2019年11月20日水曜日

(たぶん)(ひとりで)週刊短歌第1回

短歌という矩形/短歌矩形の法則   水沼朔太郎

灯さずにゐる室内に雷(らい)させば雷が彫りたる一瞬の壜/小原奈実

カーテンに鳥の影はやし速かりしのちつくづくと白きカーテン/小原奈実

小原奈実が好きだと言う歌人に小原さんの歌で雷の歌とカーテンの歌とではどっちの歌が好きですか?と訊いたことがある。いい質問をしたなと我ながら思ったけれど、話の間が合わなくてその場では答えを聞けずに話は流れてしまった。この二首は小原さんの代表歌だと思うけれど、ではなにをもって代表歌か?と問われるとむずかしい。カーテンの歌は鳥の、しかもその影の速さが魅力的だ。けれど、最後には白いカーテンが残る。雷の歌も最終的に雷そのものは消えてしまう。そして、それが残した〈一瞬の壜〉という修辞に短歌が残る。短歌は矩形だ。そして、ほとんどの短歌一首は縦に長い矩形である。

灯さずにゐる室内に雷(らい)させば雷が彫りたる一瞬の壜/小原奈実

雷がさし、稲妻が走った。彫るように走った稲妻は上から下へ読むという短歌一首の運動の自然法則とも呼応して〈一瞬の壜〉の〈壜〉にソーダやコーラの壜のような縦に長いかたちをイメージさせる。さて、一方で〈室内〉は〈室内〉それ自体でまた矩形である。一首に「稲妻が走った」とは直接書かれていないことからこの〈雷〉が室内全体を覆うような光であると読むことも可能だろう。つまり、暗闇に稲妻が一本走ったのではなく室内空間の暗闇全体が光を帯びたと読む。そうすると、結句の〈一瞬の壜〉は縦に長いではなく隕石が落ちた痕跡のような円形の窪みになる。縦に長いことと面積が生じること。前者は上句から下句へという一首の運動を〈一瞬の壜〉=「稲妻」と解釈する。後者は〈ゐる〉〈たる〉からつづく右回りの円環が〈壜〉として着地する。このとき短歌一首のイメージは最後の最後で窪むがそれも一瞬の出来事だ。短歌は矩形に戻ろうとする。

雷を窓ガラスごと見てしまう四角く腕をかためた私/椛沢知世

例えば〈カーテンに遮光の重さ くちづけを終えてくずれた雲を見ている/大森静佳〉では〈カーテンに〉〈重さ〉を見ることで内側と外側を分断し、室内の外側を見せることに成功している。だが、この一首では〈私〉自身が〈雷を窓ガラスごと見てしまう〉ことによって仕切り板そのものになる。仕切り板は正確に挿されなければならない。だから〈私〉は〈四角く腕をかため〉る。短歌は矩形を志向する。

カーテンに鳥の影はやし速かりしのちつくづくと白きカーテン/小原奈実

最後の一首。この一首はあたかも短歌が矩形であることを忘れてしまったかのような一首だ。鳥の、しかもその影の速度のみを伝える。しかし、と思う。カーテンはそれ自体では風に飛ばされてしまう危険性がある。風に飛ばされてしまうのも決して悪いことではないが、カーテンはカーテンであろうとする。カーテンがカーテンであるためにはカーテンレールが必要不可欠だ。カーテンレールがあることによってカーテンは矩形をかたち作ることができる。白いカーテンが白旗のように一度揺れ、静止する。