を生きているユリカモメ飛ぶまるき曇天
ああ君が遠いよ月夜 下敷きを挾んだままのノート硬くて
輪郭がまた瘦せていた 水匂う出町柳に君が立ちいる
どこに行けば君に会えるということがない風の昼橋が眩しい
午後ひとり自転車の鍵をはずしいし君の視界に立ち止まれざりき
鍵束の木彫りの鯨ゆらゆらとまるい頭でついていくはず
不安不安とおくに花火あがる昼ひとのまぶたは閉じていたりき
午後の課をさぼりて遭うとう偶然を演習林に夢見ていたり
切実な時空は何度あらわれるたとえば疵だらけの木蓮の道
近づかば終わらむ思慕よ柳の葉引っぱりながらバスを待ちいる
思うとき結局人の印象は顔なり 腐ったトマトを捨てる
話すたび意味の褪せゆく傷ならむその一回を吾に費やせり
あずけたる頭(ず)のおもたさを君は言う対岸を犬はすすむ 無音で
修復をかさねて傷を深くする私たち 草刈りの匂いす
ねこじゃらしに光は重い 君といたすべての場面を再現できる

〈曇天〉という言葉がとても似合う歌集。初読時もそうだったけど、読んでると混濁とした気持ちになってくる。『北部キャンパスの日々』『春の顕微鏡』(第三歌集は未読)とどんどんシンプルになっていくような印象だが、『日輪』の特に前半は一首の構造も混濁とした印象がある。この辺りは、花山周子さんの日々のクオリアに詳しく書かれている(花山さんの比較的近い同時代の女性歌人の歌の変遷についての文章は実に読み応えがあった。果たしてわたしたちの年代でおなじことが可能だろうか)。


ああそうか日照雨(そばえ)のように日々はあるつねに誰かが誰かを好きで
近道にも遠まわりにも使われる草の道よく会う猫のいる
思いきることと思いを切ることの立葵までそばにいさせて
/永田紅『北部キャンパスの日々』



土岐友浩『Bootleg』

わたしが短歌をはじめてからでいえば永井祐なんかより断然歌の被引用数は多いのではないかと思う。そして暗唱性がめちゃくちゃ高い。そんなこともあってすっかり歌集一冊読んだ気持ちになり長らく通読はおろか手元に置いてもなかったのだが、このタイミングで通読。日々のクオリアで平岡さんが最後の一文に書いていた「ダイナミックな作風」のいわんとしていることが非常によくわかった。句跨がりが話題に上ることが多い印象だったけど、個人的には初句の入り方に特徴があるというか語りというよりはいきなり場面に連れていかれる部分がありそこもダイナミックさに繋がるのかなと。いま読めて良かった。

僕は物語でいたい 自転車を停めたところに切り株がある
気づいたら雲が出ていて、ひまわりの頸の硬さを教えてもらう
白鳥よ夜になったら暗くなるだけの静かな公園に行く
誓ったり祈ったりしたことはない 目を離したら消えていた鳥 
ついたけれどうまくひっかからなかった小さな嘘が転がっていく
あきらかな嘘とそうではないものを見分けて読んでいく航海記
いつまでも雨にならずに降る水の、謝らなくて正解だった
どうしようもなく暑い日にあおぐ手を止めてうちわの柄を嚙む子ども
待ち合わせしながらたまに目をつぶりカラスの長い鳴き声をきく
尽くすほど追いつめているだけなのか言葉はきみをすずらん畑
紙ふぶき大成功の、安田大サーカスというひとつの星座

2020年3月18日水曜日

短歌読書日記(3月中旬)

相変わらず、歌集を読んでいる。一時期は総合誌を追いかけるのが楽しかったが、ここのところは買いそびれていた歌集なんかをわりと必死に探し求めている。

「羽根と根」の創刊号と2号の合本のやつ『フラジャイル』『紅い花』『人類のヴァイオリン』などいま探すのむずかしい歌集の引用がけっこうある(それぞれの好きな歌集をリレー形式で評論する企画がある)ので重宝する。

というつぶやきからセレクション歌人の『辰巳泰子集』の存在を思い出しさっそく読んだ。「羽根と根」で佐々木朔さんが引用していた歌や有名歌の印象とはまた少し違う魅力をわたしは『紅い花』に感じた。とりあえず二十首選。

