2021年11月26日金曜日

『葛原妙子歌集』読書日記その1

 川野里子編『葛原妙子歌集』のゆるゆる読書日記。完璧主義なので完本所収の『朱靈』から読みます。

卓上に塩の壺まろく照りゐたりわが手は憩ふ塩のかたはら/葛原妙子『朱靈』

歌のなかで描かれる手が片手なのか両手なのかってこれまで意識したことがなかった。たとえば〈欲望がフォルムを、フォルムが欲望を追いつめて手は輝きにけり/大森静佳〉の手は象徴化されているようにわたしには思え、この手の具体性は問題にならない。また、同じ大森の〈彫ることは感情に手を濡らすこと濡れたまま瞳(め)を四角く切りぬ〉も四角く切ったという動作が描かれていながら手は抽象化されている。大森の手が時間の緊張(切迫)へ身を投じる一方、葛原の手は弛緩した空間への最後のピースとして現れてくる。葛原の一首に描かれる「わが手」をわたしは片手だと読んだ。結句の「塩のかたはら」から塩の壺とわが手とでペア(両)の印象を受けたからだ。いわゆるハンドサイズの調味料としての塩ではなく塩の壺とまで書かれているからもしかしたらこの壺はわたしの想像以上に大きく持ち上げようとすれば両手が必要になるのかもしれない。けれど、一首のなかで壺は穏やかだ。だからこそわが手はゆったりとかたわらで憩うことができる。もし仮にわが手を両手と読むとしても塩の壺とわが手とで両手なのだと思う。その他、〈卓にあるカツトグラスの花瓶のため細き手は二つにわかれて白し/杉原一司〉と比べて読んでも面白いのではないか。杉原の手は非人称を志向する。

床(ゆか)とほく滑らかに照る 銀貨を落せるところ銀の飛沫散る/葛原妙子『朱靈』

二句目までを面白く読んだ。この歌も照っている。ある意味マジックワードだとも思うが、照りというのはイメージ上の短歌空間の平面に少し奥行きを作るような言葉だと思う。この一首では一旦〈とほく〉と床の平面を伸ばしてからそこに丁寧に質感を与えている。他方、一字あけ以降はせっかく拵えた空間を台無しにしてしまったような感がある。〈銀貨〉の〈貨〉や〈飛沫〉は〈滑らかに照る〉ではなく〈とほく〉の仲間だと思うので。