2021年11月27日土曜日

『葛原妙子歌集』読書日記その2

 あな遠く市街の中空(ちゅうくう)にくるま流れ玉蟲ほどのひかりとなりゐき/葛原妙子『朱靈』

空は異字体ですが、わたしのスマホでは出ないのでそのままです。中空は「がらんどう」の意味で読みました。中空、山中智恵子の歌で何度か見たことがあってそれ以降、他の歌人の歌でちょくちょく見ることがあるのだけど毎度のように「ちゅうくう」読みか「なかぞら」読みかのルビがふってあって不思議に思っていたのですが、「がらんどう」の意味になるとまるきり意味が変わってくるから必要なんだとわかりました。「がらんどう」でない意味で読むと車が空中で浮かんでいることになる。けれども、そのイメージもあながち間違ってはいないというか、「あな遠く」で提示された短歌の空間は遠くを見る目になるので半分浮いているようなイメージにもなる。あるいは、わたしは普段運転しないのでわからないのだけど、天保山の高速道路の入口(かなり適当に書いてます)のような高低差のある視点を取ると中空=空の中ほど、の読みもできるのかもしれない。いずれにしても単純で直線的な遠さではないように思う。〈灯台が転がっているそこここにおやすみアジアの男の子たち/平岡直子〉を連想したりもした。あと、「なりき」ではなくて「なりゐき」なのが面白い。その辺りは「くるま流れ」の流れや中空のニュアンスを踏まえた上でなのかなと思う。

ゆふぐれと白燈のひかりわけがたく蛾は草いろのタオルに來る/葛原妙子『朱靈』

小中英之『翼鏡』に〈庭の上(へ)のうす雪ふみて雉鳩のつがひ来あそぶこゑなくあそぶ〉という歌があってこの歌の過不足のないところに感動するのだけど、下句の〈蛾は草いろのタオルに來(きた)る〉にも同じことを思う。いちゃもんをつければ草いろは直前の蛾から逆算されているのでは? とも言えるが、見立てとして落としているわけではなくスピード感を持って書かれることでタオルの上に蛾が来たことの方に焦点があたる。夕暮れと白燈のひかりってわけがたいのかしらと思って調べてみたら白燈蛾(しろひとり)という蛾がいるみたい。そうすると、夕暮れと白燈ではなくて夕暮れと白燈蛾とがわけがたくということになる。タオルの恩寵が凄い。

くさむらを刈りしが庭よりのぼりきて或影はふかく椅子に沈みぬ/葛原妙子『朱靈』

〈或影〉は「わくえい」と読むのだろうか。シンプルに「あかげ」「あるかげ」でいいのだろうか。どちらにせよ影に或るという修辞を被せるのが凄いなと思う。草むらを刈っているのだから外側から家のなかにある椅子を見ている感じだろうか。〈のぼりきて〉の段階で歌の運動は椅子側(内側)から発生しているようにも思える。同じページに〈めのまへにちかづくわが子の足小さし顔小さしふかき手提を下げたり〉という歌もあってこちらも深さが歌の核になっている。カバンの大小を歌った歌に〈君のかばんはいつでも無意味にちいさすぎ たまにでかすぎ どきどきさせる/宇都宮敦〉があるが、葛原の一首は大小ではなくて小ささと深さの対比になっている。なのだけど、冒頭の一首もそうだったようにこの視点もまったくイメージ不可能な視点かと言われると決してそうではない。ベタ塗りのような手提げの深さだと思う。