辰巳泰子『紅い花』
東西にのびて憩へるいもうとの四肢マシュマロのごとく匂へり
一枚の木綿のシャツの畳みかたを違へるごとく愛しあひをり
身につけし卑怯のひとつ昂りてなすことごとく青春と言ふ
ニス塗りわすれしところより崩れはじめたる積木と言ひて言へば易しも
理由なきあまきちからをたづさへて秋の海ごとうねる地球儀
ステンレスの刃(やいば)林檎にあてがひて保身のための語は聞き捨てつ
あをぞらにすつくと伸びて佇つ葦のいましあはせにまみれてもみよ
冬の陽を浴びて産毛のそよぎゐる男の肋骨(スペアリブ)を見てゐる
傘の柄を握る左手(ゆんで)がふるへても腸(わた)を破れぬ一語あるあはれ
わが内臓(わた)のうらがはまでを照らさむと電球涯なく呑みくだす夢
まう会はぬと告げたる歯にて蛤の吐ききれざりし砂嚙みてをり
ローソンの袋に顔も手も胴も入れて歩いてゐる夢の淵
争ひつかれて透明になる術ぞこれ風なぎわたる十字路へ来て
離(か)れたらむ自由たとへばふたたびを花につたなく泣かされてみむ
なにごとも水に流してしまふならやまとのみづは腐る日近し
空つぽの灰皿のうへに降(ふ)りきたる秋のたんぽぽのふかき着床
サバンナにけもの撃たれて死すまでの意識は白く奪へるテレビ
身障のひとの絵とこそおもふゆゑ救はれて佇つひとりかわれも
夕風と身をからませる一体の柳かとほくこの身けだるし
あさの眼は閉ぢてこそ聴けさいはてへ往きて戻れる静脈の音

『海量』『東北』を読んで以降、参照項として浮かびがちな大口玲子との違いについて。大口さんの歌は大口さんがひたすら燃えているのを読む感じだけど辰巳さんはあなたにも燃えるものあるでしょ?と一緒に燃えさせてくれる感じがある。この点については佐々木さんの「辰巳の歌は「情念の歌」と評されているけれども、決して情念に流されるままの歌ではない。むしろ激しい感情の流れの中にあって、自分がどのような状態かを確認し続けることで懸命に自分を押しとどめるための歌、情念にさらわれないための歌のように思える。」の指摘に同意する。大口さんの歌は情念を屹立させるような歌。助動詞を梃子に意外とリズムがシンプルなのも屹立性と関係あるのかなと思ったりする。

房総へ花摘みにゆきそののちにつきとばさるるやうに別れき/大口玲子


好きだった世界をみんな連れてゆくあなたのカヌー燃えるみずうみ
/東直子『青卵』

この歌、燃えているのはカヌーなのかみずうみなのか、という読みの選択肢を以前に聞いたことがあったけど、カヌーを含んだみずうみ全体を〈わたし〉が燃やしているみたいなイメージで読みたいなと思った。


わたしが一番最強だと思う短歌の初句は井上(法子)さんの〈どんなにか〉。まあこの〈最強〉にはいろんな意味合いがあるけれど。凄さがじわじわわかってきたのは武田さんの〈生きてさえいれば 〉。わたしとかだとこのフレーズがもしかりに単体で浮かんだとしても字余りで結句にすると思う(アララギのわれは、口語のぼくは、きみは落としみたいなニュアンスで)。それがこの歌では初句七音でもなくぴったりと〈5/7〉を埋めるようにある。実際、最初ピンと来なかったのは〈生きてさえいれば〉を初句七音みたいなリズムで読んでたからだ。〈生きてさえ/いれば 〉の凄さは令和版百人一首の平岡さんの評文の最後の二文に書かれてある。




上のとこれ以降は、以前に正岡豊さんがつぶやいていた短歌の初句と自尊心の話を思い出してのこと。

〈かわいい海とかわいくない海 end.〉(もとは一首として発表された)だと「ちょっとちょっとちょっと」ってつっこむことも速すぎて見ないこともできると思うんだけど(そういう意味でユートピアに近づけてるのは〈おりがみのあしのときめき不意に主役は刺されるものさ/瀬戸夏子〉だとわたしは思う)

他に短歌の入りで感動したのは土岐さんの幻の(?)名歌〈春の原っぱのさようならへその緒を切られたみたいにくすぐったい〉で第三回だったかの歌葉新人賞候補作中の一首なんだけど、この歌を瀬戸さんがbotで〈切られたみたいで〉と間違って入力してたのがまた感慨深いというか(瀬戸さんの第二歌集は〈て〉の歌集とも言える)

2020年3月12日木曜日

短歌読書日記(3月上旬)

再読含めていろいろと歌集を読んだ。

宇都宮敦『ピクニック』

「髪伸びた?」ってきかれてるのに好きよと言う ざまあみろって形の口で
はらってもはらっても落ちる砂ならば連れて帰ろう どこに? どこでも
お互いのからだをまくらにまるまって ねえねえ どっちの喉が鳴ってる?

