2020年1月15日水曜日

(たぶん)(ひとりで)週刊短歌第9回

今週読んだmen's短歌   水沼朔太郎

空港のそばにいるからペルーとか、普段は遠いところが近い
油彩画の画面の中に梨がある これ以上言うことができない
空調の直接当たる席にいて全くその通りだと感じる
/佐久間慧「still/scape」短歌同人誌「はならび5号」(2014年)

駐輪場へ抜ける近道 高架からここだけ垂れてくる謎の水
雲に月すっぽり隠れてしまってもしばらく後ろをひろく感じた
近づいて来るサイレンの遠ざかる再現性の低い鼻唄
/斉藤斎藤「湾岸をゆく」『神楽岡歌会 一〇〇回記念誌』(2015年)

雪に混じり小林秀雄も降ってきて新幹線は運休である/渡邉瑛介

渡邉くんの歌(2015年発表)をあらためて見たときにいまってあんまりこういう短歌見ないなってなったのだけど、ウゾームゾームはわりとこういう系譜ではないか(水野さんは毎回水野さんにとってのナウいものが違うなって印象だから重なったり重ならなかったりするんだけど)。〈モノ〉〈概念〉〈感情〉〈景色〉が等価な感じ。等価ってことがフラットを意味するわけではないのは慣習的にこれらのものにわたしたちが価値付けを行っているからだからだけれど、そこを等価にしてしまうことで見えてくる違和。

革命が見たいコールスローが嫌い宝石商の知り合いいない/瀬口真司

晩節を三ツ矢サイダーべたべたとバイトがいつもくれたのど飴/眞子和也

役割から逃げたい口が忙しいふりしてさばく知多ハイボール/水野葵以

ネットプリント「ウゾームゾーム」vol.6 

かまぼこが子どものぺニスに見えだして色とかやわらかさとか醤油で
/吉田竜宇「牡(眠コ湯五かお少こ心黙前海5」『神楽岡歌会 一〇〇回記念誌』

手のひらにいくつ乗せても楽しいよ茄子のかたちをした醤油差し
/五島諭『緑の祠』

秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは
/堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』

手の甲にしょうゆと書けば書くときのわずかな痛みごと忘れない
/山階基『風にあたる』

花水木のわいわいで思い出せたけれど、堂園さんの秋茄子の歌も「両手でひとつ」か「片手にひとつずつ」かで読みがわかれている。わたしは前者の読み筋でこれまではシンプルにそうイメージできるから、としか言えなかったけど、この〈秋茄子〉ってわたしの中では単一のファルスのイメージ。だから〈秋茄子〉は両手でひとつでなければいけない。

秋明かり もつとも静かな憎しみで花瓶のなかの水みたしきる
/藪内亮輔「落魄」『神楽岡歌会 一〇〇回記念誌』

長袖の黒い服を着てまっすぐにコーヒーゼリーを掬い上げたい
/永井祐「笑いやすい」『早稲田文学増刊号』「笑い」はどこから来るのか?

この歌、いまのひとつの読み方のモードに沿わせるとまず歌の設定そのものをおもしろがり、一段落ついたところで〈長袖〉や〈黒い服〉〈コーヒーゼリー〉などのディテールに着目して不穏さを感じとる、ぐらいだと思うんだけど、それではあまりにおもしろくないと思う。〈まっすぐに〉というのが肝ではないか。この三句目があることでこの一首は屹立し、様々な反応に横槍を入れる。その様はひとつの顔というよりひとつの姿勢を示している。

押し扉に負けていびつに曲がりたるわが手首なり沢庵に似る
/丸地卓也「鷗がさらう」『歌壇』2020年2月号

〈沢庵〉は切る前のぶよぶよのやつをイメージして読んだ。〈わが手首なり沢庵に似る〉と「な行ら行」の活用の順序(なり→にる)と句の順序(4→5)とがシンクロしていてそれが〈沢庵に似る〉にさらに説得力を付与しているような印象を与える。〈沢庵に似て〉だとまったく駄目なのだと思う。

広告   連短歌会「トペ・スイシーダ」vol.1

多賀盛剛さんと一緒に連短歌会という歌会をはじめます!連詩の要領で、連句の要素なども取り入れながらみんなで短歌の即詠をする、という字面上はちょっとややこしいですが、おもしろくなりそうな会です。会場にはAlexaもいるよ(水沼)

即詠ていうもんを、
インプロヴィゼーション
ていわれるような
もんに
ちかづけたいていう
ゆめがあります。
(多賀)

再来週の火曜日の午後ですが、予定空いてる方いたらぜひ参加してほしいです。短歌はその場で作るので歌の用意はいらないし、評の時間もたぶんないので緊張することもありません。試行段階もいいところですが、トペ・スイシーダはスペイン語で体当り+自殺者を意味します。好奇心だけ携えて来てください(水沼)

連短歌会「トペ・スイシーダ」vol.1
1月28日(火)13時~17時
場所は新大阪、参加表明はtwiplaまで。