2019年7月22日月曜日

定型と力みーー大森静佳の近作について


せっかくリアルタイムで追えているのに批評されたり広く読まれたりするのは歌集としてまとまったときというのはあまりにも惜しいことだと思う。もちろん反対にたとえば花山周子『林立』のように歌集としてまとまったことで自分がまだ短歌を始めてさえいなかった頃の歌群を読むことが可能になることもある。要は、どちらもタイミングなのだけど、せっかくなのでいま熱心に追っている歌人のひとりである大森さんの『カミーユ』以降の歌をすこし読んでみたい。

と、書き出しておいてあれなのだが、まずは良くない歌について見てみたい。


おもいつめ深く張り裂けたる柘榴あなたの怯えがずしりとわかる

しんとした部屋でお米を磨いでいる 愛が反転したら吹雪だ

/大森静佳「ミイラ」『京大短歌』25号(2019年5月)


下句の〈あなたの怯えがずしりとわかる〉〈愛が反転したら吹雪だ〉に注目されたい。もちろん〈ずしりと〉や〈反転したら〉を文字通り受け取ることもできるだろう。そうすれば、〈ずしりと〉という表現によってずっしりとした感じが伝わってくる(〈わかる〉は読み手が〈わかる〉ことを手助けする単語でもある)。あるいは、〈反転したら〉を文字通り〈反転〉として読み〈愛〉と〈吹雪〉との反転を楽しむ。そうした読みはひとつの読みとしては決して否定されるものではない。しかし、ここには力みが発生しているように思う。誰の力みか?といえばもちろん作者の力みなのだけれどそもそも定型自体がひとつの力みだと考えることもできるだろう(短歌に慣れていない人の読み上げるぎこちない5・7・5・7・7の発声を思い出されたい)。力みにさらに力みが重なる。一方、こんな歌はどうか。


いつだって悔しさは勇み足で来る青すぎるカーディガンを干して

/大森静佳「アナスタシア」『文學界』2018年12月号


〈悔しさ〉を感情の力能と捉えた上での話になるが、この歌では文字通り〈悔しさ〉という感情の力能が〈勇み足〉で来てしまったがために文字面では突き抜けてしまった力みが定型の上では適度に脱力化され歌に奥行きを作っている。〈青すぎるカーディガンを干して〉という〈バスタオル2枚重ねて干している自分を責める星空の下/仲田有里〉と比べればあまりにも清々しいフレーズが後に続くのがなによりの証拠だろう(〈青すぎるカーディガン〉に清々しさを感じたのはこの連作に添えられている山元彩香の写真に拠る部分も大きいことは断っておきたい)。


ところで、『カミーユ』をリアルタイムからすこし遅れて読んだわたしが大森さんの歌で最初に感動した一首は『現代短歌』2018年10月号の〈両腕はロゴスを超えている太さふかぶかと波を掻ききらめきぬ〉だった。


両腕はロゴスを超えている太さふかぶかと波を掻ききらめきぬ

/大森静佳「熱砂」『現代短歌』2018年10月号


初読のときはそこまで読めていなかったのだが、この歌は「身体」と「言葉」(ロゴス)との二項対立的な歌ではない。むしろ最終的には〈ロゴス〉という一語にきらめきを与える一首だ。〈ロゴスを超え〉たところで〈ロゴス〉がお役御免とはならず両腕が波を掻いているまさにその場こそが〈ロゴス〉になっているのがこの歌のすごいところだ。


最後に『現代短歌』の作品連載から定型と力みの配合がうまくいっている歌をいくつか引用して終わりにしたい。




真夜中に観る映画には独特のすずしさがあって巻き戻さない

力を抜けば風の重さもわかるからしばらく肩に風をあつめて

傷つけてしまったことに動悸して秋だろう歯を何度も磨く

父母よ猫の木乃伊をつくりにゆこう水匂うソルトレイクシティへ

繭ごもる怒りのことを教えてよエスカレーターで手に触れるとき

表情のきりぎしにあなたはいてほしい夜風にしろく裂ける姥百合