これまで〈偶然性〉っていう文脈で『ピクニック』は読んでいたけど、意外と動物とダイレクトにコミュニケーション取りにいってる歌もあったし、なんというか、〈人間の動物性を否定しない〉みたいな表現の方が適切なのかな、と思った。

ということを、

嫌なやつになっちゃいそうだよ もうじゅうぶん嫌なやつだよと抱きしめられる

この歌、もっとふたりの会話っぽい感じかと思ってたんだけど、あらためて読んでみるとふたつの文にはズレがけっこうある、というか、字あけ以降がそれまでをかっちり抱きしめてしまうわけではないんだな。どちらかというと、そのまま、お客様二階へ的なノリで次の一首へ誘導される。

という読み筋から到達した。棚からぼた餅だ。



東直子『春原さんのリコーダー』
・出来事に直接的には介入しない主体
・幽霊的な視点
・御前田あなたさんの絵のイメージの源泉ぽさ

夜が明けてやはり淋しい春の野をふたり歩いてゆくはずでした
できたての名詞のようなあやうさで静かにこわれはじめる空よ
テーブルの下に手を置くあなただけ離島でくらす海鳥(かもめ)のひとみ
遠くから見ているからね紫の帽子を被って走りなさいね
袋小路に生まれた人の額へとくらくらするほど春はさしこむ
いたのって言われてしまう悲しさをでんぐりがえししながら思う
その箱をおっとりそっと手放せばやさしく癒えてゆくよ病も
信じない 靴をそろえて待つことも靴を乱して踏み込むことも
そうですかきれいでしたかわたくしは小鳥を売ってくらしています
はじめからこわれていたの木製の月の輪ぐまの左のつめは
花まつりに瞬くレンズ切なさはひとりの体の中にはなくて

遠くから見ているからね紫の帽子を被って走りなさいね
いたのって言われてしまう悲しさをでんぐりがえししながら思う
/東直子『春原さんのリコーダー』

状況に対する視点の取り方がすごい独特で柔道的な意味での新しい受け身の方法という感じがする。歌の中で変化を起こすんじゃなくて歌に通過させる。



天井の模様に犬をきくらげを見出して見うしなううたた寝/佐伯紺

廃村を告げる活字に桃の皮ふれればにじみゆくばかり 来て/東直子

〈見出だして見うしなう〉と〈ふれればにじみゆくばかり〉の時間の粘りが実は似ている二首(どっちも読むたびになんかと、と、なっていたが、ようやく合点)。



ミニチュアになれたらきっとのぼりたいきみの苗字にあるはしごだか/橋爪志保

〈ミニチュアになってのぼりたい〉とも〈ミニチュアになれたらのぼりたくなるだろう〉とも微妙に位相の異なる〈ミニチュアになれたらきっとのぼりたい〉という望み。ミニチュアになれたけど、のぼりたくなかったな……というまさかの可能性が残されているのがひとすじ縄でなくてなんかおもしろい。


高野公彦『汽水の光』

蟬のこゑしづくのごとくあけがたの夢をとほりき醒めておもへば
粘りある炎とおもふ鶏居らぬ小屋をほどきて日暮に燃せば
ゆふぞらの隈(くま)赤きかな仔つばめの骸置きたる道を歩めば
桃の実をひらきて濡れししろがねのナイフありけり病む者の辺(へ)に
きさらぎの銀河のそらに吹きおこる風はたはたとわが夢に入る
日ざし濃き基地をめぐりてわが額(ぬか)に刻印されし金網の影
秋の夜の底ひにありししろがねの冷たきはさみ踏みあてにけり

『春原さんのリコーダー』について検索かけたら引っ掛かった永井さんの昔のブログを、さらに遡ったら高野公彦の話が出てきた。ちょうど『短歌の爆弾』にも登場してたのでせっかくだからと。

少年のわが身熱(しんねつ)をかなしむにあんずの花は夜も咲(ひら)きをり/高野公彦

たんぽぽの河原を胸にうつしとりしずかなる夜の自室をひらく/内山晶太

巻頭歌の歌のモチーフが似ているというだけで高野公彦『汽水の光』と内山晶太『窓、その他』が繋がったんだけど、全体的な歌の立ち振舞いとかもわりと近いのではないかと思いつつ、じゃあなんで内山さんの歌は二十代も読むのかと考えてみると、限りなく現在に近い現代短歌ってずらしがあっても喜怒哀楽のキャッチーなフレーズが必ず入っていて〈観覧車、風に解体されてゆく好きとか嫌いとか春の草/内山晶太〉〈心底はやく死んでほしい いいなあ 胸がすごく綿菓子みたいで/瀬戸夏子〉逆に言うとポップライン(?)で受容されるかどうかってほとんどそれだけだともいえる。



洗脳はされるのよどの洗脳をされたかなのよ砂利を踏む音/平岡直子

最初読んだときは結句の〈砂利を踏む音〉がそれこそ歌会で読みを求められるように一呼吸置いて効いているのか効いていないのかを考えていて、〈音〉まで読み下してからその音をイメージしにいっていたのだけど、それでは完全に歌に対して立ち遅れしてしまっている。〈砂利を踏む音〉は景色ではなくて〈音〉なのだから、それは〈砂利〉(じゃり)の時点で鳴り終わっている。間違っても〈砂利を踏む音〉うん(じゃりじゃり)ではない。